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2016年1月10日 16:00
1月7日、築地波除稲荷神社では、11:00より新春恒例の七草粥の祭典が執り行なわれ、その後境内にて、参拝者に七草粥が振る舞われました。
正月行事のひとつの節目に、大地から芽生えた春の七草(せり・なずな・ごきょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)を入れた七草粥を食し、無病息災を願う年中行事。
同神社の御神饌田(ごしんせんでん=神様にお供えするコメを作る田圃)のコメを使った特別な七草粥と聞きます。
7日と云えば松の内の最後の日に当たり、正月の馳走に疲れた胃腸を労り、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給の一面も見逃せず、古人の知恵を感じる風習です。
厄除けや家内安全を願う昇殿参拝者は、本殿で御祈祷を受け、厄除天井大獅子に願いを書いた「願い串」を納め、礼拝し、清々しい鈴の祓を受けた後、同神社の御神饌田のコメで造られた「波除」と云う御神酒をいただきます。
清々しい新春の一コマです。
[之乎者也]
2016年1月10日 14:00
正月休み明けに用事があって区役所へ行くと、1階ロビーの右側に「中央区観光写真コンクール」入賞作品の展示がされています。こちらについては既に特派員の隅田の花火さんからもご紹介(/archive/2016/01/post-3012.html)されているとおり大変素晴しい作品が多かったのですが、その展示の裏側に中央区の姉妹都市サザランドについての常設展示があります。【中央区役所1Fロビーに常設展示されているサザンランドとの姉妹都市協定関係資料】
サザランド(Sutherland Shire)といってもピンと来ないかもしれません。こちらはオーストラリアの自治体です。オーストラリアと言われて先ず思い浮かぶのが、シドニー、メルボルン、ブリスベーンなどの大都市か、ケアンズ、ゴールドコーストなどのリゾート地かと思いますが、サザランドは、(大)シドニー市を構成する38区(自治権を持った特別区)のうちの一つで、ニュー・サウス・ウェールズ(NSW)州にあります。1991年より中央区との間で交流が進められて来ました。
*注:Shireは英国のBoroughとほぼ同じ概念で、大都市を構成する自治区(local government area)の意味。中央区ではSutherland Shireの訳語として市を使っていますが、我らが中央区も特別区(自治区=英語ではChuo City)ですので、ここでは「(大シドニー市の)サザランド区」と呼ぶことにします)。
サザランド区は、シドニー中心部(CBD)から南に35キロ、シドニー・キングスフォード・スミス国際空港とボタニー湾をはさんだ反対側にあります。1770年に英国の海軍士官ジェームス・クックが世界一周航海の途上、豪州東海岸に到達した際に上陸した豪州発祥の地として知られます。区の名称はクック探検隊のスコットランド人船員で、この地に滞在中に結核で亡くなったサザランド(Forbes Sutherland)氏から取られています。
私も時々仕事や個人旅行でオーストラリアに行くこともあるのですが、残念ながら未だサザランド区までは足を伸ばしたことはありませんので、どのような場所なのかは全く想像もつきませんが、写真を見る限りは自然が多く、また都心(シドニーCBD)からもさほど遠くない、暮らすにもうらやましい環境の場所のようです。
以前はオーストラリアは欧州やアメリカと比べて日本からの航空便も多くなくあまり行きやすい国ではありませんでしたが、LCCのジェットスターの成田便(ゴールドコースト、ケアンズ)はすっかり定着しましたし、昨年12月11日からはANAも羽田⇔シドニー直行便を飛ばしています。
【メルボルン空港に駐機中のJetstar航空 】
そんなことを考えているうちにオーストラリアワインが恋しくなりました。中央区にはオーストラリアワインを出す店もたくさんありますが、今日は中央区観光協会の近くの「ワイン屋 銀座1丁目店」に行ってみます。店の入り口には豪州の国旗があるのですぐに判ります。
お店に入ると、スペースも広く天井も高い店内は新年会のお客さんでいっぱいです。壁にはワインの瓶を飾ったオブジェやオーストラリア・ニュージーランドのワイナリーの説明などがあって気分を盛り上げます。
また、大画面のテレビでは昨年10月の日本VSサモアのラグビーW杯のビデオが流されており、まるでメルボルンのバーにいる気分です。フロアスタッフの広中さんのおすすめで、南オーストラリア州の赤ワイン「レシキ・ヴィトラス(Reschke Vitulus Cabernet Sauvignon)」と「マッシュルームのアヒージョ」を頂くことにしました。このお店では豪州ワインはもちろんですが、つまみもチーズ、オリーブなどのワインのつまみ定番はもちろんのこと、今回頂いたマッシュルームのアヒージョ(以下、写真)やシーフードも含め美味でワインに合う味が揃っていますし、更には広中さんを始めとして、店員の皆さんも南半球的にフレンドリー、非常に気持ちの良いお店です。
もうすぐオーストラリアの建国記念日のオーストラリアデイ(1月26日)です。銀座で食事をした後、ちょっと飲み足りないときなど、一度寄ってみたらいかがでしょうか!
