[与太朗]
2015年9月30日 18:00
銀座六丁目の銀座朝日ビル建替工事現場に文豪夏目漱石 (1867-1916) が現れました。現場の仮囲い、並木通り側とソニー通り側の両面に漱石の肖像と小説『三四郎』、『明暗』の挿絵 (名取春仙画) が描かれています。
ここは旧瀧山町、漱石が入社した東京朝日新聞社のあった場所 (現・銀座6-6-7) 。並木通り車道寄りには同社の校正係だった石川啄木 (1886-1912) の歌碑があります。ふだんはこれをながめて通りすぎる人も、今は向かいの漱石に目を奪われているようです。
漱石は、明治40年 (1907) 帝大・一高の教職を辞し、東京朝日新聞社に入社します。当時の社会的評価の差から、世間を驚かせた転身でしたが、「新聞屋が商売ならば大学屋も商売である」、「何か書かないと生きている気がしない」と、敢然として文芸創作の道に進んでいきます。『虞美人草』を皮切りに、『三四郎』『こころ』・・・そして絶筆未完の『明暗』に至るまで朝日新聞連載小説として世に送り出します。また、文芸欄を主宰して新進作家を推挽、発表の場を与えました。出社の義務はありませんでしたが、水曜日の編集会議に出てくると、口数は少ないが、すました顔で思いがけない警句を吐いて皆を笑わせ、賑やかな会議になったそうです。
私・与太朗は、漱石と中央区の関わりについて過去二度ばかりこのブログに書かせていただきましたが、その際、区内で最も漱石とご縁の深い重要なこの場所に、彼を偲ぶものが何もないというのが残念でたまりませんでした。二年後、工事が済めばこの囲いも無くなります。そのときには新しく恒久的なモニュメントが造られることを念願しています。来年2016年は漱石没後100年、再来年2017年は生誕150年、大きな節目が近づいています。
【つけたり】その一 石川啄木の歌碑 (写真右)
「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
漱石の『それから』『門』の連載は、啄木在社時に重なります。啄木も校正を担当したことでしょう。
【つけたり】その二 拙文二つ
「漱石の足あと in 中央区」 (2012.10.31)
/archive/2012/10/in-3.html
「文豪と丸善 (その二) 夏目漱石と万年筆」 (2013.3.14)
/archive/2013/03/post-1576.html
[pont]
2015年9月30日 16:00
施工途上の新しい水天宮の一部が姿を現しました。
本殿・拝殿と思われる建物の覆いが取られ、真新しい姿を外から見ることが
できます。夜に撮影してみました。
水天宮は、江戸時代に九州・久留米の水天宮を、領主有馬家の
江戸屋敷内に勧請したもので、場所も現在地とは異なり、
人形町・蛎殻町地域の土地神ではありません。
しかし、江戸時代から続く安産祈願に各地から多くの参拝客が訪れることは、
今も昔も変わりがありません。
工事はまだまだ続き、現在の仮宮(浜町)からの遷座は先になりますが、
人形町の人気スポットとして再びお参りができる日を心待ちにしています。
[CAM]
2015年9月27日 16:00
荷風は、大正7(1918)年12月、築地2丁目30番地、築地本願寺近くに移ったのであるが、その前にも、半年程度の短期間であるが、築地に小さな家を借りている。 大正2(1913)年に父が亡くなった後、大正4(1915)年5月のことで、京橋区築地1の6、現在の銀座キャピタルホテルのあるあたりである。さらに大正5(1916)年には、短期間であるが、代地河岸、現在の柳橋1丁目に家を借りている。この築地1丁目、柳橋の後に選ばれたのが木挽町(現在の銀座8丁目)であり、大正6(1917)年9月であった。(川本三郎『荷風と東京』;56)
したがって、荷風の中央区築地近辺の住所歴を時系列で整理すると
大正4(1915)年5月、築地1丁目
大正5(1916)年、代地河岸(現在の柳橋1丁目)
大正6(1917)年9月、木挽町(現在の銀座8丁目)
大正7(1918)年12月、築地2丁目
大正9(1920)年5月、麻布区市兵衛町へ引っ越し となる。
築地1丁目における生活は、「築地草」と題する随筆(大正5年)の中で述べられているが、その中で月島、住吉神社についてふれているので、紹介しておきたい。 「断腸亭日乗」は大正6年9月から始まっているから、「断腸亭日乗」には出てこない。
一 われ胃を病むこと久しければ朝まだき居留地を歩み佃の渡わたりて住吉神社の参詣をばその日その日のつとめとなしぬ。佃島今は全く漁村の趣を失ひたれど猶貝殻捨てし路のほとりに碇を引き上げ人家の軒に投網を干したるなど佃煮売る家の小旗と共に捨てがたき眺なり。渡舟にて折々艶めかしき姿したる女と乗り合ふ。漁家の娘の身を売りたるが親の病なぞ訪ひ来るにやあらんかとわれ例のわけもなき空想に耽るもをかし。
一 梅雨となりて今年はわけて暴風模様の日多かりしかば住吉詣もいつしかおろそかになりぬ。其頃より新富町の裏手を渡るゝ掘割づたひ八丁堀の講釈場に半日を暮しけり。
[CAM]
2015年9月27日 16:00
