[サム]
2011年12月20日 08:30
第九のない年末なんて・・・。師走恒例の「ベートーベン第九コンサート」。
12月17日(土)12:00~14:00、晴海トリトンスクエア2F グランドロビー特設会場にて、田中祐子氏指揮「中央区第九の会 晴海トリトンスクエア(本)公演」が開催された。
毎年12月に「晴海トリトンで第九演奏を!」を合言葉に、今年で第5回目を数える演奏会。
今年は、第1部は中央区立佃中学校合唱部「くま」による合唱・中央区第九の会版「お江戸日本橋」が、第2部は東日本大震災で亡くなられた方々に捧げるフォーレ作曲「レクイエム」が、第3部はベートーベン作曲交響曲第9番<合唱付き>より第4楽章が演奏された。
「中央区第九の会」は中央区第九の会合唱団(中央区在住・在勤者により2007年7月結成された特別編成合唱団。高校生からシニアまで180人余が在籍。)と中央区交響楽団(団員約80人)とで構成。
[illy-ship燦壱朗]
2011年12月20日 08:30
10月、八重洲二丁目の八重洲ダイビル前に尾台榕堂のモニュメントができました。患者の子供がかわいらしく、口を開けています。
越後出身の幕末の漢方医尾台榕堂。このあたりに居を構えていたそうです。
来年の中央区観光ガイドに掲載され、検定試験に登場しますでしょうか?!
[巻渕彰/写楽さい]
2011年12月17日 18:41
武者絵や美人画、風景画、妖怪画、戯画、動物画など幅広いジャンルにわたり、その画風に異彩を放った浮世絵師・歌川国芳〔うたがわ・くによし=寛政9年(1797)-文久元年(1861)〕。本銀町(ほんしろがねちょう)に生まれ、晩年は玄冶店(げんやだな)に住み、終焉の地となった。現在、「没後150年 歌川国芳展」(2月12日まで、六本木・森アーツセンターギャラリー)が開かれている(写真上左)。日本橋で傑作を生み出した江戸っ子・歌川国芳がいま甦ってくる。
国芳は寛政9年(1797)、本銀町一丁目で生まれる。現在の日本橋室町四丁目で神田に近いところである。本名井草孫三郎。文化5年(1806)、12歳のとき歌川豊国に認められて弟子入りしたという。初代歌川広重は同い年で、やはり、当時隆盛の歌川派豊広門人。文政10年(1827)31歳のとき「通俗水滸伝豪傑八百人之一個」シリーズが大当たりして、武者絵で地盤を固める。画面いっぱいに登場人物を描いたダイナミックな構図が人々を魅了したようだ。天保13年(1842)には天保の改革で風俗取締りから役者絵・遊女・芸者などを描けなくなり、そこから戯画や風刺画などに奇才を発揮していったといわれる。
一見、落書き風に見える絵も、実は役者衆を描いたことを見る人は分かってしまう、という滑稽な反骨魂を表している。人の姿を寄せ集めて人物画を作り出すなど、奇想天外な画風で、笑いと遊び心の世界を天真爛漫に描き込んでいった。猫を題材にした作品も多い。国芳の絵は、タウン誌月刊『日本橋』の表紙になっているのでお馴染みかもしれない。近ごろ話題なのが「東都三ツ股の図」(国芳展では後期展示)で、中洲から深川方面を望み、高くそびえ立っている櫓が江戸のスカイツリーか、と思わせる情景だ。
女流劇作家の長谷川時雨は著書『旧聞日本橋』で、国芳について、父(深造)の昔語りとして書いている。
「玄冶店にいた国芳が、豊国との合作で大黒と恵比須が角力(すもう)をとっているところを書いてくれたが、(父は)6歳か7歳だったので、何時の間にかなくなってしまった」「国芳の家は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮らしかただった。(以下略)」(岩波文庫版から)。父深造の挿絵「浮世絵師国芳の住居」(部分=写真上右)も載っている。
嘉永6年(1853)、57歳のときに新和泉町玄冶店(現・日本橋人形町三丁目)に居住し、文久元年(1861)この地で65歳の生涯を閉じた。現在、玄冶店跡には中央区教育委員会説明板が立っているが、国芳の記述はない(写真下左)。墓は小平市上水南町の日蓮宗中将山大仙寺にあり、一勇斎国芳の名が刻まれている(写真下右)。同寺は文禄4年(1595)八丁堀で創建され、正保元年(1644)浅草に移転し、のち戦災に遭い、昭和23年(1948)現在地に再建されたという。●巻渕彰
[滅紫]
2011年12月17日 08:30
「元禄忠臣蔵」を観た翌日、平成中村座で「松浦の太鼓」を観ることに。「義士外伝」の中でも「四谷怪談」と並んで上演回数の多い人気演目。本所の吉良上野介の隣屋敷に住む松浦の殿様が中々討入しない大石内蔵助にいらだっていたが、聞こえてきた太鼓の音に「山鹿流の陣太鼓じゃ!」と言って指を折って太鼓の数を数える場面や「助太刀だ」と興奮して家臣に止められる場面で知られている。浅草の中村座で上演されると本所が近いので「ご当地物」といった気分になれるのも嬉しい。
この芝居の中で大きな役割を果たすのが「俳句」。発端の「両国橋の場」で雪の降る師走、俳諧師匠の宝井其角が笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾に偶然出会う。哀れな姿を気の毒に思った其角は松浦侯から拝領の羽織を与え、「年の瀬や水の流れと人の身は」という発句を向けると源吾が「明日待たるるその宝船」という付句を返して立ち去る。松浦侯は意味がすぐにわかり、その時陣太鼓の音が聞こえてくる。
「江戸名所図会」にも記されている三囲神社の雨乞いの折に作ったといわれる「夕立や田をみめぐりの神ならば」や「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」などの句を残し、蕉門十哲のひとりとして名高い宝井其角は寛文元年(1661年)近江国膳所藩の御殿医、竹下東順の長男として江戸に生まれた。初め母方の姓、榎本を名乗り、後に宝井と称した。延宝初年(1673年)芭蕉の門人となり句集「田舎句合」「虚栗」「枯尾花」などを編む。芭蕉没後、派手さのある洒落風俳諧を推進し「江戸座」と呼ばれた。其角の住まいは南茅場町の薬師堂(智泉院)の近くにあり、ここで没した(1707年)
「梅の香や隣は荻生惣右衛門」という句も「江戸名所図会」に記されていて「・・・その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ」とある。荻生惣右衛門は荻生徂徠として知られている赤穂事件の沙汰を決める際柳沢吉保に進言したといわれている。
日比谷線茅場町駅のみずほ銀行入り口脇に「其角住居跡」の石碑がある。墓は江東区森下の長慶寺にあるそうです。生誕350年なので何かイベントがあったのでは?と検索してみたところ、昨年記念俳句の募集などがあったようです。
余談ですが「松浦の太鼓」(まつうらのたいこ)のモデルとされている松浦鎮信(まつらしげのぶ、こちらはまつらと読みます)は肥前平戸藩6万3000石の第四代藩主。芝居の中にも出てくるように山鹿素行との交流も深く、茶道石州流の一派鎮信流を始めた文化人。因みに隠居後278巻もの「甲子夜話」(大名旗本の逸話、市井の風俗等を書き綴った)を著した松浦静山(1760年~1841年)は九代目藩主。大名にしては稀な剣の達人で野村監督の名言として有名になった「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに・・」はこの静山の「剣談」にある言葉だそうです。