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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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月島開運観世音の賽銭箱

[kimitaku] 2015年10月 3日 14:00

 「月島を観光で訪れるお客様は、たくさんいらっしゃいます。

でも、多くのお客様は"もんじゃ"を食べて、それで月島に満足・・・てなことないですよね。」

 なんて、 月島の観音様が言っていました・・・・?

 もんじゃをおなかに入れる前。

お風呂屋さんに向かう路地を行くと、ひっそりと開運観音様が鎮座しています。

  お賽銭を投げて、静かにお願いをしたら、そっとしゃがんで、箱の絵を見てください。火消しの纒がたくさんたくさん描かれています。

一つ一つがさながら、若集が裏で纒を持って、粋に皆さんを歓迎しているようじゃありませんか。どうぞご覧ください。

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三井本館

[橘] 2015年10月 2日 18:00

三菱と言えば"丸の内"ですが、三井と言えば"室町"ですね。三越も三井系ですし、現在"コレド室町1"のある場所には東レの本社がありましたね。現在は日本橋三井タワーに本社を移しましたが,東レも三井という名前は付いていませんが三井系です。
実は私が勤めていた会社も戦前は三井本館に本社がありました、というご縁で紹介させて頂きます。
 

現在の三井本館は、明治35年竣工の旧三井本館が関東大震災で被災した後、三井合名理事であった團琢磨氏の主導で、耐震性の高い建造物を建てるという意向でアメリカのジェームス・スチュアート社に建築を発注したものです。竣工は昭和4年。国の重要文化財に指定されています。

 

意匠は「壮麗」「品位」「簡素」を旨とし、アメリカの新古典主義的なデザインにローマ風のコリント式大オーダー列柱をビルの3面に加味することに依って表現しています。
 
外装には花崗岩を用い、デザインには大理石をふんだんに使っています。

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又、内装も豪華で階段や廊下には赤絨毯が敷かれています。
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又、1階のドリス式円柱群のある吹き抜けの大空間も大変豪華です。

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そして、地下には幅90cm、重さ50tの扉を備えた大金庫が設置されています。

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これでは金庫破りは難しそうですね。

実はこの金庫の扉は重すぎて、日本橋の上を通ることが許可されずに、船で運ばれたという

エピソードが残っています。

 
現在の三井本館は竣工後90年以上経っており、團琢磨が玄関前で血盟団員に撃たれたり、
第二次世界大戦後はGHQに接収されたりと悲しい出来事も見てきています。

現在室町近辺はコレド室町が開業したり、福徳神社は立派に建て替えられる等賑わいを見せています。
これからも三井本館は室町の変遷を見守ってくれることでしょう。

                  (尚、内部の写真は三井住友信託銀行さんから提供頂きました)

 

 

ギンザタイムス廃刊

[銀狸] 2015年10月 2日 16:00

上質紙を使用し、1ページの上段に淡いタッチの銀座街の一角が描かれ、人を惹きつける魅力を持った銀座タウン誌

『ギンザタイムス』がこの8月号をもって廃刊となった。

 

創刊が昭和22年とあるから、まだ焼け野原の中での産声であったと思う。

それから68年という長きにわたり銀座を見つめ、大きな貢献をしてきたに違いない。

 

読者投稿の銀座大好き欄は、文字通り銀座にまつわる内容で埋められ、大変楽しみなコーナーであった。

あんなこと、こんなことの記事から、自分もその仲間入りを望んでいたが、思いが実現せずに終わった。

 

最終号でのプレゼントに応募したところ、中央区観光協会特製の風呂敷が送られてきた。

この風呂敷を見るたび、ギンザタイムスを思い出すのは必然である。

 

 

◆ 明治村にある「お助け橋」 隅田川新大橋の旧橋

[隅田の花火] 2015年10月 2日 09:00

 隅田川に架かる橋のひとつ「新大橋」。 オレンジ色の主塔が特徴的なこの橋は、清洲橋のひとつ上流にあり、中央区の日本橋浜町から江東区の森下方面に繋がります。1977年(昭和52)に架けられた比較的新しい橋です。

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今回はその先代の橋、1912年(明治45)に現在地に架けられた鉄製の旧橋の話なのですが、この橋はトラス橋という剛健なフォルムでありながら、優美な装飾が施された橋だったといいます(下の写真は現在の橋の主塔に取り付けられているプレートで旧橋が描かれています)。

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この旧橋の一部は、愛知県犬山市にある「博物館明治村」に登録有形文化財として保存展示されています。かねてから明治村には行ってみたかったのですが、ようやく念願が叶いこのシルバーウィークに見に行って来ました。

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一目見た感想ですが、意外に大きかった印象でした。明治村には日本橋浜町側の8分の1程度が移築されているのですが、これを単純に8倍した姿を隅田川上にあったかのように想像してみると、当時もかなり大きく感じられたのではないかと思います。
全長173メートル、幅25メートル、開通して間もなく市電も通るようになったそうで、この明治村にもその跡が再現されています。

