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2015年10月22日 18:00
『ものしり百科』では、銀座の柳の記念碑については、下記「銀座柳の碑」(銀座8-9先)について述べる(47頁)だけである。
西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑。明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立した。
しかし、銀座の柳に関する記念碑は別に2箇所あり、その一「柳並木の碑」は、数寄屋橋公園にある。
「銀座の象徴 柳並木
銀座の柳は明治10年年頃に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年銀座通りの改修と共に姿を消した
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する
平成11年11月 西銀座通会会長 柳澤 政一」
そして、もう一つ「銀座柳由来の辞」が銀座1丁目にある。
「銀座の柳由来
銀座の柳は明治20年年ごろ銀座通りに植えられて以来大正9年撤去昭和6年復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和43年歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った
いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する 銀座通聯合会」
この「昭和6年復活」については、荷風が次のように記している。
昭和7(1932)年3月25日「・・・帰途数寄屋橋朝日新聞社入口に"銀座の柳復活記念祭"とか書きたる掲示を見る。かかる事に復活といふ宗教上の語を用るもこれを見て怪しみ笑ふものなし。言葉の乱るるは人心の乱れたるを証するなり。・・・・」
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2015年10月22日 16:00
「三十間堀(さんじっけんぼり)」については、『ものしり百科』47頁で述べられている。
現在、「三十間堀跡」として、下記のような説明版が設置されている(一部漢数字を算用数字に変換)。
「三十間堀跡
所在地 中央区銀座1から8丁目地域
三十間堀は、現在の中央通りと昭和通りとの間にあった、京橋川から汐留川にいたる入堀です。慶長17年(1612)江戸の舟入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。名称は堀幅が三十間あったことに由来します。江戸時代、西岸は三十間堀1から8丁目、東岸は木挽町1から7丁目で、沿岸には舟運の荷揚場として河岸地がありました。江戸時代初めの「武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)には、堀の東側に尾張徳川家と紀伊徳川家の蔵屋敷が並び、更に、京極・加藤・松平といった大名屋敷が並んでいる様子が描かれています。文政11年(1828)には両岸の河岸地が広げられ、堀幅は19間に狭められましたが、その後も舟が盛んに行き交い、多くの荷物の運搬に利用されていました。明治17年(1884)の地図からは、北は真福寺橋・豊蔵橋・紀伊国橋・豊玉橋・朝日橋・三原橋・木挽橋・出雲橋といった多くの橋が架けられていたことがわかります。三十間堀は、戦後灰燼の山を処理するために、昭和23年(1948)から埋め立てが進められ、同27年7月の完了してその姿を消しました。平成20年3月 中央区教育委員会」
荷風は、『新橋夜話』の一篇「見果てぬ夢」(明治43年)の中で、出雲橋から見た掘割の風景を次のように描いている。
「今方二人で歩いて来た横町を木挽町の方へ曲らうと思つて出雲橋の手前まで来た。深け渡る溝渠(ほりわり)の眺めはますます静に優しく見えて、沈みきつた水の面(おもて)には、寝静る両側の人家の屋根の倒影と共に、若し覗いたなら自分の姿さへ見られる様に思はれたので、彼は橋の上に立止つて欄干に身をよせかけた」(5-250)
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2015年10月21日 19:00
映画「東京行進曲」が公開されたのは、昭和4(1929)年5月31日で、同時に主題歌がビクターレコードから発売された。銀座を歌った一番は
昔恋しい 銀座の柳
あだな年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨
Seidensticker氏の東京行進曲("Tokyo March")英訳を参考までに引くと("TOKYO RISING")
The Ginza willows bring thoughts of the past.
Who will know the aging, fickle woman?
Dancing to jazz, liqueur into the small hours.
And in the dawn a flood of tears for the dancer.
