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2015年11月26日 12:00
池田弥三郎著『日本橋私記』(昭和47年発行)を読み返した。「東京・大東京・下町」と題する昭和43年3月の文章でも、次のように書かれている。
>おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・
江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって、日本橋あたりへ行くことを、浅草や本所深川の人々が「江戸へ行く」といっていた時分は下町は、お城したの、将軍様のおひざもとの町であって、決して、ダウン・タウンではなかった。(256)
そして、
>東京は、江戸以来、急速に、発達に発達を重ねている。そのそれぞれの段階で、注意深く考えてみないと、どうもうかつなことは言えないように思う。
と、結んでおられる。「江戸の範囲」についての、幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄下とされるエリア)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際、どの時点で、どの段階での話なのかよく考えた上でないと、うかつなことは言えないのである。
[下町トム]
2015年11月25日 09:00
皆さん、晩秋の季節の色を楽しんでいらっしゃいますでしょうか。間もなく本格的な冬がやってきます。東京の町もいよいよ一年の掉尾を飾り始めます。
中央区は商業の町でもありますから、あちらこちらで歳末商戦が始まります。ジングルベルのBGMや福引の鈴の音を聞くと、いよいよ一年も終わりかなと思います。
築地は明治維新の後に外国人居留地が置かれたところであり、一説によると、日本ではじめてクリスマスパーティーが催されたのも築地だという話です。
昔から新しいものを取り入れることに積極的だったのではないでしょうか。今でもこの町には旧弊にとらわれない自由で先進的な気風があふれているように思えます。
さて、築地市場は来年11月に移転することになっています。残り1年というカウントダウンを刻み始めました。場外市場は残りますが、それでも中央卸売市場ともども年の瀬をにぎやかに過ごすのも今年が最後になりました。12月に入ると、買い物客が日に日に増えて、いつも以上に名残を惜しむ人々が押し掛けるのではないでしょうか。
ぼくも時々、中央区観光協会のお手伝いで築地の観光案内を務めさせていただいていますが、これからは移転の話をするたびに少し感傷的になるかもしれません。
幸いというか、中央区の先行整備施設の建設も進んでおり、新しい築地の姿がいずれ見えてくることでしょう。きっと新世代の築地マーケットの未来もまた魅力的だと思います。
最後の年の瀬を迎えた築地市場界隈の賑わいを皆さんもしっかりと記憶に残しておいて下さいね。
[サム]
2015年11月24日 12:00
11月23日、築地波除稲荷神社では、年に3回ある大祭のひとつ、秋の大祭「新嘗祭」が執り行なわれました。
新嘗祭は古くから宮中をはじめ、全国の神社で行なわれている秋の収穫を感謝する祭礼。
江戸末期に焼失した「厄除天井大獅子」が、石川県石川郡鶴来町(現白山市八幡町)在の加賀獅子頭の木彫師知田青雲氏の手により再興された縁で、知田工房の近隣の「旅館かのや」の田圃を借りて設えられた当神社の御神饌田で、お田植祭・抜穂(ぬいぼ)祭を経て収穫された、新米・稲穂・そして御神饌田の米(ノトヒカリ)より造られた濁り酒「幸穂(さちほ)」が御神前に供えられます。
当日参拝者には、この生産量が限られた貴重な濁り酒「幸穂」が振る舞われます。(なくなり次第終了)
また、初穂講 入講(一口3,000円)者には、「幸穂」(限定250本)と御神饌田でとれた初穂、新米二合、御神符が授与されます。
尚御神饌田の米より造られた清酒「波除」は翌年6月の大祭に供えられます。
何れも、白山市鶴来本町(旧石川郡鶴来町)の「萬歳楽」醸造元小堀酒造店で醸されています。
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2015年11月23日 14:00
アメリカ公使館跡の記念碑
「開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政6年(1859)に現在の港区元麻布1・6の善福寺に公使館を開設しました。ついで、明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。
後にこれが手狭となり、同23年3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
この公使館跡には、5個の小松石の記念碑が残っています。大きさは、縦86~101センチメートル、横84~118センチメートル、厚さ18~34センチメートル、うち、2個には当時のアメリカの国章である盾、1個には星と鷲と盾、2個には五陵の星が刻まれています。
この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
平成8年3月
中央区教育委員会 」
指紋研究発祥の地(明石町8-1先)
「ヘンリー・フォールズ住居の跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874)から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である
フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した
彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見しこれにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行っ
た
明治13年(1880)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し また指紋の遺伝関係にも言及している 明治44年(1911)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日 ここゆかりの地に記念碑を建立し その功績をたたえるものである」
明治学院発祥の地(明石町7-16)
「明治学院発祥の地
明治学院は1877年(明治10年)
ここ旧築地17番地に開設された
東京一致神学校を基とする
