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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日本橋から中山道へ 忘れない3.11

[銀造] 2014年3月11日 09:00

 

 今日は、日本橋から中山道をご案内します。

まずは、日本橋三越の地下通路にて、熈代照覧を見て、江戸時代の町並みを勉強しましょう。

P1000508.JPG(三越前駅「熈代照覧」より)

千疋屋総本店、海老屋美術店、十軒店跡を見ながら、室町三丁目の交差点を渡ります。

おっと、右側のJR新日本橋駅入り口前の長崎屋跡の説明も見ていきましょう。

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そして石町時の鐘 鐘楼堂跡などの案内板を見て、次の信号で左側の元の道を神田方面に進みます。

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左側の道路脇(現、ホンマゴルフ前)には、今川橋跡の案内の石碑があります。 

P1000511.JPG

当時は、こういう街並みだったのだなと思いながら進みます。しばらく行くと、JR神田駅前に出ます。

このあたりが、筋違御門があったのだとか、昌平橋は嘉永年間にもあったのだとかを名所江戸百景の説明の古地図で確認しましょう。

 ここから先は、現代版の地図で簡単に板橋宿まで到達できます。

板橋宿跡では、いたばし観光ボランティアの方々が温かく出迎えてくれます。

住所:板橋区板橋三丁目14番15号、電話03-3963-5078

 

 2011年3月11日、暗い夜道を日本橋からこの板橋宿を目指して歩いたことを思い出します。

皆さんも勤務先からご自宅までは徒歩で帰れる様、道順は覚えておきませんか?

 改めて、被災地の一日も早い復興と被災された方々のご健康をお祈りします。

加筆して、私の福島県の友人、妻の高校の同級生とご家族が、東北魂でゆったりと前進されることを願っています。疲れた時は、東京さ、お出で。

 

 

◆江戸狩野派の基礎を築いた 「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 8日 09:00

奥絵師・江戸狩野四家の屋敷はすべて、今日の中央区内に置かれていた。狩野永徳の孫・探幽(たんゆう)は江戸開府とともに江戸に移り、鍛冶橋に屋敷を拝領する。5歳下の弟、尚信(なおのぶ)は竹川町(銀座、のち木挽町移転)に、11歳下の弟、安信(やすのぶ)は京橋中橋にそれぞれ拝領屋敷を得て、江戸狩野派の基礎を築いた。その3兄弟の展覧会「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」(3月30日まで)が、板橋区立美術館で開かれている(写真上)

 

0913_562_140226kanoutanyu.jpg室町時代から隆盛を極めた狩野派は、探幽のときに江戸に拠点を移し、幕府御用絵師として活躍した。慶長7年(1602)山城国(現京都府南部)に生まれる。家康に謁見し、京より召されて御用絵師となり、元和7年(1621)に鍛冶橋御門外に屋敷拝領する。延宝2年(1674)73歳で死去。

 

尚信は慶長12年(1607)山城国生まれ。寛永7年(1630)、江戸で徳川秀忠に謁見、御絵御用を申付けられ竹川町に屋敷拝領。慶安3年(1650)44歳で死去。安信は慶長18年(1613)山城国生まれ。元和9年(1623)狩野宗家を継ぐ。寛永年間に中橋に屋敷を拝領する。貞享2年(1685)73歳で死去。

 

中央区の江戸狩野屋敷跡を訪ねよう。「狩野画塾跡」は銀座五丁目、旧木挽町で昭和通りに面して説明板が設置されている(写真下)。ここは木挽町狩野屋敷跡で、銀座竹川町から移転してきたもの。江戸狩野派として幕末まで存続し、明治画壇に狩野芳崖や橋本雅邦などを輩出した。

 

中橋狩野屋敷跡は京橋一丁目、旧大鋸町で、歌川広重住居跡の説明板の中に、わずかに狩野屋敷があったことが触れられている。探幽の鍛冶橋屋敷跡は八重洲二丁目、鍛冶橋交差点付近であるが、坂本龍馬が通った千葉定吉道場が一時置かれたところが鍛冶橋狩野屋敷付近だった、とその説明板にある。江戸狩野四家として浜町狩野屋敷があったとされるが、詳細は不明である。@巻渕彰

 

 

