[O傘]
2012年8月 9日 20:11
暑い夏、佃・月島地域の氏子が待ちに待った3年に一度の本祭り。江戸三大囃子の「佃ばやし」にのって、六基の大幟旗のもと、「獅子頭の宮出し」やハイライトの「宮神輿の船渡御」などが行われました。
今回の本祭り(例大祭)は、昨年の平成23年(2011年)の予定でしたが、東北大震災のため1年延びて今年となりました。天保9年(1838年)製作という八角神輿が老朽化のため、昨年(2011年)完成した二代目の新宮神輿の初めての「御霊入り」、「巡幸」がありました。
江戸時代の佃島の原形を保つ佃1丁目の町区画。そこには住吉神社があり、1丁目の氏子は「宮元」。祭りの準備・運営は「住吉講」が行い、1丁目を巡行する宮神輿は住吉講のメンバーのみが担ぎます。
1丁目にあるL字型の佃堀には、本祭りで佃1丁目町内に立てる大幟旗6本の棹(長さ約18m)と棹を支える抱木(だき)が、保存のために佃小橋の下に埋められていて、祭りの1か月前に掘り起こされ、本祭りの一週間前に大幟旗6基が設置されました。
合わせて町の家々の軒には住吉神社の「祭礼提灯」が下がり、1丁目の東側と南側に「黒木鳥居」と「又木」が臨時に設置されました。町神輿や獅子頭を安置する葦作りの「お仮屋」もあちこちに造られ、祭りのために新調した揃衣(そろい)の浴衣を着た住吉講の若衆(わかいし)や大若衆、世話役の待機するお仮屋もあり、祭りの雰囲気を盛り上げます。
「獅子頭の宮出し」
4日(土)午前10時、獅子頭の鼻先を掴むとご利益があるとのことで、宮元の若衆(わかいし)が、境内で待機する竜虎の2つの獅子頭めがけて隅田川の一の鳥居の方から参道を猛スピードで走ってきます。獅子頭は若衆によって境内を練り、神楽殿のお囃子舞台へもあがろうとします。男らしい勇壮な獅子頭の宮出しでした。
「船渡御」
昔は宮神輿を担いだまま隅田川に入る「海中渡御」を行ったそうで、歌川広重の名所江戸百景「佃しま住吉の祭」に、大きな神輿が裸の若衆により海中に担ぎ込まれる様子が描かれています。「海中渡御」は昭和37年(1962年)の本祭りを最後に行われなくなりました。
平成2年(1990年)、本祭りでは宮神輿を御座舟に乗せる「船渡御」に変わり、佃から隅田川を下り、月島地域の埋立地南端の豊海町の先を回り、朝潮運河を上りリバーシティ21を回って佃の出船地点に戻ります。
5日(日)の船渡御は、宮出しを行った新宮神輿が若衆により、少女像「みどりの風」の下の隅田川テラスから御座舟に担ぎ込まれ、午前7時、神職や宮元を乗せた御座舟を曳船がゆっくり引いて隅田川を下っていきます。感動のシーンです。大勢の観客が拍手でおくりました。
約1時間の船渡御の後、午前8時に 御座舟が中央大橋をくぐって姿を現すと、待機していた観客から拍手が起こりました。
着船すると、別の船が御座舟に横付けし、乗ってきた若衆が御座舟に乗り込み、宮神輿を担ぎます。大勢の観衆が見守る中、神輿が下船し、船渡御が無事終了しました。
江戸時代からつづけられてきた住吉神社の祭り。佃島の人たちの心意気を伝える中央区の大事な伝統行事として末永く伝えていってほしいと思います。
[サム]
2012年8月 9日 17:16
8月7日18時から銀座金春通りで能の奉納「第28回能楽金春祭り」が開催された。
金春通りは銀座8丁目の中央通りから一筋西側の通りで、江戸時代ここに能楽金春流の屋敷があり、明治以降も金春芸者(新橋芸者)が行き交う花柳界として知られ、現在も「金春湯」にその名を留めている。
「能楽金春祭り」は江戸文化を継承すべく、「金春通り会」と社団法人「金春円満井会」の共同主催により昭和60年に始まった。
15時から金春通りは車両通行止めとなり会場設営がスタート。
通りに沿って紺白の幕が両側に張られ、中央ステージを挟んで座布団席と椅子席がセッティング。
16時から無料の座席指定券が配られた。
18時に
委員長挨拶を皮切りに、能奉行(中央区長)挨拶、解説が済むと演能一行が入場。
今回演じられた演目は、「延命冠者」「父尉」「鈴之段」「弓矢立合」で、何れも千年の古儀を誇る「奈良金春」独特の能楽と聞く
。
尚8月1日~9日まで普段は新橋会館屋上に祀られている「金春稲荷神社」が一般の人も参拝出来るよう金春通りに移設されている。(写真右)
また8月1日~4日にはタチカワ銀座スペースにて「能楽講座」も開催された。
[kimitaku]
2012年8月 8日 06:31
8月3日から6日まで、佃島住吉神社で祭りがおこなわれました。
360年の歴史を誇る祭りは、さながら、江戸が、舞い降りてきたよう
に、
荘厳そのもの。
本佃の界隈は、提灯が、粋
