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日本橋人形町 紗紅羅(さくら)で 江戸時代にタイムスリップ

[kimitaku] 2012年12月30日 09:00

   地下鉄日比谷線「人形町」駅を小伝馬町方面で降り、交差点を神田方面へ進み、二つ目の交差点を左折。

 ほどなく行くと、右側に日本橋小学校、日本橋図書館があります。

 ここは、明治時代は、西郷隆盛邸、江戸時代は、周辺に、幕府の銀座が置かれていました。

 

小学校を背にして、左手ビルの一階に、呉服屋「紗紅羅」があります。


sakurajyosei.jpg 瀟洒なお店は、ご夫婦で営まれ、お二人とも粋に和服をお召でした。


 ここ人形町で開業されて、数十年になるとのこと。雰囲気もそのまま、江戸時代にタイムスリップです。

 お店には、たくさんの反物がきれいに陳列されていて、思わず手に取りたくなります。

・・・ご主人に、着物のことを詳しくお聞きしました。


kiji.jpgお仕立てとは

まずお客様の体の寸法を測る採寸をします。 鯨尺と言う物差しで測ります。

寸法には 男並み 女並みの寸法があります。 3分増し、5部足しで寸法を測ります。

昔は多くの方が、日常着として使われ、動きやすいように短め。今は、長めが主流とのこと。

お客様の好みもありますが、それぞれの着こなしで大きく着物は変わります。


syokenco-komon.jpg

おはしょりの取り方でも、長さが異なるそうです。

褄下でも、着崩れをした時でも、衿先が出て入れば、引っ張れば、直しやすいとか。

着物をお召になるには、約束事がいくつかあるそうです。それを守れば美しく心地よく着こなせるとのこと。


:::また 着物のすばらしいところは、着物の糸をすべて解すと、すっかり元の反物に戻るとのこと。

今のエコの神髄とも言えるものだそうです。:::

 

<注> 反物::着物一人分を仕立てる生地のこと、その単位。  鯨尺::反物を測る単位、一尺が曲尺の一寸5分(約38cm)、もとは鯨のひげで作った物差し。  褄下::衿下の部分

 

詳しくは   「紗紅羅」の ホームページ (お仕立てまでの基礎知識)をご覧ください。

本当に親切に説明がされています。  初心者、研究者必見。

 

sakurasyujinn.jpg ご主人に着物事情を伺うと、今は、着物の製作者も少なくなったとのこと。

 今は着物の製作では食べてゆけず、 最近赴いた京都では、タクシー運転手をされている方もいらっしゃったとのこと。

 その方は、西陣の腕利きの伝統工芸士だったそうです。

 綴織の職人とか古くからの伝統継承者は、ほとんどいなくなったとのこと、嘆かわしいと、ご主人はおっしゃっていました。

 指の爪にそれぞれ切れ目を入れ、それに糸を通し、織りなす伝統工芸も。奈良時代からの伝統も今は火の灯のように消えて行っているそうです。

sakurakimonotinnretu.jpg
呉服店 「紗紅羅」 では、

「着物きつけ教室」を開催しているとのこと。 
また 「きもの学入門講座」も開催中とのことです。


 着物について知りたい方は、ぜひお越しくださいとのことです。


sakura.gif


 お着物は、他店とは一味違う特選商品をご用意しているそうです。


 ご主人は、いつでも、お気軽にご来店くださいと、また、この素晴らしい着物文化をすこしでも多くのお客様にお伝えしたいともおっしゃっていました。


特撰呉服処 日本橋人形町 紗紅羅(さくら)

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町1-5-1

フリーダイヤル:0120-33-5298  FAX:03-3667-5298

営業時間: 月~金曜日 AM10:00~PM7:00、土曜日 AM10:00~PM6:00

ただしご一報頂ければ休日もお待ちしております。


 

 

大石内蔵助 中央区からいざ討入りへ

[与太朗] 2012年12月29日 09:00


 「冬は義士、夏はお化けで飯を喰い」 12月は講釈師の書入れ時といわれますが、赤穂義士が本所吉良邸に討入り、吉良上野介の首を上げたのは元禄15年12月15日の夜明け前(西暦1703年1月31日)、今から310年前になります。


 中央区内の義士討入り関係の史跡としては、浅野家上屋敷跡(明石町)、浅野大学長広邸(銀座4)、間新六墓(築地本願寺)、堀部安兵衛武庸之碑(八丁堀1)などのほか、史跡とは言えませんが、本所から泉岳寺までの義士引揚げルートのうち、永代橋~霊岸島~稲荷橋~浅野旧邸の前を通り、木挽町~汐留橋までが中央区内になります。また堀部弥兵衛・安兵衛の刃傷事件後の屋敷(東日本橋2)や石町三丁目、南八丁堀などに三か所の義士の潜伏先が区内にあったといわれています。


