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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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地価の最高地点 中央区銀座4丁目の「山野楽器銀座本店」

[Mr.Chuo-ku] 2014年3月26日 14:00

国土交通省は3月18日、2014年1月1日時点の公示地価を発表した。

 

地価の最高地点は、東京都中央区銀座4丁目の「山野楽器銀座本店」。

前年比9.6%上昇の1平方メートル当たり2960万円で、8年連続の全国トップとのこと。

 

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                             地図をクリックすると拡大↑

 山野楽器 銀座本店 ホームページ
http://www.yamano-music.co.jp/a/shops/ginza/index 

 

 

甲州街道、 新宿から日本橋へ

[銀造] 2014年3月21日 14:00

  だれもが、日本橋を目指して地方からやってきました。

江戸時代の参勤交代で、甲州街道を利用したのは、信濃の高島、高遠、飯田の三藩のみでした。

徳川家康の信任が厚かった高遠藩の二代目当主、内藤清成(Naito Kiyonari)が徳川家の重臣で、

天正18年に家康が江戸に入る際、清成と青山忠成らが前もって江戸周辺の土地を調べ、家康を迎えたといわれています。

その功績と、江戸城西方の交通要所を守る目的で、

現在の新宿御苑の土地が「四谷屋敷」として清成に与えられました。(新宿文化絵図参照)

ということで、今日は新宿3丁目から四谷、麹町、半蔵門を経由して皇居のお濠端を通って、日本橋を目指すこととしました。

勿論、目的は健康ウオーキングだけでなく、日本橋の某食事処です。

新宿三丁目では、歌川広重の名所江戸百景の、「四ツ谷内藤新宿」の絵を見て、当時の町並みを想像しました。

あぁ、やっとコレド日本橋が見えてきました。 ここを左折すれば、直ぐに日本橋です。

さて、「お疲れ様」の一杯は、どこにしましょうか?

3月20日に新しく開店したコレド室町2、3の飲食店に寄って見るかな。

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追伸:3月初めに、日本橋から新宿3丁目まで歩いた時は、2時間ちょうどでした。

 新宿は標高約20m程度の高さがあるので、今回はぶらぶらゆっくり歩いても、2時間足らずでした。

 

 

山岸荷葉  日本橋生れ、日本橋に死す《3.10東京大空襲》

[与太朗] 2014年3月18日 09:00

IMG_0269.jpg 3月といえば、まず3年前の3.11東日本大震災ですが、東京人としては69年前、10万人もの命が奪われた3.10東京大空襲も忘れることが許されない惨害ですね。このとき、浜町の明治座に避難して命を落とした方々の中に、日本橋生れの小説家・劇評家・書家の山岸荷葉(1876-1945)の名があります。

 山岸荷葉は本名・惣次郎、当時のメインストリート本町通り、通油町(現在の日本橋大伝馬町)にあった硝子・眼鏡問屋の加賀屋(通称加賀吉)に生れました。同じ町内に育った文化人に川尻清潭、長谷川時雨がいます。時雨の『旧聞日本橋』には、彼女の父が大店加賀吉を会場にして憲法発布の祝賀の演説をしたとあります。

 彼は幼少から書道に秀で、書家巌谷一六門下で神童といわれ、(後には「かがのや流」で一家をなします。) 一六の息子小波の紹介で硯友社に入り、尾崎紅葉の下で小説家となります。代表作『紺暖簾』をはじめ明治期の日本橋の商家や花柳界を舞台に下町情緒を描いた作品は「日本橋文学」と呼ばれました。後年は演劇に関心を移し、荷葉翻訳の劇を川上音二郎一座が明治座で上演するなど、西欧演劇の大衆化に貢献したほか、歌舞伎の劇評にも腕を揮いました。彼の人柄は気さく・洒脱で誰からも慕われたといわれます。画家の鏑木清方とは互いに心を許す友人でした。

