[みのり]
2015年11月20日 18:00
こんにちは、みのりです
今回は福徳神社「芽吹神社」のお話です。
福徳神社はコレド室町のそばにあります。
福徳神社は平安時代前期、清和天皇の時代貞観年間(859-876)には既に鎮座していたようです。
武蔵野の村落だった福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって福徳神社とした。
初代将軍徳川家康は、江戸に入府した天正18年(1590)8月に初めて当社に参詣し、
その後も数度に渡って参詣しています。
さらに、二代将軍徳川秀忠は、慶長19年(1614)正月8日に参詣の折、
「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。
この時、福徳神社の古例である黒木(クヌギ)の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出たのを見て、
神社の別名を「芽吹稲荷」と名付けた。
元和5年(1619)2月に江戸城の弁財官を合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、
大和錦の幟を奉納し、さらには「社寺縄張を三百三十三坪余り」と定めた。
江戸時代に「御免富」として幕府から富くじが公認されていたので人気がありました。
今もこの神社は、宝くじのご利益があると多くの人がお参りに来ます。
お祭りは2月の初午と5月の例大祭です。
平成26年秋(2014)日本橋の地域諸氏の尽力により社殿が再興されました。
コレド室町の北側に福徳神社があります。手前に社務所があります。
参拝前に手を清める手水舎は人が近づくと水が流れるセンサーがついています。
福徳神社『芽吹神社』御祭神・御由緒「福徳神社社務所」と福徳神社境内の福徳神社由緒書(石碑)
SHOP&RESTAURANT GUIDE「&EARTH」「三井不動産」
「歩いてわかる中央区ものしり百科」
交通ジャーナル「一般社団法人東京都交通安全協会」を参照しました。
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2015年11月20日 12:00
先に、池田弥三郎氏の著書『日本橋私記』から、「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」(88)という主張を引用、紹介した。
これは、「もともと」という意味であって、「江戸」の範囲はどこまでであったか、ということを明確に定義することはかなり難しい。少なくとも時点の特定が必要であろう。例えば、いわゆる「朱引」というものが行われたのは1818(文政元)年であるから、家康入府以来200年以上も経過した後のことであった。
雑誌『東京人』(都市出版)の2015年5月号が「『東京35区』の境界線を歩く」という特集を組んでいる。この中で、「石原たきび」という方が「江戸の町割りからはじまる、東京23区の成り立ち」という記事を執筆されている。簡明にまとめられているので、この内容を紹介しておきたい。
豊臣秀吉から関東地方開拓の命を受けた徳川家康が、江戸城に入城したのが1590(天正18)年。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで全国制覇を果たすと、地方の寒村に過ぎなかった江戸は幕府の所在地として急速に発展する。
江戸の範囲は明確に決まっていなかったが、1818(文政元)年に幕府の正式見解が示される。これはおもに寺社奉行の管轄範囲を指し、地図上に朱色の線で囲んだことから「朱引」と呼ばれた。また、その内側には町奉行の管轄下とされるエリアが黒線で囲まれ、こちらは「墨引」という。
江戸市中(御府内)とされる朱引内のエリアは、現在の千代田区、中央区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区、荒川区のほぼ全域と、品川区、目黒区、北区、板橋区の一部。山手線エリアの約二倍の面積である。
1878(明治11)年には「郡区町村制」が施行。東京府15区が制定された。その内訳は、麹町区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。
やがて、昭和になると東京市部は「35区」時代に突入する。1932(昭和7)年に周辺の5郡82町村(荏原郡、奥多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の各全域)を編入し、新たに20区を制定。それまでの15区とあわせて35区となった。さらに、1936(昭和11)年には、北多摩郡の千歳村と砧村を新市域の一つである世田谷区に編入。このエリアは、現在の東京23区にほぼ相当する。