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それと、この橋の特徴とされる装飾。思っていたよりも繊細で美しかったです。橋自体が重厚な感じなので、よりそう感じられるのかもしれません。一番驚きだったのはの野村素介筆の「橋銘板」。色合いはエレガントを通り越してゴージャスな感じです。

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橋銘板、照明器具や歩道の高欄の色は、以前灰色系のペンキで塗装していたそうなのですが、今年の春に創建当時の色に復原する形で塗り直されたとのことです(下の写真は、曲線を多く取り入れた歩道の高欄の装飾)。

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白い花崗岩製の高欄や親柱は荘厳さを感じさせる造りです。

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明治時代に架けられたこの旧橋ですが、よく話に取り上げられるのは関東大震災の時の出来事です。

 

他の橋が震災で落ちる中、当時比較的新しかったこの橋は落ちることなく、燃えることもなく、逃げ惑いこの橋に殺到した群衆の多くの命を救いました。そのため「人助け橋」とか「お助け橋」と呼ばれるようになりました。

 

現在の橋の中央区側の袂には、「大震災避難記念碑」「人助け橋の由来碑」があります。

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「大震災避難記念碑」は思っていたよりも大きく、見上げるような感じ。これは当時の人々のこの橋に対する感謝の大きさを物語るものなのかもしれません。

 

大震災の10年後の昭和8年に建てられたものだそうで、書かれているのは、この橋に避難されてきた近隣神社の神の力・荷物を捨てる適切な判断をした人の力があったので多数の避難者が助かった、というような内容です。

 

 

 一方の小さいほうの「人助け橋の由来碑」は、旧橋から今の橋への交代時に建てられた碑。震災当時、久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する警察官の適切な判断を称える内容が記されています。

 

多数の避難者を誘導すると同時に、このままでは避難者全員が焼死してしまうと判断し燃えそうな荷物を隅田川に捨てさせ、一万人を超える命を救ったのだそうです。

 

ですが、この橋が防災上も優れた橋だったということがいちばんの理由ではないかと思います。

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明治村は今年50周年だそうです。こういう歴史的価値のある建造物が現物の資料として残され、見ることができ、感じることができること。すばらしいことだと思います。
橋に限らず、ビルや建物の建て替えの際には後世に伝えるための努力も必要だということをここに来て感じました。

 

 

 

断腸亭日乗(南高橋、豊海橋など)

[CAM] 2015年10月 1日 16:00

荷風は、「南高橋」、「豊海橋」等についても記している。日本橋川に架かる豊海橋の完成は昭和21927)年9月、亀島川に架かる南高橋の完成は昭和71932)年3月である。

 

昭和91934)年614日、「箱崎町を過ぎ豊海橋を渡り越前堀河岸通を歩む。新川の川口に小祠あり。渡海神社といふ額をかけたり。如何なる神なるや知らず。河岸を歩み湊町を過ぎ南高橋といふ橋の上に立ちて大島行の汽船の波止場を離るゝさまを見る。乗合自動車にて銀座に至り銀座食堂に(はん)す」

 

    豊海橋(2015年9月23日撮影、以下同じ)

 

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「南高橋」については、626日にも記している。

 

昭和91934)年626日、「晴れてむしあつし。午後執筆。黄昏銀座に行き銀座食堂に夕飯を食す。七時過満月松坂屋の高き建物の横手に現はる。旧暦五月の望たるべし。歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷のまえにて車より降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚波止場に至り石に腰かけて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二、三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らふ男女二、三人あり。岸につなぎたる荷船には頻りに浪花節をかたる船頭の声す。歩みて蠣殻町のとんぼといふ家に至り一浴して家に帰る」

 

 南高橋には、断腸亭日乗を引用した表示板があるが、昭和97月となっており、何故か月表示が誤っている。

 

  南高橋

 

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 「渡海神社」とは、中央区新川にある稲荷神社。関東大震災・帝都大空襲のため、古文書焼失のため詳細を知ることができないが、埋立深川区の土地皆無時代は、東南隅畔地にあたり燈台および舟着所なるがゆえに、渡海(トカイ)と名に負う稲荷神社が、宝永元年(1704)に創祀されたと伝えられている。(東京都神社名鑑より)

 

「越前堀」は、現在の新川1-2丁目地域、旧町名。 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地であった。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていた。明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となったが、堀は次第に埋め立てられていった。大正12(1923)年の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられた。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っている。今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなった。

 

「鉄砲洲稲荷神社」は、中央区湊にある稲荷神社。その創建年代は不詳であるが、承和8年(841年)の創建とも承久年間(1219-1221)の創建と伝えられる。寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座、八丁堀稲荷と称していた。明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから当地に遷座。

 

 鉄砲洲稲荷神社と境内の富士塚

 

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