IMG_0828.jpg 昭和20年3月10日の大空襲には、自宅に近く、翻訳劇を上演した縁もある明治座の建物に避難したが、ここも被災して落命。硯友社最後の文人,山岸荷葉は日本橋に生れ育ち、日本橋を描き、日本橋で生涯を閉じたのでした。享年69歳でした。

 【写真上】 旧通通油町の現在、大伝馬本町通り。石町通り(現在の江戸通り)に電車が走るまでは、こちらが幹線道路で、大店が   軒を連ねていました。江戸時代には蔦屋重三郎の書肆・耕書堂もここにありました。

 【写真下】 谷中霊園にある山岸家の墓。近くにある川上音二郎の銅像台座には、荷葉書の碑文が彫られています。

 

 

日本橋から日光街道、奥州街道へ

[銀造] 2014年3月15日 14:00

 日本橋で熈代照覧を見て、日光、奥州街道への旅の夢を膨らませ、歩き始めました。

日本橋ユイトの角を右折し直進します。

この角は、日本初の  眼鏡専門店である村田眼鏡店さんの手前です。

両側には大手製薬会社のビルがあります。「くすりミュージアム」まで来ると、

高速道路にぶつかります。高速道路の向こうは、小津和紙さんの店舗ビルが見えます。

本町2丁目か本町3丁目の横断歩道を渡ります。

 そして、小津和紙さんのビルを左手にして、直進します。

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江戸時代から続く、刷毛の専門店、江戸屋さんの向かいは、現在駐車場になっています。

その片隅に、黄銅色の石碑があります。これが、日光街道道標です。

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 そのまままっすぐ行くと、横山町の問屋街で、道なりに進むと浅草橋の交差点に出ます。

ここでは、浅草橋、浅草見附跡へ行くには、地下道を利用します。

  交番のところが、郡代屋敷跡、そして浅草橋、浅草見附跡の説明版があります。

 ただ単に、日光街道を正直に歩くより、

小津和紙さんのギャラリーを訪れたり、そのビルの裏手にある佐竹大日如来の井戸跡や宝田恵比寿神社を参詣したり、

十思公園内の時の鐘、小伝馬町牢屋敷跡(囚獄 石出帯刀)、かつて囚われていた吉田松陰の無念の声を聴くのも良いかなと思います。

旅のお供には、古地図か安藤広重の名所江戸百景を携えて歩くのをお勧めします。

名所江戸百景が一冊になった本は、中央区観光協会でもお買い求めできます(数に限り有り、ご確認下さい。電話(03-6228-7907)

それでは、良い旅を! 

 

 

第一大学区第一中学区二番小学~久松学校

[橘] 2014年3月14日 09:00

第一大学区第一中学区一番小学校の阪本小学校や泰明小学校は、中央区観光検定のテキスト「歩いてわかる 中央区ものしり百科」にも登場しますが、阪本小学校より1ケ月遅れで創立された中央区で2番目に古い久松小学校は(実は母校なのですが)余り知られていないので、紹介させて頂きたいと思います。

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久松小学校は阪本小学校と同じ明治6(1873)創立なので、昨年(2013)には創立140周年を迎えました。全国的に見てもかなり歴史のある小学校です。

sikitenn.jpg        (2012年に行われた周年関連行事の航空写真です)

               「久松小学校内資料館より」

久松小学校の校名の由来は、伊予松山藩主の末裔・久松伯爵の献金を基に創られた学校なので、校名が久松と付けられました。

 

卒業生には各分野でご活躍された方々がおられます。

政治では、蜂須賀貴族院副議長、川島正次郎氏

建築家又詩人として有名な立原道造氏

テイジンやキャノンのポスター等グラフィックデザイン界をリードしてきた伊藤憲治氏

日本橋や浜町に近いので芸能関係も盛んでした。

 山田五十鈴(女優、文化勲章)、芳村五次郎(歌舞伎長唄、人間国宝)

 鳥羽屋里長(歌舞伎長唄、重要無形文化財保持)、四代目江戸屋猫八(

 帯模写)

等色々な方が各分野で活躍されています。

 