劇場のお稲荷さん

[滅紫] 2014年3月 7日 14:00

旧暦2月の初午は今年は3月12日になりますが、今日ほとんどの2月初午祭や二の午祭は新暦で行われているので年中で一番寒い季節に当たっています。旧暦であれば、初午は少し春めいた頃に巡ってきたもののようです。

三大稲荷の一つ「笠間稲荷」では新暦と旧暦の両方で初午祭を行うとのこと。江戸時代には「事始め」の時期で寺子屋に入門するのもこの日が多かったとのこと。ベストセラーの「なぜ日本では八幡神社が一番多いのか」によれば、「稲荷社」を名乗る神社は2070とされているが摂社末社や街中の小祠を入れれば実際には稲荷が一番多いはず」と書いてある。「もともと五穀豊穣の神だった稲荷は次第に漁業の神、商売繁盛の神、そして関東では屋敷神として広く信仰を集めるようになり「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれるほど多くの稲荷が勧請されたと言われている。」(「日本の暦と年中行事」)。

江戸時代には芝居小屋には「大入りや安全祈願」を願って必ずお稲荷さんが祀られて、2月の初午には楽屋でも年中行事として稲荷祭が催されそのすべてを管理、主催していたのがそばに部屋のある大部屋役者たちで「稲荷町」と呼ばれていたのはご存知の方も多いことでしょう。(別な説もあります)。江戸三座もそれぞれ楽屋に稲荷大明神を祭祀していて、中村座は「銀杏稲荷大明神」!、市村座は「大津稲荷大明神」(何故か森田座がない)で「商売繁盛」や「安全祈願」に霊験あらたかな稲荷大明神はあらゆる意味で芝居興行の守護神にふさわしかったことでしょう。

現在でも歌舞伎の上演される劇場には稲荷が祭られています。以下の写真は歌舞伎座「歌舞伎稲荷大明神」と新橋演舞場「演舞場稲荷大明神」、明治座の稲荷です。歌舞伎座と新橋演舞場は鉄砲洲稲荷神社の氏子です。明治座の稲荷は笠間稲荷を勧請したものだそうです。国立劇場の稲荷は花園神社の稲荷を勧請したものと会員向けのバックヤードツアーで伺いました。楽屋入口の着到板のそばにあります。観劇の折に、劇場のお稲荷さんにもちょっとお参りしてみませんか?国立劇場をのぞけばいつでもお参り可能です。(演舞場稲荷はチケット売り場の裏にあります)。

 

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銀座にはなぜ超高層ビルがないのか

[みど] 2014年3月 5日 14:00

銀座は都内の他の地域に比べ、あまり高い建物がないこと
にお気づきでしょうか。銀座区域には「銀座デザインルール」
というものが存在し、建物は56メートルまでと決まって
いるため、超高層ビルが存在しないそうです。
このルールは建物や看板などが銀座のイメージをそこなわ
ないように定めているとのこと。
だから高層ビルが林立する汐留や丸の内とは街の顔つきが
大きく異なっているわけです。

 

実は2003年、松坂屋と森ビルによって200メートル近い
超高層ビル計画が銀座に提案されたそうです。
しかし「銀座らしい」まちのにぎわいを守るため商店街が
結束し、地域のルールを考え上記の「銀座デザインルール」
に至ったということです。

これらのことは竹沢 えり子さんの著書『銀座にはなぜ超高層
ビルがないのか~まちがつくった地域のルール』 (平凡社新書)
に紹介されています。
商店街はどのように結束し、企業や行政と街の未来について
何を話し合ったのか。全国商店街も参考にできる、街づくり
を紹介している本です。


以下、本の目次より-----

プロローグ 銀座に超高層ビルが計画された
第1章 銀座とはどんな街か
第2章 大規模開発前夜、90年代の銀座~
   第一次地区計画「銀座ルール」の策定
第3章 200メートルの超高層ビルが銀座に?
   2004年から「銀座街づくり会議」が始動
第4章 銀座の声を行政へ!
第5章 新建築は銀座との事前協議が必要に
   銀座デザイン協議会の船出
エピローグ ふたたび松坂屋の再開発について

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◆明治銀座、偉才の先覚者と親子三代 ~「岸田吟香・劉生・麗子」展~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 3日 08:14

