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五木寛之のアルバイト

[CAM] 2015年10月10日 20:00

    昨夜は少し寝つきが悪く、何とはなしに書棚から、昔読んだ五木寛之のエッセイ集を取り出して少し読み返した。

 

 その第一作とも言うべき『風に吹かれて』、その冒頭で、当時の学生アルバイト作業について書いている。その頃、池袋の近くに住んでいたというが、専門紙(業界紙)の配達をやっており、その配達区域が日本橋から月島、佃島を含んでいた。その頃の生活が、『ゴキブリの歌』の中の「18年前の日記から」で述べられている。

 

昭和28(1953)18日「配達を終り1時から4時半まで日本橋図書館。」

 19日「日本橋図書館へ行き、映画史を読む。」

 

 日本橋図書館を利用していたようである。

 

   現在の日本橋図書館(日本橋小学校)

 

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  そして、当時の日記の「解説」として、当時の配達エリアについて、次のように述べている。

 

「先ず日本橋の事務所を出て、日本橋の手前を真直ぐ電車通りをつっ切ると、西川の次の通りを右に回り、丁度日本橋の電車通りと昭和通りにはさまれた道路をどこまでも真直ぐに、京橋に入って右にテアトル銀座を眺める所で左に昭和通りを横切り、配達区域に入る。まず新富町。ここには松竹の本社がある。

 次に湊町、聖路加病院の明石町。

 松竹本社の前の橋を渡って築地1丁目、2丁目にはビクターがある。

 築地警察、京橋公会堂などのそばを通り東本願寺の前を通って、華僑ビルを配り東劇を回って小田原町、勝鬨橋を渡って月島に入る。

 石川島重工業を経て又築地5丁目へ回り、中央市場を配って終わる。約3時間。これが私の責に区域であった。」

 

 湊町は現在の湊1~3丁目、小田原町は現在の築地6~7丁目の旧町名である。(ものしり百科『旧町名の由来』168頁)。

 

  『風に吹かれて』は昭和43(1968)7月、『ゴキブリの歌』は昭和46(1971)8月の発行である。今から45年前後の昔。そして、昭和28(1953)年というと、もう60年以上前の話である。

 

    今の若者が読むなら、私たちの世代が永井荷風の「断腸亭日乗」を読むようなものであろう。

 

 

 

2015「まち歩きツアー」 老舗めぐり① (第2回)

[サム] 2015年10月 9日 18:00

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 今年度の中央区観光協会主催「まち歩き」ツアーもいよいよ後半。

今回は10月2日に開催された「産業コース 老舗めぐり①」の様子をご紹介します。

当該コースは、「カステラの文明堂」「刃物の木屋」「山本海苔店本店」を訪ね、お店の歴史や商品の話を伺い、伝統を継承する商いのこころに触れていただく、約2時間の小ツアー。

 

R0035339 (2)RRSGS.jpg1店目は 文明堂東京 日本橋本店 さん

明治33年(1900年)、長崎で中川安三郎が創業。

カステラの歴史、カステラのできるまで、懐かしのCM、会社の沿革等々の話を伺う。

現在全国に、発祥を同じくする7法人を有し、各地域に密着した生産・販売システムを基本としたグループ会社として、相互協力体制をとっている由。

こだわりは、吟味された素材と熟練職人の技による菓子づくり。例えば、「特撰五三カステラ」は、卵黄を3割増量し、超薄力粉・徳島産和三盆糖・英国産コッツウォルドハニーといった厳選素材を用い、熟練の職人が焼き上げるといった具合。

尚 "五三" カステラとは、カステラの風味を更にコク深く、馥郁と仕上げた極上品で、その名の由来は、使用する卵黄と卵白の割合が5:3であったことに因むという説の他、大切な贈り物として桐箱に納めて贈ることから、桐の家紋 "五三の桐" に因むという説、当初は5つの味(全ての味)を凌駕するほど美味な極上のカステラとして生まれた "五味(ごみ)焼" カステラが、語呂が悪いからか、後に、"五三(ごさん)焼" カステラと呼ばれるようになったいう具合に諸説あるようです。

 