に飾られ、神輿が通るたびに、
お囃子は鳴り響き、手ばたき、
声援、水かけが続き。
5日の八角神輿の、「船渡
御」は、江戸囃子の「テケテン
テン・・・・」が隅田川になり響き、朝焼けに色
を添えました。 月島、勝どき、豊海、晴海でも、神輿が巡行し、通りは
「おリャオリャ」の掛け声が、
ビルにこだましま
した。 今年の神
輿は、新調で、
3,600万円以
上とも。
水かけ祭りの
愛称そのもの、
若い人たちは、神輿の来るのが、待ち遠しく、自ら、友人通り客にも、水
を大いに振る舞い、その嬌声は、月島界隈の神輿の掛け声をはるかにこえて、商店街に響き渡りま
し
た。
八角神輿、各町内の大神輿、中神輿、小神輿、そして、山車、は、
それぞれ各町内を巡行、休みのたびに、酒肴もふるまわれ、各町内
の、皆さんのふれあいの場所となりました、。
次回の大祭は平成27年 夏に挙行
予定です。
[下町トム]
2012年8月 2日 13:00
月島地域は江戸時代から在った佃島につながるように、明治になってから造成されたことは既に皆様ご存知のことかと思います。
ごく自然に月島の人々は佃の〔住吉神社〕の氏子に組み入れられていきました。埋立地が新しく出来上がるごとに、氏子地域は、〔勝どき〕〔豊海〕〔晴海〕と広がっていったのです。そして今夏お祭りの季節がやってきました。月島地域の地元っ子の気分は日増しに高揚しています。(写真は前回の本祭りのときのもの)
月島ができるまでは佃島固有のお祭りだったのものが、この地域一帯の大きなイベントに発展していきました。そもそも、〔住吉神社〕は佃島の漁民が徳川家康との縁で摂津の国・佃(現・大阪市西淀川区)から移住してきたときに故郷の神社を勧請したものです。したがって、江戸時代には〝佃祭〟と一般に呼ばれていたようです。
江戸落語にも『佃祭』というネタがあります。主人公の男がたまたま引き止められて佃島で厄介になっていると、その間に乗っていたはずだった渡し舟が沈んでしまい命拾いするところから話が広がるのですが、人情と奇談の混じった変わった噺です。故・志ん生師匠がたまに演じておられました。
歌川(安藤)広重の浮世絵にも残る由緒あるお祭りです。
〝佃祭〟は月島一帯のお祭りになって、今では「住吉神社大祭」と呼ばれています。住吉神社の祭神は海を司る力を有しているといいますから、日本のウォーターフロント都市開発の発祥地ともいえるこの地の守り神としてはまさしくピッタリの神様なのかもしれません。
月島地域一帯に住吉神社のゆかりの建物があります。まず第一に〔勝どき〕に〝御旅所〟があります。住吉神社の大祭では宮神輿が本社を出てこの〝御旅所〟まで巡行し、一晩過ごしてから翌日また本社に戻ります。つまり神様が氏子地域を巡る旅に出るときの〝宿泊施設〟というわけです。
宵宮にはこの〝御旅所〟から各町内の世話人たちが勢ぞろいして神社まで歩いて参拝し、祭りの成功を祈願します。この折の儀式を「参拝式」とも「献燈祭」とも呼ばれます。
〔勝どき〕には各町内の神輿庫がまとまって設置されています。一般に町内の神輿はそれぞれの町の適切な場所に設置されているものですが、このように1箇所にまとまって設置されている例は珍しいものです。神輿の出し入れや清掃の際には隣町同士のコミュニケーションも盛んになります。
また〔晴海〕には住吉神社の〝分社〟があります。1971(昭和46)年に晴海町会の発足とともに創建されました。この地域の水産加工業関係者の熱心な後押しがあったようです。やっぱり〝海の神様〟ですからね。ちなみに、住吉神社の〝分社〟はほかに江東区牡丹にもあります。この由来はまた別の機会にご紹介したいと思います。
さて、今年は本祭りの年です。3年に1回の本祭りを地元の皆はとても楽しみにしています。昨年、大震災のために延期になっただけに一層気持ちがた昂まります。8月3日(金)の宵宮に始まり、6日(月)まで、この地域一帯がお祭り一色に染まります。各町会ごとに神輿を安置する〝御仮屋〟も準備万端です。(写真は月島四の部、月島第一小学校前の様子)
ちなみに、〝御仮屋〟とは、神様が一時的にお宿りになる仮のお社という意味であり、当然ながら神霊を遷した各町会の神輿が安置される聖域です。ほとんどの場合、その隣に〝神酒所〟が置かれます。氏子にお神酒を配る場所という意味ですが、実際には各町内の祭礼総司令本部という位置づけを果たします。
今年は宮神輿(八角神輿)が175年ぶりに新調され晴れてお披露目されます。いよいよお祭りムードが高まってきた月島地域。今週末の賑わいを皆さん是非お楽しみ下さい。
続きを読む: 月島七不思議~第3話「住吉神社の祭り」