[お江戸のマーシャ・堀内]
2015年6月18日 14:00
時代小説や街の歴史パンフレットに「するがてふ」という文字がよく出てきます。
今で言えば、室町一丁目当りでしょうが、其の名の由来がズット気になっていました。
最近、日本橋北詰の東側交差点を渡った角地のビルの一階に、その説明を見つけ、
ようやくスッキリしました。(下記写真の黒いビル一階)
その説明にはこう書かれています。
日本橋にかつて駿河町という一角がありました。徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、
駿河の国より随従した町民のために与えた土地がこの駿河町でした。
当時このあたりには一面に葦が茂っていたと伝えられています。
広重の「名所江戸百景」にある江戸の日本橋は、室町界隈の有便堂さんのシャッターに見えます。
高速道路が架っていない日本橋
高速道路の架った日本橋、日本橋南詰め船発着場の擬宝珠
羽田空港出発ロビー3階に19世紀当時の日本橋復元!
1944年の中央区の上空写真≪三越駅前にあり≫
Cool Bizは10月末までです、ネクタイは何故に必要なのかと思わせる
最近の早めの暑さです。毎日の工夫でボケることなく秋の風が吹くまで、、。
[CAM]
2015年6月17日 18:00
私が通った小学校と中学校は、心斎橋(大阪市中央区)の大丸百貨店、御堂筋をはさんでその東西近辺に位置していた。したがって、私にとっては、「大丸」とは百貨店の代表的存在であり、戦後になって東京駅八重洲口に東京店を開設したのは、「東京」への「(初)進出」だと思い込んでいた。
しかしながら、長谷川時雨の『旧聞日本橋』で、「最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。」とされていることを読み、その東京店は、かつては日本橋を代表するような存在であったことを知った。
現在の「大丸松坂屋百貨店」HPで「大丸の歴史」を見ると、下記のようになっている。
1717
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〈享保2年〉 下村彦右衛門正啓、京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業。(大丸創業)
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1726
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〈享保11年〉 大阪心斎橋筋に大阪店「松屋」を開き、現金正札販売をはじめる。 (現・心斎橋店現在地)
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1743
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〈寛保3年〉 江戸日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。
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1910
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〈明治43年〉 江戸店、名古屋店を閉鎖。
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1954
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〈昭和29年〉 東京駅八重洲口に東京店開店。
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サイデンステッカー「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」(安西徹雄訳)では、次のように述べられている。
>(路面)電車の影響はさらに大きかった。呉服屋の大丸などその典型である。現在のデパートの中には、かつての呉服屋から発展した例がめずらしくないが、大丸もその一つで、18世紀に日本橋で開業し、明治の中頃には三越などより繁昌していた。長谷川時雨も書いているように、大丸は「丁度現在三越呉服店を指すように、其当時の日本橋文化、繁昌地中心点であった」。けれども大丸はほかの店とちがって、銀座から上野へ抜ける電車通りに面していなかった。そこで次第に客足が遠のき、明治の末には東京の店をたたんで関西に撤退せざるをえなくなった。東京に帰ってきたのは第二次大戦後のことで、ただし今度は交通の便から外れまいと、東京駅の駅ビルの中に店を構えたわけである。(73)
[ジミニー☆クリケット]
2015年6月16日 14:00
浜離宮恩賜庭園は、江戸時代、甲府藩の下屋敷の庭園から将軍家の別邸浜御殿を経て、明治以降、宮内省管理の離宮になり、その後東京都に下賜されて都立公園として現在に至っています
先月、園内では、三つ目となる御茶屋の復元が完了しました
燕(つばめ)の御茶屋です
燕の御茶屋は、十一代将軍徳川家斉の時代にあった御茶屋のひとつで、釘隠しの金物がツバメの形をしていたのが、名称の由来と言われています。
屋根は、サワラ材を重ねて葺いた「こけら葺き」です。
浜離宮では、現在、庭園内の茶屋群の復元を進めています
1983年に「中島の御茶屋」、2010年に「松の御茶屋」を復元。
