[キャサリン]
2012年8月31日 08:30
待ちに待った住吉神社大祭
3年に一度の大祭。
昨年の平成23年の予定でしたが、震災の影響で延期になり今年(平成24年)となりました。
今年は新しい本社神輿がお目見えすることもあり、町の人たちの思いも今年はいつも以上に気持ちが入りますね。
今年のポスターです。一目見て欲しいと思いました。
新しい八角神輿に相応しい荘厳で美しいですね。
お祭の度のポスターが本当に素晴らしいのです。
次回が大変楽しみです。
本社神輿 勝どき御旅所に向かって出発
その姿にいつも感動します。
今は生活の基盤が
佃、月島、勝どき、晴海、を離れてらっしゃる方もこの大祭には帰ってくる方も多いと思います。私もその一人です。
子供の頃は山車で始まり、子供神輿、大神輿で大人の仲間入り。
お祭の数日前の雰囲気が堪らなく好きでした。
何といっても大祭三日間の一番太鼓。朝の静けさの中、遠くから一番太鼓が近づいてきてドーンという響きで目を覚まし、眠い中にも引き締まるいい気分になれるのはこの三日間の朝だけです。
懐かしいです。
年を重ねてきましたが、今年も担ぎました。
まず町内神輿。「ソイヤ」の掛け声で足並みがひとつになる気分を味あわせてもらい感謝です。
水は威勢よくかけられ息も思うように出来ないくらいかけられますが、普段使うことはありませんが「超気持ちいい!」という言葉がピッタリはまります。
途中飲み物や西瓜、きゅうり、お団子、から揚げなどなど、接待を頂きどれもこれも美味しく担いだ後はまた格別です。ご馳走様でした。ありがとうございました。
8月6日本社神輿町内巡行
新しい八角を担ぎたいと集まる沢山の人達
気合が入ります。
夢中で担いだ
とってもいい時間でした。
ほんの少し鼻棒担がせていただき嬉しかったです。
伝統ある住吉神社の大祭 これからもずっと見続けていきたいです。
[さとけん]
2012年8月17日 12:00
8月11日ー12日は3年に一度(多分)の例大祭でした。自分は初めてみることができました。
1か月以上前から準備が始まって、どんな祭りかと楽しみにしていました。
自宅周辺(明正小)はお昼の休憩場所になっており、普段は人通りはさほど多くないところに、人で埋め尽くされていました。
それにしても、江東区にある富岡八幡宮の氏子地域が中央区の方まであるとは知らずにいました。また、佃島は住吉神社の祭りがあり、道路一つ隔てただけで、担ぐ神輿も違うとは大変おもしろいことだと思いました。
次は是非神輿を担いでみたいと思いました。
[杏葉牡丹]
2012年8月16日 08:30
先日、機会があって、戦前から築地に住んでいた方に、昔の写真を見せていただくことが出来ました。
中でも興味深かったのが、『終戦直後』に「海軍軍医学校(現在のがんセンター)」の屋上から撮影したものです。
当時この建物は進駐軍に接収されていて、一般の日本人は入れなかったので、このアングルでの写真は、大変珍しいのだそうですが、たまたま知り合った進駐軍の兵士が「キミの家の近くを撮ったヨ」と言ってくれたものだそうです。
一枚目は、屋上から左側に銀座方面を写したものです。
左端の像は、有栖川宮の銅像で、かなり大きかったようです。
築地川はまだ埋め立てられておらず、右下の方には、今は無くなってしまった「北門橋」があり、真ん中の橋が「采女橋」です。
現在でしたら、その先には、時事通信社をはじめ、沢山のビルがあるのですが、この写真では、高い建物はほとんどなく、更地になっている所もあり、その先の昭和通りどころか、銀座4丁目交差点の「和光の時計台」まで見渡す事ができます!