 大石内蔵助・主税が討入りまで潜伏したのは、石町三丁目南側の小山屋弥兵衛裏店でした。小山屋は訴訟のために江戸に訪れる者が利用するいわゆる公事宿で、かなり繁昌しており、そういう所がかえって人目に立たないということでしょう。大石主税が討入り前の9月に江戸入り、公事訴訟に来た垣見左内と名乗って小山屋に泊り、内蔵助は11月に伯父垣見五郎兵衛として合流します。ほかに小野寺十内ら数人の浪士もここに集まり、小山屋は討入り準備の中枢となります。


 なお、石町三丁目といえば「時の鐘」やオランダ・カピタン江戸参府の際の定宿「長崎屋」が有名ですが、小山屋も一部オランダ人の宿舎として使われたそうです。「ここがあのオーイシが住んだ所か」などと話す彼らを想像するのも楽しいですね。


 ところで石町三丁目の小山屋はどこにあったのでしょうか。物の本によれば「現在の日本橋本町4-1にあった」、「長崎屋(日本橋室町4-4)と軒を連ねる場所にあった」、「小山屋の真向かいに石町の鐘があった」、「(天ぷらの)てん茂の場所(日本橋本町4-1-3)にあった」・・・などと書かれています。これらはすべて石町通り(現在の江戸通り)の北側になります。(石町三丁目はいわゆる両側町で通りをはさんだ南北両側で成っています。現在の地番では北側は日本橋室町4-4と日本橋本町4-1、南側は日本橋室町3-4と日本橋本町3-3になります。) ところが四十七士の一人、寺坂吉右衛門の覚書「寺坂私記」には「石町三丁目南かは小山屋弥兵衛裏店」とあるので、南側にあったとするのが自然ではないかと素人なりに考えるのですが。詳しい方のご教示をいただければ幸いです。


 小山屋から本所吉良邸に向かった大石らはついに本懐を遂げます。この年の暮はとりわけ寒気が厳しかったそうです。寒がりと伝わる大石ですが、さぞかし満ち足りた心境で新しい年を迎えたことでしょうね。


【写真】 江戸通り、室町三丁目交差点より東方を望む。

      左側(北側)に長崎屋跡の説明板があります。

 

 

 

区内寺社巡礼~第8番『薬研堀不動院』

[下町トム] 2012年12月25日 13:00

中央区の寺社を巡って魅力を再発見するシリーズも8回目を迎えました。今年最後の参詣先として、東日本橋駅からほど近い『薬研堀不動院』を訪ねます。

 

薬研堀不動の正面_R.JPG『薬研堀不動院』は、〔目黒〕〔目白〕と並んで、〝江戸三大不動〟として知られた有名な寺院です。ご由緒によると、1585(天正13)年に、豊臣軍の戦火を逃れて紀州・根来寺から遷された不動明王の尊像を祀ったのが縁起だとか。memo 

 

池波正太郎の時代小説にもたびたび舞台として登場しますが、当時は大いに賑わった繁華街だったようです。一例として『鬼平犯科帳』から一説を紹介します。

「・・・通りをへだてた向うが薬研堀不動で、ここの縁日の賑わいは江戸でも指折りのものだ。このあたりは両国西広小路の盛り場とも接しており、料理屋や商舗が軒をつらね、夜に入っても灯火が、「昼のようだ」といわれたほどの繁華な土地(ところ)である。」(第14巻「殿さま栄五郎」より引用)

ぼくも以前この辺りを取材していますので、あわせて参考にお読みくだされば幸いです。

両国広小路は江戸の香り 

 

順天堂の碑_R.JPGこのお不動様は、明治時代になって、真言宗智山派大本山・平間寺(川崎大師)の別院となって今日に至っています。境内には「順天堂発祥の地」や「講談発祥の地」を示す記念碑が建てられており、この寺院の歴史と格式を感じさせてくれます。up 

 

 世の中には、毎月○○日がご縁日になっているものが多くあります。たとえば、観音様は17日、お大師様は21日、お地蔵様は24日、天神様は25日というように決まっています。そしてお不動様は28日です。(庚申のように十干十二支で決まっているものなどもあります)

納めの歳の市の碑2_R.JPGそれぞれ、毎月の縁日は参詣客で賑わうのですが、正月の〝初□□〟と並んで、一年最後の縁日は〝終い□□〟とか〝納め□□〟とか呼ばれて、特に参詣客が多いものです。お不動様では「納め不動」というわけです。