(wikipediaからコピー、public domain 確認済)
荷風も昭和4(1929)年6月25日の『日乗』で、少し「東京行進曲」にふれている。
「夜お歌を伴ひ銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり。散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行歌(はやりうた)を聞く。沓掛時次郎とやらいふ流行歌の由なり。この頃都下到処(いたるところ)のカッフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大いに流行す。その他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり。」
歌は、当時の東京風景とともに、「You Tube」で見聞きできる。
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2015年10月21日 15:00
明治44(1911)年には「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。
ライオンは、築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られた。
「カフェー・ライオン」外観と店内の様子(「株式会社サッポロライオン」のサイトからコピー)
「株式会社サッポロライオン」の「『銀座ライオン』店名の由来と誕生」では、次のように述べられている。
>明治44年(1911年)、8月10日、銀座四丁目の角に、『カフェー・ライオン』が誕生しました。(築地精養軒経営)
この開店の背景には、当時パリで知ったカフェの味を忘れられないフランス留学帰りの画家たちから、カフェ開店のすすめがあったそうです。
『カフェー・ライオン』 の店名は、当時の築地精養軒(上野精養軒の前身)の経営者・北村宇平氏がイギリス・ロンドンを訪れた際に、ピカデリー広場の角で営業していたレストラン「ライオン(LYON)」(ジョー・ライオンズ商会経営)の名にあやかったと言われています。この「ライオン(LYON)」とは、その創始者ジョー・ライオン氏の名前からとったものですが、同時に百獣の王ライオンの貫禄と威厳に敬意をはらって使われていました。また、ライオンは英国王室の紋章であり、イギリスを象徴する動物です。
このような名を当時西洋式レストランの元祖ともいえる店にいただき、『カフェー・ライオン』は、ダイニングルームの他に、バーや宴会場も備えた本格的なレストランとして、多くの文化人にも愛され、その人気は隆盛を極めました。
その後昭和6年に経営が大日本麦酒(株)へ移り、『ライオンヱビスビヤホール』として店名を変え、ビヤホールとして生まれ変わりました。
ビヤホールに変わった後も、訪れる多くのお客様からは「銀座のライオン」や「銀座ライオン」という通称・愛称で呼ばれていました。この通称・愛称であった「銀座ライオンを正式な店名としたのは、戦後の昭和24年のことです。
現在サッポロライオンのコアブランドとして親しまれている「銀座ライオン」の店名は、銀座4丁目の角、銀座のど真ん中で誕生し、たくさんのお客様から親しまれる名となりました。
[クラさん]
2015年10月21日 12:00
日本橋本町エリアは、江戸時代に始まる薬問屋街として繁栄し、今も多くの薬業関係の企業が集まっています。日本橋本町で10月16日(金)に「薬祖神祭」が、執り行われました。
「薬祖神祭」は、1908(明治41)年に東京薬種貿易商同業組合(現・東京薬事協会)が五條天神社(台東区)から医薬の神の御霊を迎え、日本橋本町で行った大祭が起源で、1929(昭和4)年からは、同会事務建物の屋上に薬祖神社を造営し、祭りの規模も大きくなりました。1954(昭和29)年以降は、薬業界だけでなく地域の行事にしようと奉賛会が結成され、1983(昭和58)年には新たに竣工した「昭和薬貿ビル」の屋上に新社殿を造り、祭儀を継承しています。
昭和薬貿ビルの屋上にある薬祖神社で13時30分から奉賛会役員等が参列する式典が行われました。その後、15時30分から18時30分まで一般参拝が行われ、昭和薬貿ビルの前には、参拝者の長い行列ができました。縁起飾りの「神壺(しんこ)」は、全会員に配付されるそうで、会員名が書かれた「奉納提灯」が配列・点灯されます。昭和薬貿ビルの通りでは、特設屋台が設けられ「お囃子」の笛と太鼓の音に、お祭り気分が盛り上がっていました。
参拝者には、お神酒やお汁粉が振舞われると共に、多数の製薬企業が景品を提供する福引も行われ、籤引きに当たった人には「福袋」が配られました。日本橋本町界隈は、薬祖神にお参りする人たちで大いに賑わいました。
この一年の無病息災と来年の無事をお祈りしました。また来年も、お参りに出かけたいと思います。
今年行かれなかった方は、ぜひ来年お参りされては如何ですか。
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2015年10月21日 09:00
「ものしり百科」で、「震災復興事業により賑わいを取り戻した銀座」として、「明治43年(1910)、日本橋区小網町に東京で最初のカフェー「メイゾン鴻乃巣」が開業した。翌年3月には銀座初のカフェー「カフェー・プランタン」がオープンし、・・・同年8月には、現在の銀座5丁目角に3階建ての「カフェー・ライオン」が開店した。・・・・・大正期に入ると、「カフェー・ライオン」の成功が呼び水となり、銀座煉瓦街にはカフェーの開店が相次ぐ。そして銀座は、大正ロマンの香り漂う、華やかな時代を迎えていく。」と述べられている(122頁)ように、「銀座初のカフェー」は、「カフェー・プランタン」であった。
「カフェー・プランタン」は、東京美術学校出身の松山省三が開いたもので、東京都京橋区日吉町20番地(現中央区銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)。相談役であった小山内薫が命名した。
昭和初め頃には、もっぱら女級の接待をウリにする風俗営業になってしまうが、それまでのカフェーは、レストラン、バー、喫茶店を兼ねるような存在であった。
「メイゾン鴻乃巣」などは西洋料理店に近かったが、「カフェー・プランタン」では、コーヒーと洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。後に焼きサンドイッチも名物になった。
「カフェー・プランタン」の店内 (wikipediaからコピー、public domain 確認済)