これは、空襲で焼けたと言うよりは、延焼を防ぐ為に、『強制疎開』ということで、事前に取り壊された建物もかなりあったのだそうです。
左:終戦直後の采女橋から銀座方面 右:現在の采女橋から銀座方面
二枚目は、今の「築地社会教育会館」の玄関辺りから、晴海通り方面を見ているアングルで、左を真っ直ぐ行くと銀座になります。
手前にある川は、その後に埋め立てられ、その場所に築地社会教育会館が建ったわけです。
『築地は、聖路加病院があったので、空襲から免れた』と言われていますが、銀座方面を狙った焼夷弾が、狙いがそれたり、風に流されたりして、かなり落ちてきたようで、『この通りを、シュルシュルと火が走っていったのが忘れられない』と、写真を見せてくださった方がおっしゃっていました。
左:終戦直後の築地社会教育会館前 右:現在の築地社会教育会館前
戦争が終わって67年。
こうしたお話をしていただける方も、高齢になられてしまいましたが、自分達の住む街の歴史を、しっかりと、受け継いでいかなければならないと思った次第です。
[平蔵]
2012年8月14日 08:30
月島4丁目の朝潮橋際にある無住のお堂について通るたびに気になり、何度も訪れて堂名や縁起、建立趣意などを探したのですが、お堂の外からでは見当がつきません。
唯一手がかりとなるものは参道らしき空間の両側に寄進者と思しき石柱が開祖・施主分、合わせて29基及び灯篭1基が立っております。
施主の石柱によると建立は昭和36年5月吉日となっております。しかし無住のためか荒廃の程度が気になります。
開祖及び施主については後述しますが、この石柱を読みますと、建立に関わった方々の経歴に驚愕いたしました。戦前から戦後にかけて東京都(市)や国会で活躍された大臣や知事等の議員の方ばかりです。
それだけに建立にあたり、さぞ深いいわれがあるのではないかとさらに手がかりになるものを探しましたが、なかなか詳しい事が分かりません。
開祖は、昭和27(1952)年に築地本願寺で開催された、第2回世界仏教徒会議の副議長にして仏教学者である、東京帝国大学教授の長野真琴博士です。その御縁で中央区にあるお堂の開祖として招かれたのでは、と推察いたしました。(かってな解釈ですが・・・)。
また施主の方は戦前から京橋地区選出の都議(市議)の方です。
このお堂については現在の地図では「釈迦堂」と表記されておりますが、地区の古老の方は、中央区が主催した昭和63年の座談会『月島を語る』の際、お堂について尋ねられたところ、「太子堂」と語っておられます。釈迦堂と太子堂では安置されている本尊が全く異なるのではないでしょうか。また本堂の中をガラス戸越しにのぞくと「観世音菩薩」の額がかかっております。また疑問です。そこでさらに何かヒントは無いものかとお堂の横を見ますと、開祖の長野博士が「南无三寶(なむさんぽう)」と揮毫をした額がかかっておりました。
この額の右側には「江戸消防記念会」の銘、左側には額の報納日(昭和36(1961)年12月吉日)が書かれており、題字の両側は火消しの纏図です。
開祖である長野博士・施主都議会議員・江戸消防記念会との関連は何だろうか。疑念が増すばかりです。
いかなるご趣旨で建立されたかについては前述の座談会で、月島の古老曰く、「施主の方がいろいろな人の菩提を弔うため」、個人的に建てたとのことです。
そこで江戸消防記念会にこのお堂の件を連絡したところ、同会の史跡調査員の方が早速調査をされ、本堂の施主と消防記念会との因縁浅からぬことが明らかになりました。特に、「に組」の頭、古川三右衛門氏の回顧録にも、本堂の施主の逸話が残っています。
いずれにせよ、これだけ多くの人々とかかわりのあるお堂が、堂守もいなく朽ちて行くむなしさを、痛切に感じさせられた調査になりました。
この調査にあたり、京橋図書館地域資料室、月島図書館、江戸消防記念会史跡調査員の方々にご尽力を賜りました。あらためまして、皆様に厚くお礼申しあげます。
[巻渕彰/写楽さい]
2012年8月13日 08:30
日本橋小伝馬町の十思スクエア(旧十思小学校)・十思公園一帯には江戸期、伝馬町牢屋敷があった。敷地面積約2700坪(約8900㎡)で、最多時には900人に及ぶ牢人がいたという幕府最大の牢屋敷だそうだ。今回の発掘調査はその一部約900㎡で、これほど大規模な牢屋敷跡の発掘は珍しいという。遺跡発掘現場見学会が8月10・11の両日開かれた。
見学会資料によると、牢屋敷は江戸初期、常盤橋門外にあったものが、慶長18年(1613=配布資料には1618年とあるが、和暦が正しければ1613年になる)ごろ小伝馬町に移転し、明治8年(1875)まで存続した。牢屋敷は刑が確定するまでの拘置所のような施設であった。管理する囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀(いしでたてわき)。牢屋は囚人の身分によって区別されていた。ここに入牢された人物には平賀源内、渡辺崋山、吉田松陰、佐久間象山、橋本左内らがいる。
発掘された遺構は、神田上水から引き込んだ木樋・上水桝・井戸や石垣、焼け跡で、陶磁器や瓦、金具類、銭貨などが出土した。(参照資料:「伝馬町牢屋敷跡遺跡見学会資料」中央区教育委員会、2012/8/10発行から) ●巻渕彰
[サム]
2012年8月12日 08:30
8月6日祭り最終日、御旅所に一晩泊まった宮神輿<八角神輿>が、晴海・勝どき・月島・新佃と各々の町内の担ぎ手に順繰りに手渡されて元々の佃島である佃1丁目に帰ってくる。
いよいよ宮神輿の「出迎え」の時間。
夕暮れの中、佃小橋から新佃まで「津久田」「住吉講」の高張り・弓張り提灯を掲げ「若衆(わかいし)」が隊列を整える。
新佃の拍子木が鳴り手締めが行われると、いよいよ最後の巡幸。
「宮入り」の担ぎ手は「世話人」「大若衆(おおわかいし)」のみ。
木遣りを謡う鳶の棟梁に先導されゆっくりと進む。
境内に入るといよいよ大詰め。佃囃子の音色がひときわ大きくなり、神輿を一気に天に突き上げる「さす」所作が行われた後、神殿の前に静かに安置される。
しばらくすると、「これから厳粛な神事が行われるので写真撮影厳禁」のアナウンスが流れ、社殿や境内の照明がすべて消され、御霊を神輿から住吉神社に移す「御霊移し」が執り行われた。
このあと手締めが行われ、熱気を帯びた祭りの幕が下された。
名残りを惜しむかのようにお囃子が鳴り響き、熱き感動の余韻が闇の中に留まった。