これを記念しこの碑を建てる」
カトリック築地教会聖堂 (明石町5-26)
「カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁画をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。
平成13年3月
中央区教育委員会」
築地外国人居留地跡(明石町1-15 明石小学校)
江戸幕府は安政5年(1858)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。
江戸(東京)の開市は明治元年(1868)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。
築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。
明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。
平成15年3月
中央区教育委員会
雙葉学園発祥の地
「徳に於ては純真に
義務に於ては 堅実に
明治42年
SIMPLE DANS MA VERTU
FORTE DANS MON DEVOIR
Berceau de Futaba
1909 」
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2015年11月21日 18:00
女子学院発祥の地(明石町10)
「ジュリア・カロゾルスが1870年、
築地居留地6番にA 六番女学校を創設、
米国長老教会に所属した。
1999年10月24日 学校法人 女子学院 」
立教学院発祥の地(明石町10)
「1874C.M.ウィリアムズ主教立教学校を開く
すべての人に仕える者になりなさい聖マルコによる福音書 第9章35節
創立125年を記念してこの碑を建立する
1999年12月2日 ウィリアムズ主教記念日
立教学院 」
蘭学事始地碑(明石町11先)
「明和8年(1771)、豊前国(大分県)中津藩医の前野良沢が杉田玄白らと共に、オランダ解剖書「ターヘル・アナトミア」を築地鉄砲洲にあった中津藩奥平家下屋敷内(のちの明石町の地)で翻訳し「解体新書」が完成しました。
当時の翻訳の様子は、玄白の著書「蘭学事始」に記されており、この地は近代医学発祥の基礎を築いた場所といえます。
中央区教育委員会 」
慶應義塾発祥の地(明石町11先)
「安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ
慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当たる。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。
1958年4月23日除幕」
聖路加国際病院(聖ルカ礼拝堂とトイスラー記念館)
「昭和8年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館 として建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィーで、施行は清水組(現在の清水建 設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリ ート造り一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でし た。
平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地へと移築復元されました。復元に あたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる 限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれ てきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成18年3月 中央区教育委員会 」
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2015年11月21日 14:00
「ものしり百科」「第1章 中央区を歩く」を少しずつ踏破し、記録に残していきたいと思い立ちました。
とりあえずは、勝手知ったる「新富・明石町」からスタート。今日は3時半ごろ出発したものの、秋の夕暮れは早く、後半はもう日も落ちてきました。 また、写真、碑文の整理はかなり時間を食い、清貧老人の暇つぶしとはいえ、いつまで続くかおぼつかなく感じられますが、とりあえずは第1回。
いまさら新しい情報を提供できるわけではないことは言うまでもありませんが、ものしり百科も全ての地点の写真を掲載しているわけではないので、原則として全ての地点の現況を伝えると言う意味はあるかもしれません。なお、中央区教育委員会は、掲示板を英文を併記したものに取り換えつつあるようですが、下記には、一部以前のままのものもあります。悪しからず。
新富座跡(新富2―6-1)
「新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明5年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
平成16年3月
中央区教育委員会 」
靴業発祥の地(入船3-2-10)
「明治3年(1870)3月15日 西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは 旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は 佐倉藩の開明進取の風土に育ち 時の兵部大輔 大村益次郎の勧めと, 藩主堀田正倫 並びに渋澤栄一の支援を得て 靴工業を創成し これを大成した。斯くてこの地は 日本に於ける製靴産業の原点であるので こゝに建碑事績を記す
昭和60年(1985)3月15日
日本靴連盟 」
浅野内匠頭屋敷跡(明石町10・11地域一帯)
「常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。
平成7年3月
中央区教育委員会」
芥川龍之介生誕の地(明石町10)
「明治16年(1883)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年7月24日、35歳で自害しています。
平成8年3月
中央区教育委員会 」