R0035370R'RRSGS.jpg2店目は 日本橋木屋本店 さん

寛政4年(1792年)、初代加藤伊助が奉公先の木屋本店から「暖簾わけ」を許され独立し、打物問屋創業。

先ずは店頭に飾ってある2011年10月27日付日本経済新聞紙面(見開き全面広告)に掲載されている、「熈代勝覧」絵巻の説明から。

文化2年頃の江戸の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰描写した作品で、沿道の88軒の問屋や店の中に、普請中の本店を含め4軒の木屋が描かれており、一番右寄り(北側)の木屋には現在の刃物の木屋で使用している商標と同じ井筒木の紋入りの暖簾が視認されます。

次いで、屋号「木屋」発祥の由来、刃物の木屋沿革、伝統技法の継承と新技術の導入(オーストリア製ステンレス鋼を採用した「エーデルワイス包丁」、粉末製鋼法を採用した「コスミック團十郎」包丁)等々の話に加え、包丁・まな板の素材(各々 鋼/ステンレス鋼/粉末合金鋼、木/プラスティック/ゴム)選びについてもレクチャーいただきました。

店の奥に2014年秋新設された、日本の伝統伝承技術発信の場「izutuki スペース」では、現在「博多水引 長澤宏美 作品展」が開催中です。

 

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3店目は 山本海苔店 日本橋本店さん

嘉永2年(1849年)、初代山本徳治郎が現在地で創業。

お店の奥には旧社屋で使われていた金文字の看板が。

先ずは昭和40年竣工の本店現社屋に施された意匠(ビル外壁面の校倉造りのデザイン、奥壁面の海苔の雄性細胞を図案化した信楽焼のタイル、海苔船の帆・船底をイメージした天井部分)や置物(昔海苔を保管していた「囲い甕」、「海苔船」の模型 )の説明から。

次いで、会社の沿革、味付け海苔の創案、海苔の旬、海苔の産地、養殖方法(支柱式、浮き流し式)、「まるうめ」マークの由来、海苔の保存の仕方、女優の山本陽子さんとの専属モデル契約年数世界最高(1967~)ギネス記録認定の逸話等々を伺いました。

その昔、海苔の生活史が解明される以前は、タネ付け作業はカンや経験を頼りに行なわれており、生産高は不安定で、相場品として「運草」と呼ばれていたこともあったようです。

 

文明堂東京 日本橋本店 星野店長、日本橋木屋本店 金子店長、山本海苔店 日本橋本店 川田店長、お忙しい中、貴重なお話有難うございました。

 

 

 

◆ 戦後70年・聖路加病院の日野原先生からのメッセージ

[隅田の花火] 2015年10月 9日 12:00

中央区明石町にある聖路加国際病院。この病院の名誉院長を務められる日野原重明先生が10月4日に104歳を迎えられました。日野原先生は太平洋戦争直前の1941年8月にこの病院に着任され、以来70年以上医療に携わり活躍されている方です。

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その日野原先生が今秋、「戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり」という本を書かれました。

この本を書店で見つけ、表紙の絵を見て一目気に入り気づいたらレジに並んでいました。中をパラパラと見てみると文字は大きな活字で印刷され、漢字にはふりがながふられています。そう、この本はこれからの未来を担う若い世代に向けて書かれている形になっています。

聖路加国際病院の歴史や日野原先生自身の体験を通して、戦争そして平和の尊さについて次世代に伝えていこうという日野原先生の思いが伝わってくるような内容です。

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聖路加国際病院は1902年にトイスラー博士により開設されて以来、キリスト教の精神を中心に据えた医療が行われてきましたが、同時にアメリカと深いつながりのある病院であるため、太平洋戦争の開戦前後から微妙な立場に追い込まれます。

開戦すると病院の名前は変えられ、十字架は取り外されました。病院だけではなく日野原先生自身にも疑いの目が向けられ、憲兵から尋問を受けたりします。そして終戦後は建物がGHQの管理となったりと、この病院は戦争という時代に翻弄されました。そのような歴史と体験が書かれています。

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また、よく築地界隈は聖路加病院があるおかげで大きな空襲を受けなかったといわれていますが、それを証明するようなアメリカ空軍機からばらまかれたビラなど、多くの写真がこの本に掲載されているのも特筆すべき点。若い世代だけではなく、老若男女・すべての世代が読めるような内容であると思いますし、中央区の戦時の歴史の一つとしてこの病院の歴史を知ることができるような内容にもなっています。

(下の写真は「かちどき・橋の資料館」に展示されていた隅田川の写真。改築前の旧館が写っていました。)

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この本を読んだ次の日、聖路加国際病院の旧館に足が向かっていました。中のチャペルに入るのも久しぶりです。