荷風の『日和下駄』は、東京散策の古典と言われてきた書であり、「永代橋」については以下のように述べられている。
「かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢り立った大川口の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照らして、此後とも案外長く或一派の詩人を悦ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及び其の風景によって感興を発したらしく思はれるものが尠くなかった。全く石川島の工場を後にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船を見ればおのづと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動する此の河口の光景に接するやドオデェがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐なる彼の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋は最早や辰巳の昔を回想せしむべき何者もない。さるが故に私は永代橋の鉄橋をば却てかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく河口の風景に一致してゐる。」(13-334)
永代橋は、最初の橋は元禄11年(1698)に架けられ、現在の架橋位置より150mほど上流にあった。当時としては規模の大きい木造橋で、とても見晴らしがよく、夏は納涼の名所として知られた。その後、事故などにより何度となく架け替えが行われ、明治30年(1897)には現在の場所に鉄橋が架けられた。しかし、この橋も関東大震災で被災したため、震災復興事業の一環として大正15年に架け替えが行われた。(「中央区ものしり百科」127頁)
この荷風の「日和下駄」は、大正3年夏のはじめよりおよそ1年あまり雑誌「三田文学」に連載されたものだから、ここで描かれている永代橋は大震災で被災したもので、現在のものではない。
現在の永代橋(2015年9月23日撮影)
[ジミニー☆クリケット]
2015年9月26日 09:00
八重洲地下街の外堀地下1番通りに「ヤン・ヨーステン記念像」があります
「八重洲」が「ヤン・ヨーステン」に由来することはご存知の方も多いかと思います。
オランダ船リーフデ号に乗っていた航海士のヤン・ヨーステンが、日本に漂着したのが1600年(慶長5年)。徳川家康の国際情勢顧問や通訳となり、与えられた屋敷の周辺が、彼の日本名「耶楊子(やようす)」から「八代洲(やよす)」と呼ばれ、やがて「八重洲」になりました
ちなみに、「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンスタイン」だそうです。
また、リーフデ号の航海長がイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)です。
記念像の隣にはリーフデ号がたどった航路やオランダ船の絵、江戸時代の東京駅付近の地図がパネル展示されています
また、地下街から地上に出て、日本橋三丁目交差点の中央分離帯には、「ヤン・ヨーステン記念碑」があります(下の写真の右下方)。
二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされた形
左がヤン・ヨーステン、右がリーフデ号です。
中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが描かれています。
この記念碑は、1989年に日蘭修好380周年記念として建てられました
[ジミニー☆クリケット]
2015年9月26日 09:00
浜町公園の一隅に小さなお寺があります。
清正公寺といい、日蓮宗の寺院で、熊本本妙寺の別院になります。
このお寺はその名の通り、豊臣秀吉の子飼いの家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」や朝鮮出兵でも有名な加藤清正公を祀るお寺です。清正公は、肥後国を与えられ、熊本藩主となりました。
では、なぜ浜町公園に清正公のお寺がということですが・・・
この浜町公園の場所には、もともと加藤家の後を受けて肥後の国の領主となった細川家の下屋敷があったそうで、文久元年(1861年)に、藩主細川斎護が、熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請したのだそうです。
明治維新後には、一時加藤神社()と称したそうですが、明治18年に仏式に戻して、清正公堂と改称し、管理を熊本本妙寺に委託して、本妙寺別院として現在に至っているそうです。
これからは、季節もよくなり、緑の多い浜町公園や公園裏手の隅田川沿いは、散歩にも最適かと思います
一度清正公寺も訪れてみてください