久松小学校の特筆すべき点は、1963年の創立90周年式典に昭和天皇の行幸啓を仰いで以来、節目の10年毎の式典に皇族の行啓・お成りを仰いでいる点です。

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100周年には皇太子同妃両殿下(平成天皇)

koutaisi.jpg               「久松小学校内資料館より」

 

110周年には浩宮徳仁親王殿下(皇太子殿下) 

hirohito.jpg               「久松小学校内資料館より」

 

120周年には秋篠宮同妃両殿下 

akisino.jpg               「久松小学校内資料館より」

 

130周年には常陸宮同妃両殿下 

mikasa.jpg               「久松小学校内資料館より」

 

140周年には秋篠宮妃殿下及び内親王佳子殿下

 

以上の様に10年の節目ごとに此れだけの皇族方にお祝い頂ける小学校は大変貴重であるとともに、大変名誉なことと思われます。

 

私が卒業した1963年頃は1学年160人位いましたが、現在は60~100名位だそうです。しかし、ここにきて中央区の夜間人口の回復努力が実って月島・晴海地区程ではないにしても、久松小学校の区域内でもマンションが増えてきたこと等もあり、本年の入学予定者は30人ほど卒業生より増加するそうで、校舎の建増しも予定されているようです。

 

"強く 正しく 豊かに"を教育目標としている久松小学校に光あり。

 

 

 

 

◆春の中央区歴史散歩2014 ~知られざる中央区の原型 「江戸前島と歴史探訪」~ 申込受付中!

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月12日 09:00

近年、住んでいる土地や地形への関心が高まっている。中央区の地形の成立は、江戸前島と呼ばれる半島状の砂州を中核として、その後、周辺が埋め立てられた、といわれている。

今回の歴史散歩は、その江戸前島の周縁付近を歩きながら沿道の名所旧跡を、4月、2回にわたって探訪するコース。主催は中央区まち歩きボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」

 

→ただいま、申込受付中! 詳しくは「区のおしらせ中央」 3月11日号をご覧ください。こちら>>

 

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(左図)「江戸の原型」(鈴木理生著『江戸はこうして造られた』ちくま学芸文庫版、2000年1月発行、p21から部分) (右図)国土地理院の電子国土ポータルサイトから「土地条件図」と「明治前期の低湿地図」を合成

 

江戸前島と現代の地形を見ていこう。

 

左図で中央の半島状一帯が江戸前島と呼ばれている。御茶ノ水と記された本郷台地の南に位置し、日本橋台地ともいわれる。尼店が日本橋付近で、将門首塚は大手町辺りであろうか。江戸前島の西は日比谷入江、東が海上である。

 

この江戸前島の地形をもとに江戸が造られていったといわれている。神田山を取り崩して日比谷入江を埋め立て、旧平川を外堀や日本橋川の源流とし、堀割で水路をつくる。旧東海道は江戸前島の尾根部辺りを通したとされる。江戸初期の町の様子は絵地図『武州豊嶋郡江戸庄図』が物語っている。

 

右図は最近公表された、地形構造が分かる最新データである。中央に逆「く」の字に折れ曲がった黄色の場所は「砂州」と分類される微地形で、左図の江戸前島とほぼ重なることが分かる。東京駅辺りはやや異なるが、新橋辺りが江戸前島の南端であることは合致している。右図は明治前期、つまり幕末期の中央区の姿ともいえる。水路が張りめぐらされ、月島はまだ存在しない。

 

この2図を重ね合わせると、今日の中央区中心部は江戸前島と呼ばれる砂州から誕生したといえるようだ。では現在、その痕跡はあるのだろうか。晴海通りや永代通りを東西にわたる地点で標高差を調べてみると、江戸前島の尾根部、現在の中央通りは周辺より標高(海抜)が高くなっている。外堀跡や楓川跡は江戸前島の外縁部付近と思われる。

今回の歴史散歩は中央区の地形形成の原点を探り、江戸・東京の歴史を見つめる、これまでにない新しい試みである。@巻渕彰