 

かつては、年の暮になると各地の寺社の縁日にあわせて〝歳の市〟が開かれました。新年の飾り物をはじめ日用雑貨や料理道具などが並ぶお楽しみイベントだったのですが、だんだんと減っていき、今では浅草の〝羽子板市〟とここの薬研堀だけが残っているといいます。bell 

前述のとおり、お不動様のご縁日は28日ですから、各地で開かれた〝歳の市〟のラストを飾る真打(トリ)ということにもなり、「納めの歳の市」は特に賑わいました。年越しイベントとして人気の恒例行事として残っています。毎年27日~29日まで開催されますので、是非お出かけ下さい。

両国橋の風景_R.JPGついでに書くと、東京名品のひとつ「やげん堀七味唐辛子」はもともとこの界隈の露店で売られていたのが名前の由来です。現在はその名を掲げるお店は浅草に移っています。

 

お不動様の参詣を終えて少し歩くと、両国橋のたもとに出ます。橋の向うに〔東京スカイツリー〕を凛々しく望むことができます。

前にもブログで紹介したように、かつてはこの辺りが〔両国広小路〕として江戸屈指の盛り場として知られたところです。つまり〔両国〕といえば昔はこの辺りを指したのです。その証拠といえばなんですが、〔両国郵便局〕が中央区東日本橋に存在します。loveletter 

やなぎばし長寿庵_R.JPG

 

中央区産業会館のとおりを大通りに出たあたりに〔やなぎばし長寿庵〕さんがあります。会議の帰りなどにたまに寄らせていただいています。あたたかみがあふれたアットホームなお店で、居心地がよくゆったりと食事ができます。この土地にぴったりの雰囲気です。

 

さて、今年もいよいよあとわずかとなりました。中央区でもさまざまなイベントや行事がありました。多くの想い出が残りました。また来年もきっと充実した一年になることでしょう。shine 

 

不動明王.jpg残りわずかな日を数えつつ、「あれもやりたかった」とか「こうすればよかった」とか思うところもありますが、今さら悔やんだり迷ったりせず、前を向きたいと思います。そうでないと、お不動様に一喝されそうです。そもそも不動明王は大変強力な仏様で、道を誤るものを本道に無理にでも引き戻すパワーを有しているといいます。気迷いどころではなさそうです。coldsweats01 

 

では、また来年もどうぞよろしくお願いします。本年はお世話になりありがとうございました。

・・・ 数え日を迷う男と行く女

 

続きを読む: 区内寺社巡礼~第8番『薬研堀不動院』

 

高尾稲荷神社

[織衣舞] 2012年12月21日 08:30

高尾稲荷神社 002.JPG 高尾稲荷神社 007.JPG

 中央区日本橋箱崎町10-7 に 高尾稲荷神社がある。

 

高尾稲荷神社は、江戸時代の遊女高尾太夫の遺体が引き揚げられた当地に、彼女の神霊

高尾大明神を祀ったのを起源とし、実態の神霊を祭神としているとされています。

 

 「由来」板によると

万冶二年(1659)十二月江戸の花街新吉原京町一丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で

二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、

和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。

生国は野洲塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九歳であった。

その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され大金をつんで身請けされたが、彼女にはすでに

意中の人があり、操をたてて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川三又(現在の

中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた

僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。

高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を

祀り、高尾稲荷神社としたのが当社の起縁である。

現在この社には、稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神

として社の中に安置してあります。

江戸時代より引き続き昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、縁日には露店なども出て

栄えていた。(箱崎北新堀町々会)

当時の女性哀歌である。

 

高尾稲荷神社 003.JPG 高尾稲荷神社 011.JPG

 

 

 

区内寺社巡礼~第7番『築地本願寺』

[下町トム] 2012年12月12日 13:00

区内の寺社を吟行気分で巡る一風変わった散策シリーズの第7回です。

 

本願寺正面_R.JPG今回は『築地本願寺』です。江戸開府まもなくの元和3(1617)年に当初は浅草・横山町に京都・西本願寺の江戸の別院として建立され、「江戸・浅草御坊」として親しまれました。しかし、かの有名な明暦3(1657)年の〝振袖火事〟で消失してしまったのです。区画整理のため幕府が代替地として指定したのが現在の築地でした。

本願寺本堂_R.JPG

佃島の住民が浅瀬を埋め立てて土地を造成しました。〝築地〟という地名もここから生まれました。かくして新たな寺院が完成し『築地御坊』と呼ばれて長く江戸市民の崇敬の地となったのです。以来、佃島とは縁が続き、慣例として本堂の賽銭箱は佃の有志が寄贈しています。