聖路加国際病院には、15年ほど前に銀座で心筋梗塞で倒れた義父の命を助けていただいたり、今年の冬には家族がお世話になったりと、私にとっても縁のある病院。特にこの旧館の前にある庭に来るとほっとする場所だったりします。

 

今は平和な空気が感じられるこの場所ですが戦時の痕跡が残っている所があります。

この旧館チャペルの入り口(写真左)の横の、この旧館が建てられた1930年代からある定礎石です。

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この石には、

「ST.LUKE'S INTERNATIONAL MEDICAL CENTER

DEDICATED TO THE GLORY OF GOD

AND THE SERVICE OF HUMANITY」

そして、「神の栄光と人類奉仕のため 聖路加国際医道院」と訳語が書かれています。

s_hanabi25-6.jpg旧館は90年代に改修工事が行われたので、この定礎石は当初は違う場所にあったそうです。この石には12個の釘穴の跡があるのですが、これが戦時の痕跡。憲兵隊にこの石を取り外すように強要されたため、その対応として薄い御影石で覆い隠した時の痕なのだそうです。

 

また旧館のとなりの建物の本館の1階には、この病院の年表が大きく掲示されており、歴史を見ることができるようになっています。

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戦後70年という節目である今年。政治でも、戦争そして平和について考えさせられる大きな出来事がありました。

 

終戦から時間が経つにつれ、戦争と平和について考えるのはだんだん難しくなってきている気がします。

日没が早くなった秋の夜長。こういう類いの本を読んでみるのも良いかもしれません。

 

 

 

荷風随筆「町中の月」

[CAM] 2015年10月 4日 18:00

「断腸亭日乗」では、しばしば月を観るという記述が見られる。荷風は観月が好きであったらしい。例えば、下記のようである。

 

大正81919)年17日、「夕刻銀座に往く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり」、

大正887日、「半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北壽が浮絵を見るが如し」

大正88月9日、「重ねて新富座にて人形を看る。・・・夜、月佳し」

大正8810日、「晩涼水の如し。明石町佃の渡場に往きて月を観る」

 

  現在の明石町佃の渡場跡から観た月(2015年9月28日撮影)

 

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 そして、昭和121月の「中央公論」に「町中の月」という随筆を寄せている(昭和10年冬稿、全集17129)。まだ川が多かった頃の銀座、築地界隈が描かれているので、少し紹介しておきたい。

 

「燈火のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降ると、夕方の澄みわたった空は、真直な広い道路に遮られるものがないので、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、少し黄ばんだ色をして、大きく浮かんでゐるのを見ることがある。

 時間と季節とによって、月は低く三越の建物の横手に見えることもある。或はずっと高く歌舞伎座の上、或は猶高く、東京劇場の塔の上にかゝってゐることもある。

・・・・・・・・・・・

 服部時計店の店硝子を後に、その欄干に倚りかかって、往来の人を見てゐる男や女は幾人もあるが、それは友達か何かを待ち合してゐるものらしく、名月の次第に高く昇るのを見てゐるのではない。

・・・・・

 わたしがたまたま静に月を観やうといふような―――それも成るべく河の水の流れてゐるあたりへ行って眺めやうと云ふ心持になるのは、大抵尾張町の空に、月の昇りかけてゐるのを見る夕方である。

 東京の気候は十二月に入ると、風のない晴天がつづいて寒気も却て初冬のころよりも凌ぎよくなる。日は一日ごとに短くなり、町の燈火は四時ごろになると、早くも立迷ふ夕(せき)の底からきらめき初める。

 わたしはいつも此時間に散歩を兼ねて、日常の必要品を購ひに銀座へ出る。それ故名月を観るため、築地から越前堀あたりまで歩くのも年の中で冬至の前後が最も多いことになるのである。」

 

 「夕せき」、「夕あい」は、夕方のもや、夕嵐。 荷風の原文を読むためには漢和辞典を要する。

 

 

荷風随筆「町中の月」(2)

[CAM] 2015年10月 4日 18:00

  随筆「町中の月」には、鉄砲洲神社近辺の様子が詳しく描かれているので、もう少し引用させていただく。

 

「むかしは銀座通の東裏を流れてゐる三十間堀の河岸も、月を見ながら歩けるほど静であったが、今は自動車と酔漢とを避けるわづらわしさに堪えられない。築地川は劇場の燈火が月を見るには明るすぎる。鬨のわたし場は近年架橋の工事中で、近寄ることもできない。明石町の真中を流れてゐた掘割は、その両岸に茂った柳の並木と、沿岸の家の樹木とに、居留地のむかしを思出させた處であつたが、今は埋立てられて、乗合自動車の往復する広い道路となった。

