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八丁堀から町奉行所跡へ

[小江戸板橋] 2012年4月29日 08:30

「与力、力士に鳶の頭(とびのかしら)」。

これが「江戸の三男」と言われていたといいます。

粋で、渋くて、かっこいい。

江戸の女性たちの、憧れの男性像だったようです。

新興都市江戸は、活気あふれる男社会。

女性の比率は、極端に低かったと言うじゃありませんか。

江戸城大奥には、2千とも3千人とも公方様のお世話をするお女中がいらっしゃると聞きますが、長屋で所帯を持てる者なんぞ、よっぽどご縁がなくっちゃ居りません。八つぁん、熊さんもみんな独り身。

さらに、輪をかけて、女たちが「江戸の三男」に夢中となった日にゃ、私んとこには、そのご縁とやらがいつ巡ってくることか。

 

相撲取りはもてるんだってね。昔も今も。

鳶の頭も、皮半纏でまといを担いだ若い衆を引き連れ、火事場に駆けつける姿を見たなら、胸がキュンとなっちまいます。

与力の旦那は、めっぽう強いんだって。

着流しに羽織姿、朱房の十手を帯に差し、独特の髷姿に、女たちが騒ぐのも無理はない。

町奉行配下の与力・同心といえば、「八丁堀」が代名詞。

組屋敷が八丁堀にあったことからついた、畏敬を込めた呼び名です。

 

「八丁堀駅」は、東京メトロ日比谷線とJR京葉線にあり、接続駅となっています。

駅を出ると、証券会社や銀行などが立ち並び、すっかり都会の街並みに変わっています。

「八丁堀の旦那」の足跡を見つけ出したいと思ったのですが・・・。

八丁堀3丁目17番9号の京華スクエア前に、中央区教育委員会による案内板が立てられていました。

「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」

古地図を探すと、北は日本橋川、東は亀島川、西は楓川、南を八丁堀に囲まれたエリアに、町御組屋敷という表記が数多くでてきます。

今でいう官舎は、相当な広さを有していたんですね。

現在、楓川は高速道路になり、八丁堀も桜川と名前を変えた後埋め立てられて、桜川公園などに名を残しています。

与力・同心は、屋敷地を医者や学者などに貸して家賃を得ることができました。

そうした人の集まりの中から、多くの文化人を輩出したといいます。

 

ここから目指すのは、与力・同心の勤務先である、北と南の両町奉行所です。

時代により、奉行所の位置や数に変遷があったようですから、現在、案内板が残る場所を目的地としましょう。

かつての江戸城を目当てにして、西へ進みます。

日本橋、銀座の目抜き通りを横切ることになりますから、粋な着流し羽織姿は、しばらく妄想の中に閉じ込めておきましょう。

 

町奉行所と同じ治安を預かる仕事という共通項でくくり、「警視庁広報センター」に寄り道してみましょうか。

京橋3丁目5番1に建つ、通称「警察博物館」。

警視庁の歴史を振り返れますし、白バイの展示が人気を呼んでいます。

 

目的地に戻って、まず、八丁堀から1.5キロほど離れた南町奉行所跡へ行ってみます。

JR有楽町駅の中央口を、東側に出てください。

有楽町イトシア、有楽町丸井入口に立ち、くるりと広場に目をやると、広場の西側に、二段の石垣が見えます。

石垣の右隅にはめ込まれているのが、「南町奉行所跡」の案内板。

大岡越前守忠相が執務をしていた跡なんですね。

案内板には、奉行所の間取り図や発掘調査時の写真も載っています。

ちなみに、出土した遺構の一部が、イトシア地下一階広場に展示してあります。

 

次に向かうのは、北町奉行所跡。

八丁堀からは、1キロほど。

JR東京駅八重洲北口に建つ、丸の内トラストタワーN館の東側。

この案内板は、まるで宝探しです。結構、見つけにくいですよ。

第一鉄鋼ビルディングとの間のプロムナード沿いにあります。

頑張って探してください。

 

さらに見つけにくい、もう一つの北町奉行所の案内板。

JR東京駅八重洲北口改札を出て、大丸デパートに向かい直進します。

デパートのガラスの壁面を左に進みます。

突き当たり、通路の基礎部分を注視してください。

発見すると、なんだか無性に嬉しくなりますよ。

では、またね。

 

 

 

浜町の染元 「高虎」

[ムーミン] 2012年4月26日 08:30

  日本橋浜町は、現在の隅田川に臨む「浜辺の町」であったことに、その名が由来します。

江戸時代、隅田川沿いには各藩の蔵屋敷が建ち並ぶと共に、職人の」町として知られていました。


 そんな浜町公園の前で、祭り半纏、手ぬぐい、合財袋、掛守りなどに 江戸の酒落を効かせた商品を多数制作している「高虎商店」の二代目 高橋欣也さんにお話しを伺いました。