 

錦絵にも残る伝統的な寺院建築を誇った『築地御坊』でしたが、大正12(1923)年に関東大震災に見舞われ、またも消失しました。そこで名建築家・伊藤忠太博士の設計により仏陀の故郷である「インド様式」の石造りという、日本の仏教寺院としては珍しい建物が昭和9(1934)年に落成しました。平成23(2011)年には、本堂ならびに石積塀が国の登録有形文化財に指定されました。東京を代表する屈指の名刹のひとつです。

親鸞聖人像_R.JPG

宗派としては、浄土真宗本願寺派・築地別院というのがこれまで正式名称でしたが、今年、正式に同派の直轄寺院として位置づけられ『築地本願寺』が正式名称になりました。もともと昨年は、開祖・親鸞聖人の750回忌にあたったこともあり、今年にかけて本堂修復などの記念行事が続いています。今年11月には〝キズキナサイ2012〟という記念イベントも催され、全国の〝ゆるキャラ〟が集まって銀座をパレードするという賑やかな一幕もありました。

 

本堂は修復され、金箔も鮮やかに張りなおされ、一層神々しくなりました。法要の際には多くの善男善女が集まり、おごそかな雰囲気が広がります。本堂後ろには、仏教寺院としてはこれも珍しくパイプオルガンが設置されており、毎月最終金曜日(12月は21日)のお昼、12:20~12:50に入場無料の「ランチタイムコンサート」が開かれていますので、お近くにお越しの節は是非訪ねてみて下さい。

 

間新六墓碑_R.JPG今月この寺院をとりあげたのは、実はほかにも理由があります。それは『忠臣蔵』です。ご存知のとおり、今から310年前の元禄15年12月14日(新暦では1703年1月30日)に、赤穂浅野家の遺臣が仇敵・吉良上野介を討ち取ったというあまりにも有名な事件がもとになり、芝居や講談、浮世絵などでもてはやされました。

 

史実では、本所松坂町での討ち入りの後、赤穂浪士たちは両国橋を渡ることを許されず永代橋を渡り、現在の明石町にあった旧浅野家江戸屋敷の前で敬礼をしてから、築地御坊の門前(当時は現在の晴海通り側が正面でした)を通って、汐留から泉岳寺方面に向かったと言われています。

 

浪士のひとり、槍の名手・間新六は築地御坊の前を通りかかったときに、愛用の槍に書状と金子を結びつけて供養を願ったといわれています。そのゆかりの槍はいまでも同寺院で大切に保管されています。

間新六は同寺院とゆかりが深かったらしく、後に遺骸が引き取られて埋葬されました。もちろん泉岳寺にも墓碑がありますが、他の浪士と別に同寺院に埋葬されたというのは生前から信仰が篤かったのでしょう。現在ももちろん、築地本願寺の境内に間新六の墓碑があり、脇に説明版が設置されています。

 

豊国浮世絵.jpg赤穂浪士たちが本懐を遂げたときの道中の心持ちとはどのようなものだったのでしょうか。今の時代となっては〝仇討ち〟が必ずしも賞賛されないとしても、当時の道徳意識としてはまさしく「晴れ晴れとした」気持ちだったのではないかと推察します。

 

その当時も朝の築地の町に本願寺の鉦の音が響いていたのかと思うと、300年以上の月日を隔てて、何か心情が深まります。

今年も『忠臣蔵』の季節が来て、一年が終わろうとしています。平和な時代が続くように祈るばかりです。

 

・・・空冴えて覚悟の朝に弥陀の鉦

 

続きを読む: 区内寺社巡礼~第7番『築地本願寺』

 

住吉神社の扁額

[ジミニー☆クリケット] 2012年12月12日 08:30

江戸時代の初め、佃島の漁師が守護神として建てた住吉神社の鳥居には、珍しい陶製の額がかかっていますhappy01

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白地に藍色で、「明治十五壬午歳六月三十日 住吉神社 一品幟仁親王」とあり、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)が書かれたものです。
「一品」とは、皇族の位を表すものです。flair


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この方は、書道の達人だったそうで、明治天皇に書道(有栖川流)と歌道を指南したほか、明治政府の基本方針を示した『五箇条の御誓文』(sign01)の正本も、この幟仁親王が書かれたそうです。ちなみに、第一箇条は、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」です。shine

 

 

 

 

先週土曜日に参拝したのですが、風の強い日でtyphoon、境内の銀杏の黄葉が次々と空に舞っていました。sun