[御末]
2012年6月27日 08:30
日本橋の袂にある「滝の広場」、ここは江戸時代間口5間の小屋あり、罪人の晒し場でした。
晒し場といっても死体などを晒すのではなく、罪人を朝から夕刻まで並んで座らせるものです。
最初の晒し刑は延享4年(1747)3月、津軽岩松藩江戸詰祐筆役の武士原田伊太夫と吉原堺屋の遊女尾上の心中未遂。
お互い恋に入れ込み、務めは怠りがちに、また借金で首がまわらなくなったためでした。
この事件を新内「帰咲名残命毛(かえりざき、なごりのいのちげ)」として敦賀若狭掾が書いています。
新内では心中をはかった直後、伊太夫の伯父が尾上と結婚させるために身請金を払いハッピーエンドになるというものです。
そんな不浄だった場所も現在では双十郎河岸があり、
そこから日本橋・神田川・隅田川へと船で川巡りができる素晴らしい観光地になっています。
[下町トム]
2012年6月22日 14:00
月島は今年で誕生120周年を迎えました。振り返れば、1892(明治25)年に月島第一号地として竣工してから、歴史を紡いできた月島の魅力を〝七不思議〟と題していくつかご紹介したいと思います。どうぞよろしくお付き合い下さい。
そもそも中央区は東京湾の埋立地のスタートとなった地域です。江戸時代初めには隅田川の河口に小さな島〔石川島〕があり、やがてご存知のとおり、1644(正保元)年に佃島が造成されました。その後、佃島の住民が中心となって、現在の築地の土地整備にも尽力しましたので、かれこれ400年近い土地造成の歴史があるわけです。
さらに時代が下って明治に入ると、佃島のさらに南の地域に土砂が堆積し水深が浅くなってきました。そこでこの付近の浚渫を大々的に行い、その揚げ土で新たに土地を造成したのが、現在の〔月島〕です。
東京湾の始めての埋立地ということで〔1号地〕の名が与えられました。その後、このナンバリングは継承され、現在の有明・台場地区辺りにまで広がっていったのです。首都高速湾岸線の〔臨海副都心出口〕は少し前まで〔13号地出口〕と称していました。これもかつての埋め立て計画の名残りです。
このあたりの歴史や文化を伝える特別展が、現在〔郷土天文館〕で7月1日まで開催中です。5月19日付けのブログで〝写楽さい〟さんが詳しく報じて下さっていますのでご覧下さい。けっこう見応えがありますよ。
◆郷土天文館特別展「月島百景」開催中 ~5/19-7/1~
さて、〔月島〕散策の出発地は主に〔月島駅〕になることが多いと思います。ぼくはかつてこの辺りに住んでいましたが、地下鉄有楽町線が1988(昭和63)年に開通するまでは都営バスしか公共交通がなく、けっこう不便でした。今は大江戸線も通って便利になりましたね。戦前戦後にかけては、都電が清澄通りを走っていて、住民の貴重な足でした。(写真は昭和43年ごろの「月島通り8丁目電停付近。現在の地下鉄勝どき駅周辺。イカロス出版『東京都電』より引用)
月島には中央区役所の出先機関として〔月島区民センター〕があります。図書館も併設しており、行政の窓口としてだけではなく、地域交流や学習の拠点としても親しまれています。
月島は人情味溢れる下町の風情を残しつつも、この10年くらいで大きく変わってきました。古い路地の長屋がだんだん少なくなり、マンションが増えてきました。
そんな変わり行く月島の横顔をこれからお伝えしていきたいと思います。
月島の魅力を再発見しましょう。
続きを読む: 月島七不思議~「序章」
[滅紫]
2012年6月22日 08:30
本日20日より小網神社に茅の輪が設けられた。「夏越の大祓え」が行われる6月30日まで設けられるとのこと。
ご高承の通り、年2回の大祓えのうち、大晦日は「年越しの祓え」六月は、旧暦の六月は文字通り秋を迎える節目に当たることから「夏越の祓え」と呼ばれ奈良時代からの宮中行事でもありました。現在でも多くの神社で行われている「茅の輪」の行事はこの「夏越の祓え」を代表する慣わし。「茅の輪」と呼ばれる「茅」(ちがや)を束ねた輪(直径2~3m)が飾られ、この輪をくぐると身が清められ疫病や罪が祓われるとされています。夏越の祓えに茅の輪を飾るのは「備後風土記」に記されている「蘇民将来」の説話(一夜の宿を貸してくれた蘇民将来にスサノオノミコトが茅の輪を腰につけると疫病を免れると教えた故事」に基づきこの伝承が今日の茅の輪くぐりの元になったと考えられているとのことです。
江戸後期の「東都歳事記」にも「神前、祝詞を奏し、神楽興行あり。神事終はりて参詣の輩、茅の輪を超えさしむ。河辺に隔たりたるところには盥に水を盛りて禊川に比するなり。この日庶人、紙をもって衣類の形に切りて、撫ものとし、川に投ず。」とあります。また文化年間の「諸国風俗問状答」の丹後国峯山領の答えには「輪を祓える時唱歌、水無月の夏越の祓する人は千年の命のふといふなり」「おもふ事みなつきねとて麻の葉をきりにきつても祓する哉」右二首の歌を唱して茅の輪を抜け申候」というのが見られます。これは拾遺集にある歌ですが、現在でも茅の輪くぐりの際唱えるといわれています。
半年間の身の穢れを祓うために神社にある「形代」(かたしろ)に生年月日、名前を書いて身を撫で神社に納めます。神社では納められた「形代」を「夏越の大祓え式」でお祓いし、川や海に流します。
小網神社の大祓えは6月30日。また波除稲荷神社では6月の大祭の後から既に茅の輪が設けられており、「大祓え式」は7月第一土曜日、今年は7月7日、午前中に大祓え式の後、午後から隅田川波止場岸壁より「海上形代流し」が行われます。従ってこの「大祓え式」までに神社に形代はお納めください。半年間の穢れを祓って気持ちのよい次の半年を迎えたいものですね。氏子でもないのに私は2社から形代をいただいてきました。穢れが祓われ過ぎたら!!どうなるのでしょうか?