近代明治の銀座煉瓦街に薬舗「楽善堂」を開き、目薬を製造販売する事業家として、また出版人、思想家、文筆家としても名をはせた岸田吟香(ぎんこう)、息子の画家・劉生(りゅうせい)、孫娘・麗子(れいこ)の親子三代にわたる展覧会「岸田吟香・劉生・麗子―知られざる精神の系譜」展(会期4月6日まで)が世田谷美術館で開かれている(写真上)


0913_561_140222kishida.jpg岸田吟香は天保4年(1833)、現在の岡山県に生まれた。医師ヘボンに出会い和英辞書を編纂し、維新後は明治6年(1873)、尾張町(現銀座五丁目)の日報社に入社、『東京日日新聞』主筆として活躍した。独特の語り口やユーモア、論客ぶりが評価されたという。

 

明治8年(1875)、銀座二丁目に薬舗「楽善堂」を開業し、これまで研究をしてきた目薬「精錡水(せいきすい)」の製造販売に乗り出す。ヘボンから処方された日本初の液体目薬で、ガラス瓶にコルク栓の画期的なものだった。明治38年(1905)、銀座楽善堂で死去、72歳。

 

劉生は明治24年(1891)吟香の四男として、銀座に生まれ、銀座で育った。14歳のとき父が他界。大正2年(1913)22歳で結婚し、代々木に転居する。画家として成熟していき、愛娘をモデルに「麗子像」を描き続けた。

 

昭和2年(1927)の随筆『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』に、思い出として「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこ(銀座二丁目)で育ってきた」と記している。昭和4年(1929)、38歳の若さで死去。

 

麗子は大正3年(1914)、劉生の長女として生まれた。4歳から父の「麗子像」モデルを務める。15歳のとき父が逝去。その後、絵画や演劇、小説などの表現者として生涯を送った。評伝『父 岸田劉生』の刊行を目前に昭和37年(1962)、48歳で急逝した。

 

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)常設展示室には、岸田目薬「精錡水」看板(写真下)、ガラス瓶、引札などの所蔵品が展示されている。@巻渕彰

 

 

 

日本橋から五街道へ  その前に、日本橋を楽しみましょう

[銀造] 2014年3月 2日 09:00

 その昔、江戸時代に徳川家康が日本橋を五街道の始発場所と定めました。

現在、日本橋の道路の中央部には、「日本国道路元標」が埋められていることは多くの方がご存知です。

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沢山の方々が日本橋から東海道を始めとする五街道歩きに出発されます。

だけど、歩く出発地点としてだけで、日本橋に来るのは大変惜しい気がします。

日本橋は架橋400年以上の歴史があり、周辺には300年以上の歴史を持つ老舗が沢山ありますので、

日本橋で1時間余裕を持って老舗巡りで記念のお土産を買ったり、名店で昼食をされてから、出発されては如何でしょうか?

 

 私がご案内した新潟とか首都圏の方々は、

三越日本橋店にて、お買い物をして、来店記念のスタンプを押印して貰ったとか、

榮太樓総本舗の日本橋をモチーフにした飴とか、http://www.eitaro.com/

黒江屋さんの擬宝珠を見て「二本はし」を購入されて、

喜んで お出かけになった方々が多いので、ちょっとご紹介します。

 

日本橋の歴史を知るには、見て理解するのが一番ですね。

その場合は、東京メトロ三越前駅のコンコースに設置されている「煕代照覧」で

昔の通りの風情を感じ取るのが良いでしょう。

 

また、高いところから一望して、現在の東京を知るには、

ホテル・マンダリン・オリエンタルの38階にあるレストラン「ケシキ」でゆったりと食事と周辺の景色を堪能されてから、五街道歩きに出発する。

勿論、コレド室町とかコレド日本橋の食事処や「たいめいけん」などの有名なレストランでお食事をされて、良い想い出づくりをなさってからお出かけするのもお勧めです。

 

日本橋周辺の日本銀行や貨幣博物館の見学も忘れては勿体無い。

橋の周囲を一回りして、

橋の広場で道路元標のレプリカや各地への里程表を見たり、

魚市場の名残をお知らせする乙姫広場、高札場跡の説明などを見て、日本橋を究めて、楽しく出発して下さい。

それでは、良い旅を!