 「浜町高虎」は 昭和23(1948)年に浜町にお店を構える以前から 人形町で代々染元の仕事をしていました。その時代からかぞえると実際には、高橋欣也氏は 六代目か七代目にあたるそうです。

 しかしながら、何代も続いてきた伝統に執着せず、自分の仕事をしていくことが大切だと思っているので、何代目かという事にこだわれないようにして仕事をしてきたそうです。

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 お店のスタッフは六名で、その内四名が職人さん。デパートなどの催し物での実演販売の要請が多いので、職人さんが其々 一回一週間の出張を二回受け持っています。

作り手が売り場にいて注文を受けるのが お客さんの好みなどにおいても信頼関係が出来てよいそうです。

今週も一人の職人さんが博多のデパート、もう一人は大阪のデパートです。お店には その月の催事出店スケジュール表が置かれています。


 以前は 呉服の染が中心でしたが、時代の流れで仕事が少なくなり、現在の手拭などの商品を手がけるようになりました。


手拭のデザインは、国芳の猫や北斎の富士などいろいろ、そして 歌舞伎の十八番などに江戸の遊び心をとりいれて デザインして染め上げています。

手頃の商品から、アート的なものまで沢山あり 店内を見渡しているだけで楽しくなります。

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浮世小路 高級料亭・百川

[御末] 2012年4月24日 08:30

嘉永7年(1854)2月10日、日米和親条約締結のための初交渉が行なわれました。
このとき、伝統に基づいた本膳料理を2000両で仕出したと
瓦版に書かれた当時の有名料亭はどこでしょう?

答は日本橋浮世小路の高級料亭「百川」です。
昨年の江戸文化歴史検定で出された問題でした。

百川が出来たのは明和・安永(1764~81)の頃。
天明(1781~87)には名の知られた卓袱料理屋となり、文化文政(1804~30)の頃には本膳料理の高級店として繁盛しました。
1人分の食事代金は最安値で、現在のおよそ1万円相当といわれています。

そんな百川も明治元年に廃業となってしまいました。
室町2-2と2-4の間、三越本店の斜め向かい側。
今は福徳神社がある場所が丁度百川があった所なのだそうです。
 

 

 月島の「あづまや」は 、下町風情抜群の ゲタ屋さんでした。

[kimitaku] 2012年4月13日 14:00

 いまどき、ありそうで、中々見つからないのが、「下駄やさん」だ。


 月島西中商店街を、「月島駅」からのんびり歩くと、垂れ幕が四の部にかわる十字路に、いつも笑顔で迎えてくれるお店がある。


下駄やさん 「あづまや」は、創業から4代にわたり履物の暖簾を守り続けている。

 

ADUMAYA.jpg 主人の 楠香一さんと 奥さんの「サッチャン」が、

この店の笑顔の源。


 行き交う人々に、「いい天気ですね」 「どちらへ・・・・?」「昨日はお世話。。。」と語りかけてゆく。

 呼びかけられたひとたちも、足を止め、笑顔で答え、月島の賑わいを醸しだす。


GETANOHAKIKATA.jpg「下駄」について伺うと、
はき方からの薀蓄、・・・・・・いや、本当目から鱗・・・。写真参照。

 

 足の指は奥まで入れないこと。 指で下駄を挟む。 こうすると歩きやすいし、疲れない。これで下駄と足とのバランスが取れるそうです。


GETANOHAKIKATA2.jpg 通信販売はしない、 とのこと。
お客さんの足を見て、鼻緒を挿げる。

そうしないと下駄が足になじみにくいそうだ。

私も昔、祖父母の履物を、思い出した。懐かしい形の(サッチャンの)下駄を見て、なにか風格もあり、またまた、目から鱗。


 この店には、あちこちに、粋が感じられる。小唄の募集広告、浮世絵、・・・。

「素敵ですね。。。」、とほめると、「イヤー 暦を切ったんだよ。。」と笑って答える。

 一緒に聞いているお客さんも大笑い。本物らしく見えるのは、主人の風格からかも。

 

GETAKOUGU.jpg

 主人が、「是非、見てほしいものがある。」と言って、工具箱の鋏と、クジ(抉)リ、を見せてくれた。


年代ものの鋼でできている。これ一本で気持ちよく、仕事ができるそうだ。今はこの工具も少なくなって、新しいものは望めないとのこと。


KASA1.jpg お店では、傘も販売している。100円とかの傘でなく、2000円以上の高価な傘。

 傘も本物は美しい。


  奥さんのサッチャンは、余暇に趣味を満喫している。  「落語」鑑賞  「ウエスタンダンス」など、お稽古事にも、下駄でカラコロと出かける。

何か、下町の「粋」が垣間見えてくる。

 

今年の夏は、佃島住吉神社の本祭り、その日を目指して一生懸命働いて、

祭に備えるそうだ。 二人とも氏子さんたちとの交流をとても楽しみにしている。

 

 帰り際、主人に、「下駄を長持ちさせるには」 と問うと、

上目遣いに 「はい、...ハカナイこと ですよ」   なんて、答えてくれた。

 