2017年度までに「鷹(たか)の御茶屋」も復元するそうです。
19世紀後半にあった迎賓施設「延遼(えんりょう)館」も2020年までに復元し、都の迎賓施設として使う方針だそうです。
梅雨の合間の晴天の一日、池に泳ぐクロダイやボラを見ながら、広々とした庭園を散策するのは気持ちがよかったです
[橘]
2015年6月16日 09:00
小説「祈りの幕が下りる時」に出てくる橋を小説中でカレンダーにメモされた月の順にご紹介していますが、今回は5月のカレンダーに書かれていた"一石橋"近辺のご紹介です。
一石橋です。橋の名前の由来は、橋の北に金座頭の後藤家(五斗)、南に呉服頭の後藤家(五斗)があって、二つのゴトウ(五斗)を合わせて一石と名付けられたそうです。
現在の橋は大正11年に架け替えられ平成9年に大改修されたものですが、大正11年当時の親柱が一本だけ残されています。
橋の袂には「まよひ子のしるべ」と記された迷子しらせ石標が残されています。
石標の左側面には「たづぬる方」と刻まれており、迷子の特徴を書いた紙を貼るようになっており、右側面には「志らする方」と刻まれており、迷子の所在に関する情報を貼るようになっています。
江戸時代には迷子が多く出たため、情報を開示する掲示板の役目をする様に、地元の町人が資金を出し合って建てたものです。
現在は東京都の指定有形文化財に指定されています。
昭和24年に埋め立てられる迄は外堀川が中央区と千代田区の境を南に流れ土橋で汐留川に合流していましたが、外堀川が日本橋川から分岐していたのが、一石橋の辺りです。
埋め立てられた外堀川の上には、呉服橋の辺りにはパソナ(以前は大和証券)、新ビルを建設中の鉄鋼ビル、大丸デパート等が現在は並んでいます。鍛冶橋以南には西銀座デパート、銀座インズ等が並び、その上を高速度道路が走っています。
又、明治43年に埋め立てられた道三掘(内堀の和田倉門から外堀川を結ぶ堀)が外堀川と合流していたのもこの辺りの様です。
[サム]
2015年6月15日 09:00
6月10~14日、築地波除稲荷神社では、江戸時代から続く、夏越し大祭 「つきじ獅子祭」が行なわれています。
同祭の起源は、一面海だった築地が埋め立てられた今から約350年前に遡るとされます。埋め立て工事が困難を極めた折、海面を漂う稲荷大神の御神体を社殿を造り祀ったところ、波風は止み埋め立て工事は無事終了。ご神徳のあらたかさに驚いた人々が、稲荷大神に「波除」の尊称を奉り、また雲を従える龍、風を従える虎、一声で万物を威伏させる獅子の巨大な頭を数体奉納し、これを担いで回ったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりとされています。
「つきじ獅子祭」には3年毎に開催される本祭りと、その間の年に行なわれる陰祭りがありますが、今年は本祭りの年。
10日 大祭式、11日 鎮花祭・宵宮祭、12日 御神楽祭・江戸里神楽奉納 に続き、13日はいよいよメーンの渡御祭。
今回は築地市場移転前の最後の本祭りということで、市場内「水神社大神輿」も一緒に築地内を巡行。
違う神社の神輿が一緒に巡行することはめったにないとされ、「神社千貫宮神輿・弁財天お歯黒獅子」が「水神社大神輿」と一緒に巡行するのは最初で最後の機会と聞きます。
宮出し(12:50)~水神社参拝・魚河岸会渡御~宮元渡御~築地町内渡御~宮入り。
普段ターレー・フォークリフトや小車が行き交い活気に溢れた場内も、この日は清々しく掃き清められた上で、巡行迎え入れ。
半纏姿も粋な魚河岸衆の威勢のいい掛け声が響き渡る中、殊に2基の神輿揉みシーンは迫力満点で、いやが上にも祭り気分が盛り上がります。
大勢の見物人の人いきれに加え、当日の東京地方の最高気温は29.0℃。
場内は感動の熱気に包まれました。
翌14日は、弁財天お歯黒獅子宮入り・各町神輿連合社参が予定されています。
続きを読む: つきじ獅子祭 渡御祭 2015
[CAM]
2015年6月14日 14:00
「銀座化粧」は昭和26年の作品です(You Tube で見ることができます)。このなかでは、埋め立てられる前の築地川とその界隈の町並みが美しくとらえられています。
ヒロインの田中絹代は銀座の女ですが、それほど華やかでもなければ若くもありません。6歳くらいの男の子を抱えて女ひとりで生きており、新富町にある長唄師匠のしもたやの2階を借りているという設定です。
もともとは、銀座も築地も、四方を川で囲まれた「島」でした。三十間堀が昭和24年頃に戦災瓦礫で埋め立てられて以降、そうした川は次々に埋め立てられ、築地川もほとんどが消えることになりました。映画の中では、晴海通りを築地の方から銀座へ歩いてきて三原橋のあたりで、田中絹代が堀雄二に「このへんは三十間堀と申しまして、埋め立てない前は夜などは両側のバーや喫茶店の灯が光に移ってとてもきれいでしたわ」と語ります。三原橋では、当時建設中であった東京温泉なども映されています。
敗戦日本の独立が昭和27年4月ですから、当時は「占領下日本」(Occupied Japan)でした。 しかし、映画の中では英語の街路表示なども見られず、また服部時計店ビルも米軍PXだったはずですが、その様子は見られません。街路を外国人兵が歩いている様子も出てきません。ただし、銀座4丁目交差点で、田中絹代が堀雄二に「ついこのあいだまでは両側に露店が出ておりました」と語っています。三十間堀埋立の後にはまだ完全に除却されていない瓦礫も見えます。
その他、画面では、聖路加病院の十字架の塔や入船橋、明石橋、築地橋など、当時の築地かいわいの風景を見ることができます。