 こんな有様なので、わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃の渡し場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。

 稲荷橋は八丁堀の流が海に入るところ。鉄砲洲稲荷の傍にかゝつているので、その名を得たのであらう。この河口は江戸時代から大きな船の停泊した港で、今日でも東京湾汽船会社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大島行の汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船体と檣(しょう・帆柱のこと)と煙突とを空中に聳かしてゐる。・・・・・・・・・・・・・・水の上は荷船や運送船の数も知れず、日の暮れかゝるころには、それ等の船ごとに舷(ふなばた)で焚くコークスの焔が、かすみ渡る夕靄のあひだに、遠く近く閃き動くさま、名所絵に見る白魚舟の篝火を思起させる。

 わたくしは稲荷橋に来て、その欄干に身をよせると、おのづからむかし深川へ通つた猪牙舟を想像し、つゞいて為永春水の小説春暁八幡佳年の一節を憶ひだすのである。・・・・・

 稲荷橋をわたると、筋違ひに電車の通る南高橋がかゝつてゐる。電車通りの灯火を避けて、河岸づたひに歩みを運ぶと、この辺は倉庫と運送問屋の外殆ど他の商店はないので、日が暮れると昼中の騒しさとは打つて変つて人通りもなく貨物自動車も通らない。石川島と向ひ合ひになつた岸には栄橋と、一の橋とがかゝつてゐて、水際に渡海神社といふ小さな祠がある。永代橋に近くなると、宏大な三菱倉庫が鉄板の戸口につけた薄暗い燈影で、却つてあたりを物淋しくしてゐる。そして倉庫の前の道路は、すぐさま広い桟橋につゞくので、あたりは空地でも見るやうにひろびろとしてゐる。

 わたくしはいつも此桟橋のはづれまで出て、太い杭に腰をかけ、ぴたぴた寄せて来る上潮の音をきゝながら月を見る......。」 (昭和10年冬稿)

 

   現在の永代橋近辺から観る月(2015年9月28日撮影)

 

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「稲荷橋」は、八丁堀舟入堀の入口、八丁堀(桜川)に架かっていて、八丁堀と湊町(当時)を結んでいた。埋め立てで撤去され、今は橋標だけが残されている。
寛永年間(162443)の創架である。橋名の由来については、現中央区湊1丁目にある鉄砲洲稲荷神社は湊稲荷ともいい、江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした湊に臨んでいた神社であった。元はこの湊のもっと近くに位置したため、橋名もそれにちなんだものである。震災復興事業では鋼タイドアーチ橋が架設されたが、桜川の埋め立てにともない撤去された。(中央区郷土史同好会)(ものしり百科、137頁)

 

「勝鬨橋」の竣工は昭和15年であるから(ものしり百科129頁)、昭和10年ころは工事中であった。

 

 

秋の千穐楽

[ジミニー☆クリケット] 2015年10月 3日 18:00

中央区には、大きな劇場が三つもあります

銀座4丁目の歌舞伎座、銀座6丁目の新橋演舞場、日本橋浜町2丁目にある明治座です

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一般に、劇場で複数日にわたって同じ演目が行われた場合、「最終日」を「千秋楽(せんしゅうらく)」と言いますが、「千穐楽」と表示される場合があります

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歌舞伎座9月26日

歌舞伎座の最終日の垂れ幕も「千穐楽」でした

」ではなく、「」の異体字「」を使うのは、「」の文字にある「」を忌んだためだそうです

これは、江戸時代の芝居小屋が、出火や延焼に悩まされることが多かったためであると言われています

ちなみに、「」「」の漢字の元となる甲骨文字は、下の文字で、いなごなどの虫の形と言われています

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「秋になるといなごなどが大発生して穀物を食い、被害をうけるので、いなごなどの虫を火で焼き殺し、豊作を祈る儀礼をしたのであろう」(白川静『常用字解』)。

その儀礼を示す字が「」だそうです。この儀礼は秋の虫害に関係があるので、季節の「あき」の意味に用いられるようになったとのこと

一方、墨田区横綱1丁目の両国国技館で行われていた大相撲場所の千秋楽(9月27日)には、「千秋楽」の文字が使われていました

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鶴竜、優勝おめでとう