その後、1947(昭和22)年3月には、戦災復興の中で35区は22区に整理統合され、さらに同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区となった。
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2015年11月18日 20:00
先の小津監督作品「秋刀魚の味」の紹介で、森永の地球儀ネオンが1ショットだけ映されて、その場所が銀座近辺であることを示していると述べましたが、このネオン塔が姿を消したのは昭和58年(1983)のようですね。
銀座といえば映画に必ず登場したのが服部時計店(和光)の時計塔かこの森永地球儀ネオンでした。時計塔はいまだに頑張っているのですが、森永の地球儀ネオンは老朽化のため解体され姿を消してから30年以上も経っているのですから、現在30歳以下の人は目にしたこともないでしょう。
(wikipediaからコピー、public domain 確認済)
「精工舎・服部時計店」のサイトで、この森永広告塔や服部時計店時計塔が写った昭和30年代の絵葉書などが紹介されています。
http://www.kodokei.com/ch_013_d.html
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2015年11月18日 09:00
11月15日(日)、「日本橋まち歩きー近代建築物を訪ねてー」に参加してきました。朝方は小雨まじりの天候でしたが、有益な見学でした。
(1) 日本橋野村ビルディング
(2) 旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル
(3)日証館
休日にもかかわらず、内部に入れていただき、家主である平和不動産の方から説明を受けました。
正面に向かって左隣りには、兜神社が。
(4) 山二証券株式会社
(5)フィリップ証券
近くには、「銀行発祥の地」という表示が。
「海運橋親柱」もすぐ近くです。
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2015年11月17日 20:00
11月15日(日)の日経新聞「美の美」は「小林清親(きよちか)」の特集。「激動をみつめて・上」とあるから、2週にわたって特集されるよう。
本日の紙面では、「陰影豊かな表現で浮世絵版画に新時代を開いた小林清親(1847~1915年)の東京名所図には、謎めいた絵が多い。文明開化の街に注ぐ清親のまなざしには、他の絵師にはみられない際だった個性があった」として、「海運橋第一銀行雪中」「駿河町雪」「日本橋夜」「東京新大橋雨中図」などを紹介している。
サイデンステッカー氏が「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」で小林清親の絵をかなり多く紹介しているので、自分にとっては親しく感じる上に、本日(11月15日)、「近代建築を訪ねて」で、海運橋近くを探索しただけに、特に親しく感じられた。
来週はどのような絵が紹介されるのか楽しみ。
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2015年11月16日 08:00
本日(11月14日)、特派員オフ会が銀座の某居酒屋で開かれ、出席させていただきました。
その席で、出席者の女性と岩下志麻さんの話題となり、私は記憶違いで、小津安二郎監督の「秋日和」といいう作品を挙げましたが、あらためて調べると岩下志麻さんがヒロインを演じているのは「秋刀魚の味」(1962年)でした。小津監督作品は、作品ごとに格別なストーリーがあるわけではないので、題名と内容が直ぐに結びついて出てこない。
「秋刀魚の味」は、妻に先立たれた初老の父親と婚期を迎えた娘との関わりを、娘を嫁がせた父親の「老い」と「孤独」というテーマと共に描かれたものです。この作品を発表した翌年の1963年に小津監督が亡くなったため、この作品が遺作となったものです。
森永の球体宣伝塔が1ショットだけ出てくるのは、登場するバー、小料理屋が銀座界隈に存在することを示すためでしょうが、それならば、もう少し銀座の景観を写しこむべきだと思うのですが、どうでしょうか。
「秋日和」(1960年)では、原節子と司葉子さんがヒロインです。岩下志麻さんは端役で登場していますが、本作で小津に見出されて「秋刀魚の味」のヒロインに抜擢されたようです。清洲橋のカットが2回出てきます。瞬間でしかも部分ですが、全景を入れてほしかったですね。「秋刀魚の味」における銀座と同じく、場面の地理的背景を明確に写しこまないのは小津監督の主義でしょうか。私には疑問に思えます。
「秋刀魚の味」(1962年)における岩下志麻さんも美しいですが、両作品に登場する岡田茉莉子さんも若くてチャーミング。