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2015年7月20日 18:00
「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、竹内誠氏の執筆された「平凡社大百科」における説明が簡明でわかりやすい。以下、この竹内説によると、
>江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代になってはじめて登場してくる。江戸っ子意識とか江戸っ子気質といわれるものも,ほぼこの時期に成立したのであろう。 ・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。(竹内誠)
>この時期(田沼時代)には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,〈上方者〉への反発は大きかった。そこに金ばなれのよい気風のよさを強調する,江戸っ子意識が成立する背景があった。〈江戸っ子は宵越しの銭を持たねえ〉と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。 (竹内誠)
>江戸っ子意識が18世紀後半に成立したもう一つの契機は,重い年貢や小作料の収奪に苦しみ,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら〈田舎者〉が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生え,やがてこの面からも江戸っ子意識の成立が促されたといえよう。(竹内誠)
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2015年7月20日 14:00
よく、「芝で生まれて神田で育った」のが江戸っ子といわれる。しかしながら、「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」のだとすれば、神田は、元来は、江戸という地区には含まれないことになる。
池田弥三郎氏は、以下のように述べる。
>歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。(『日本橋私記』88)
元来の江戸っ子とは、今の中央区の中の、旧日本橋区、京橋区の主として商家に働く人々のことであったはずであり、最狭義では、「擬宝珠と擬宝珠との間」の地に生まれ育った者になるかもしれない。その後、徐々に、神田、芝、本所深川に生まれ住んだ人間まで含まれるようになってきたのである。
池田弥三郎氏は、次のように述べる。
>江戸の「本町」の商家の旦那衆に加えて、職人階級に属する人々が増加し、江戸っ子を形成していったということになる。だから、金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。(『日本橋私記』88)
[巻渕彰/写楽さい]
2015年7月18日 09:00
千代田区は江戸城が「千代田城」とよばれたことから、麹町区と神田区が統合して昭和22年(1947)3月に発足したという。「千代田」とは「千代」非常に長い年月、千年もつづく「御田」、だから永劫吉祥を意することで、中央区内にも「千代田」を付した場所がある。
まずは、「千代田神社」が日本橋小伝馬町に鎮座している。掲出の由来によれば「長禄年間(1457-1459)神霊に依り、太田持資道灌が御霊を千代田の御城に祭り鎮守とす。徳川綱吉の時、太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す(以下略)」とある(写真上)。
永代通りの兜町と日本橋間の楓川跡に「千代田橋」の遺構が残っている。関東大震災後の復興橋梁で昭和初期に架けられた。千代田という橋名の由来は不明だが、永代通りを西に向かった先には江戸城大手門跡に突き当たる(写真下)。
両国橋西側の矢ノ倉町には「千代田小学校」があった。現在の日本橋中学校の場所である。千代田小学校は明治9年(1876)の開校で、関東大震災で焼失して再建された復興小学校であった。昭和5年(1930)には昭和天皇が震災復興で臨幸したことで知られている。
「千代田」の語彙は普通名詞であることから、中央区内でもめでたい名称として一般に使われたのであろうか。@巻渕彰
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2015年7月17日 18:00
元来は、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、江戸の南の境界は新橋川であるとされた。 そして、この新橋川に架かる難波橋が江戸を追放される者の放逐個所となっていたという。
そして、この橋を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。そして、本郷にも支店があったのだが、その近くにある小橋「も」、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたという。(72)
池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の「も」はそういう意味だと言う。(『日本橋私記』)
文京区の観光HPを見ると、
>享保年間(1716~1736)に、現在の本郷三丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。これが当たり店が繁盛していたという。
享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。
と説明しているが、文京区の説明は、原因と結果が逆になっているのではないか。サイデンステッカー氏も、以下のように述べているのみである。
>兼康というのは、今も本郷にある有名な薬種・小間物の店で、今の東京大学より手前である。そこから先はもう田舎というわけである。(30)
しかしながら、池田氏のように解することによって、「も」という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、狭義では、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えがよく理解できる。
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2015年7月17日 09:00
本年度の中央区観光協会主催「まち歩き」ツアーが先月末よりスタート。
今回は、7月14日に開催された新コース「 特別産業コース」<観光協会特派員と歩く築地周辺>のご紹介。
当日の日本列島は高気圧に覆われ、南から暖かく湿った空気も流れ込み、全国的に気温が上昇。東京の最高気温も34.3℃を記録。
定刻の10:00前に当日の参加者6名が集合場所の「タイムドーム明石」に揃ったところで早速スタート。
まずは、公使/ 領事をはじめ、伝道・医療・教育関係といった、所謂知識人層が多く居住し、文教地区の様相を呈した築地居留地の特徴的な足跡を巡り、次いで異国文化の隣接地、家並みに昭和の面影が色濃く残り、隠れたグルメスポットとも称される築地7・6丁目界隈 "裏築地" を散策した後、お目当ての築地場外市場へ。
創建350余年の波除稲荷神社の建つ一角は、時代のうねりのなかで大変遷を遂げながら、神社は一貫して築地の氏神であり続けています。
最後に場外市場の老舗のひとつ「玉子焼き大定」さんを訪ね、お店の歴史や商品の話を伺い、伝統を継承する商いのこころに触れさせていただきました。
(集合地点)~聖ルカ通り~居留地中央通り~築地7・6丁目"裏通り"~波除通り~(解散地点)
「大定」さんは、創業80余年。
「味」「素材(地養卵<漢方処方の特殊飼料で蓄養した鶏の卵>を厳選して100%使用)」「技」の3つの粋を極めた玉子焼がセールスポイントとの由。
寿司店向きの定番「つきじ野」、創業当時宮内庁御用達の味の復刻版「江戸前」、出汁を効かせた日本料理店向きの「江戸だし焼」、砂糖に代え蜂蜜使用の「小粋なハニー」を始めとして、具材のバラエティ等々を合わせると、その数はなんと30種以上‼。
出汁や甘味が違う <旨み四品~かおり~> 、彩りと食感が違う<風味四品~ゆたか~> の "お楽しみパック" もあります。
店奥には22台もの玉子焼器が並び、職人さんが次々と焼き上げる姿は壮観です。
11:30、ツアー終了。
大定 石井課長、お忙しい中、貴重なお話有難うございました。
ご参加の皆さん、お疲れ様でした。
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2015年7月14日 18:00
池田弥三郎氏は、「江戸」という地域の範囲についても考察されている(『日本橋私記』。
池田氏によると、江戸の地というのは、まさに「江処」であり、「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。
「江戸」という地名の起原については諸説があるが、江戸太郎という人物が居処としたからだという説もある。また、江戸城の発端は,12世紀初めごろ江戸重継が,荏原郡桜田郷の北東部,江戸湾に臨む台地上に設けた居館だとされている。しかし、因果の流れとしては、人名が地名に由来すると考えるのが自然であって、「江」という場所を意味する「えど」が地名の起原だと考えるのが穏当であろう。
そして、家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、江戸の中の江戸というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。
さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、この時に出來、おそらく、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657 )の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、ほぼ日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。(68)
『中央区史』によると、明治11年(1878)に、日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのだが、その直前、11年4月に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、それには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸・南江戸の名がある。つまり、4月の原案の立案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区というようにしたものらしい。(23) これは、上記のような江戸初期の市街造成の歴史を踏まえると理解しやすい。
このように、「江戸」という地域を、狭義では、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とするという考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。 『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いている。(70)