この夏越の祓えに用いられるのが和菓子「水無月」。白の外郎生地に小豆を載せ三角形に包丁された菓子で小豆には悪魔祓い、三角の形は暑気を払う氷を表しているとのこと。京都では6月30日にしかいただかないものだとか。・・六月は何故かこの御菓子が出されることが多いので、私お茶のお稽古で既に2回いただいてしまいました。
写真は「築地高生」さんのもので六月一杯は作っていらっしゃるそうです。ひとつは杏の蜜漬です。
小網神社:日本橋小網町16-23 TEL3668-1080
人形町A2出口徒歩5分
波除稲荷神社:中央区築地6-20-37 TEL3541-8451
築地駅徒歩7分、築地市場駅徒歩5分
[巻渕彰/写楽さい]
2012年6月21日 14:00
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で好評開催中の第13回特別展「月島百景」~佃・月島・勝どき・晴海・豊海 水のまちの120年~では、同館初の地域密着・市民参加型企画として、だれでもが展示に参加できる「みんなでつくる月島マップ」(写真)が注目を浴びている。親しまれる郷土天文館をめざした新たな活動といえよう。
この月島マップは来館者や一般市民から寄せられた月島地域(佃、月島、勝どき、晴海、豊海)にまつわる話題を集めて、地図上に貼り付け、他にはない独自の地域情報を提供しようとするもの。
テーマは幅広く取り上げ、これまでに歴史的事物、見どころ、おいしいお店、町のかくれた名物――など、さまざまな情報が寄せられている。なかには東京スカイツリーと東京タワー、新旧両タワー競演が見られる場所など、ホットな情報も提供された。
月島マップづくりに参加するには、会場内のエントリーシートに情報を書き込み、応募箱に入れる。選定の上、地図に記入し、写真は館蔵のものや必要に応じて撮影して掲示される。テーマは自由なので、おすすめ情報を気楽に応募できる。
「こんな話題、あんな場所、多くのいろいろな情報をいただいて、皆さんと一緒に楽しい月島マップをつくっていきたいものです」と、同館学芸員は語っている。
あなたもいかがですか、「みんなでつくる月島マップ」に参加してみませんか。
会期は7/1(日)まで、特別展のみは入場無料。同展HP >>こちら ●巻渕彰
[織衣舞]
2012年6月21日 08:30
江戸時代このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があったところです。
屋敷は三方(北・西・南)が入堀に囲まれていました。これが「越前堀」と呼ばれて
いました。 越前堀の護岸は 石積みで、 今でも土中から石垣石が出土すること
があるそうです。 堀の幅は12~15間(20~30m程)あり、運河として用いられ 荷
を積んだ小舟が通っていたそうです。
明治に入り堀は次第に埋め立てられ 関東大震災後大部分が埋め立てられ、戦
後には完全に埋まってしまいました。 今では「越前堀」の名は「越前堀公園」に
見られるのみとなりました。
越前公園には遊具として ECHIZEN LINE という舟がつくられ その周りに象
・イルカ・ラッコがいます。 リアルなSLと自動車が配置されています。
霊巌島の由来
寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が霊厳寺
を創建し、一面の沼地に土地開発の手が入った。
寛永11年には 寺地の南方に越前福井藩主松平
忠昌が27,000余坪の浜屋敷を拝領した。
(中央区新川1.2丁目)
[杏葉牡丹]
2012年6月16日 08:30
銀座松屋から築地に向かう松屋通りの、歌舞伎座の裏あたりは、しょっちゅう通っているのですが、先日、マガジンハウスの先の厚生館ビルの前に『明治会堂跡』という説明板を発見!
「24年3月」となっていたので、比較的最近建てられたものとは言え、全然気が付きませんでした。
その説明板によると、かつてこの場所にあった「明治会堂」とは、明治14年に福沢諭吉の発案により建てられた、会食もできる演説会場で、東京随一と言われ、その収容人数は何と3000人!食堂は200席もあったそうです。
明治15年には立憲改進党の結党式が、また明治16年には、鹿鳴館に先駆けて、日本初の西洋式舞踏会が開かれたのだとか。
その後、福沢の所有から農商務省の手に渡って「厚生館」と改称され、明治23年に民間に払い下げられましたが、大正12年の関東大震災で消失してしまったのだそうです。
今も残る「厚生館」という名称には、そんな由来があったのですね。
ちなみに、厚生館ビルと隣のビルとのわずかな間には、「専修大学発祥の地」の記念碑があり、反対側の通りの角には、ジョン・レノンがとても贔屓にしていた喫茶店「樹の花」があります。
中央区は、大通りばかりでなく、ちょっと裏道を歩いただけでも、歴史や由緒のある場所ばかりなので、本当に【タイムスリップ】してみたくなってしまいますね!