 皆さん  月島で、「カラコロ」下駄の音が聞こえたら、 「あづまや」さんが、すぐ近くですよ。

     

● 「あづまや」さん

住所  月島3-17-10   電話03-3531-0926

地下鉄大江戸線「かちどき」駅 月島駅から西中商店街へ・・・徒歩5分くらいです。    

 

 

 

 

  

 

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(43) 上野・清水観音堂「秋色桜」-元禄期、小網町の少女が詠んだ句

[巻渕彰/写楽さい] 2012年4月13日 08:30

桜の名所、花見客で賑わう上野・清水観音堂(きよみずかんのんどう)の境内に一本のしだれ桜が咲き誇る。石燈籠の脇に石碑と立派な句碑が建っている(写真上左)。句を詠んだのは、元禄のころ、日本橋小網町の「お秋」という13歳の少女であった。その俳号からこの桜を「秋色桜(しゅうしきざくら)」と呼んでいる。

 

句碑に刻まれているのは次の句で、台東区説明板によって紹介したい。

 

  井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔

 

0913_43_120410ueno_shushiki.jpg日本橋小網町の菓子屋の娘・お秋が、元禄のころ花見客で賑わう井戸端の情景を詠んだ。桜の枝に結ばれたこの句を、輪王寺宮が賞賛したことで、江戸中の大評判になった。

 

お秋は9歳で宝井其角の門下となり、俳号は菊后亭秋色と号した。当時13歳であったと伝えられる。以来、この桜は「秋色桜」と呼ばれている。

 

其角没後、その点印〔(編注)てんいん=俳諧の点者が句の評点のための押す、各自独特の印形。『広辞苑』〕を預かるほどの才媛であった。享保10(1725)没と伝えられる。

 

碑は昭和15(1940)10月、聴鶯荘主人が建てた。現在の桜は、昭和53(1978)に植え接いだもので、およそ9代目にあたると想像される。

 

この句碑の脇には井戸端(写真上右)が作られて、秋色桜には「ヤエベニシダレ(八重紅垂)」の標札が付いている。

 

其角は江戸の人。松尾芭蕉門下、江戸の蕉風派で「蕉門十哲」の一人。「其角住居跡」碑(写真下右)が日本橋茅場町の永代通りに面した所に建っている。お秋が住んだ小網町は日本橋川の北側で、其角宅とは至近距離にあったのだろう。

 

港区三田に和菓子店「秋色庵大坂屋」があり、同店のHPには由来などが掲載されている。●巻渕彰

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(42) 震災復興事業を振り返る-3〈公園編〉―今残る、貴重な都市空間

[巻渕彰/写楽さい] 2012年4月 8日 08:30

関東大震災から66カ月後の昭和5(1930)に復興祭を挙行した東京は、帝都復興事業で復興公園を各地に造成した。江戸期の火除け地に相当する公園地は、防火対策と避難場所確保から設けられたものである。区内に今も残る震災復興公園地は、過密な都市にあってオアシス的空間になっているとともに、防災広場でもある。

 

0913_42_120331sinsai_kouen.jpg震災復興大綱によって大公園と小公園が計画された。まず、大公園は隅田公園、浜町公園、錦糸公園の3公園であった。

 

当時の浜町公園はつぎのような状況であったそうだ。周知のとおり旧熊本藩細川邸の跡地である。

 

正面には噴水と噴水池。南側には児童遊戯場やプールがあり、東側は大芝生地の先にジョサイア・コンドル設計の記念塔が建つ。大川(隅田川)端は植樹され、東京湾が望める。総面積は約8600坪。

 

小公園は復興小学校とセットで開発された。再建された復興小学校は市内では117校に及ぶという。うち中央区(当時は京橋区と日本橋区)では25校が該当した。現在も常盤小学校、十思スクエア(旧十思小学校)などが存続し、東京都歴史的建造物に指定されている。コンクリート造りで耐火化された小学校に隣接して小公園がつくられた。

 

市内全体では52か所に小公園が造成された。当時の区内(京橋区・日本橋区)では以下の11公園であった。()内は隣接小学校

 

1.常盤公園(常盤小学校)、2.久松公園(久松小学校)、3.十思公園(十思小学校)、4.箱崎公園(箱崎小学校)、5.蛎殻町公園(有馬小学校)、6.鉄砲洲公園(鉄砲洲小学校)、7.京橋公園(京橋小学校)、8.築地公園(築地小学校)=現存せず、9.越前堀公園(明正小学校)、10.月島第一公園(月島小学校)、11.月島第二公園(月島第二小学校)

 

京橋公園には当時のコンクリート製2連式の珍しいすべり台が残っていたが、老朽化のため昨年(2011)撤去され、往時の写真説明板が建っている(写真下右)。現在でも復興公園の大半は、児童公園など地域コミュニティーの場や防災拠点として寄与している価値は大きい。開園当時の姿をわずかに残すのは文京区の元町公園という。●巻渕彰