【中央区役所内「姉妹都市・サザランド」常設展示】
所在地:〒104-8404 中央区築地1‐1‐1(中央区役所本館1階ロビー)
観覧時間:8:30~17:00(区役所執務時間内)
交通:江戸バス、地下鉄有楽町線・新富町駅、日比谷線築地駅、CCC(コミュニティサイクル)C01 中央区役所ポート
【ワイン屋 銀座1丁目店】
所在地:〒104-0061 中央区銀座1-27-10 ザアソシエイトビル 1F
電話:03‐3535‐6567
営業時間:18:00~25:00(土日祝は17:00~24:00)
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2016年1月 9日 18:00
新橋演舞場(撮影は1月5日16:00ごろ)
(松竹サイトから) 新橋演舞場の新築開場は大正14年4月のことでした。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(芸者屋屋号森川家)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源といいます。
新橋演舞場が建てられたのは、当時の東京市京橋区木挽町10丁目14番地(のちの6丁目9番地、そして現在の中央区銀座6丁目18番2号)で、この場所は、偶然にも芝居狂言「加賀見山旧錦絵」のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡でした。
建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったといいます。そこに定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられたのです。
多くの優れた専門家が結集し大正12年に着工。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングもありましたが、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場にこぎつけました。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。昭和15年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新国劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのです。
第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。昭和23年に復興されましたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなりました。
そこで昭和57年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場です。新装には最新システムの導入だけでなく、ゆとりある客席空間、正面玄関のレンガなど、旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれています。
東京商工会議所発祥の地
明治維新の国是をふまえ 欧米諸国の制度文物を採り入れ 時の産業界の指導者が相携えて 明治11年3月12日 商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である
ここには明治24年以来 農商務省 次いで商工省が昭和18年まで所在し 明治 大正 昭和の3世代にわたって 日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった
昭和53年3月12日 東京商工会議所創立100周年にあたり ここに記念碑を建てて後世に残すものである
東京商工会議所会頭 永野重雄
佐久間象山塾跡
所在地 中央区銀座6丁目15番地域
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保10年(1839 )神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地付近)に塾を開きました。嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は20坪程度の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河合継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永6年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に象山に入門しました。
木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられて、塾も閉鎖されました。
平成22年3月 中央区教育委員会
狩野画塾跡(昭和通りに面する。後部の建物は電源開発ビル)
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江戸に召し出され、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)六代典信(栄川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角に当たるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかでも最も繁栄した木挽町狩野派は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集りました。門人のほとんどは諸候のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生です。
平成九年三月
中央区教育委員会
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2016年1月 9日 12:00
商法講習所跡
明治八年(一八七五年)この地に
商法講習所を開設す
これ現在の一橋大学の発端なり
昭和五十年九月二十四日
百年記念に当り
一橋大學之を建つ
金春屋敷跡
所在地 中央区銀座八-六~八地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永九年(一六三二)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
平成十五年三月
中央区教育委員会
銀座柳の碑
西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑。明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立した。
芝口御門の跡
所在地 中央区銀座八-八・九・十付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。
宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
昭和五十二年十月
中央区教育委員会
三十間堀
所在地 中央区銀座八-十一-十三先
三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。慶長十七年(一六一二)江戸の船入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政十一年(一八二八)に幅を十九間に狭めたといわれています。
江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝七年(一六七三)の図では西岸は三十間堀町一~八丁目、東岸は木挽町一~七丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。
幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治三十四年(一九〇一)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。
明治十七年(一八八四)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。
三十間堀は戦後、灰燼の山を処理するために、昭和二十三年から埋立てが始まり、同二十七年七月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。
平成十年三月
中央区教育委員会
[巻渕彰/写楽さい]
2016年1月 9日 09:00
東京駅八重洲口前のビル街に囲まれた場所に中央区立城東小学校は建っている。その歴史は明治初期にさかのぼり、校舎は関東大震災復興小学校として今日まで現存しているが、周辺街区の再開発計画に伴い、全国でも珍しい、ビルに入る小学校になるだろうと、今注目されている。この城東小学校の歴史をたどってみたい。(写真上は昭和4年(1929)竣工当時の京橋昭和小学校、写真下は面影を留める現校舎)
江戸時代、江戸城東方のこの一帯は、南北に東海道が通う通町筋。さらに東側は江戸湊に面し、天下普請の重要拠点だった。古地図の町名が記すように職人町として江戸の発展を支えたところである。
城東小学校は、明治6年(1873)12月開校の宝田小学校(旧京橋区本材木町三丁目、楓川沿い)が原点である。宝田と名乗ったのには、南伝馬町名主高野新右衛門が江戸城内だった宝田村から移されたことによるだろう。
その宝田小学校から分離して、明治39年4月に開校したが南槇町小学校(旧京橋区南槇町4)であった。現城東小学校があるこの場所である。大正12年の関東大震災で両校を始め区内の小学校はことごとく焼失した。
東京市の帝都復興計画で復興小学校の建設が実施されるにあたり両校は併合して京橋昭和小学校として再建される。当時の東京市資料によると校地面積は1051坪、鉄筋コンクリート造、3階建、竣工は昭和4年(1929)3月、竹田組施工とある。
戦後になり京橋昭和小学校は、昭和37年に日本橋城東小学校(旧日本橋2-6、丸善裏)と併合して、現在の城東小学校になった。校名は「旧江戸城(皇居)の東に位置し、朝のぼる太陽のごとく、隆盛を祈念する」と願って命名された。
現校舎は当時の復興小学校のままで、歴史を伝える近代化建造物である。区内には復興小学校7棟が現存し、そのうち小学校として使われているのは4校だけで、その1校の建物が、87年の歴史を刻んで消えていくことになる。これからの新時代に向かって、ビル内の新校舎に期待したい。@巻渕彰
[銀造]
2016年1月 8日 09:00
日本橋の名店の紹介の浮世絵が貼りだされています。
うぶけやさんのお隣のビル(寄席 人形町 末広跡のビル)に貼りだされた
毛抜きのうぶけや「歌舞伎十八番毛抜」、 源冶店 濱田家「きられ与三」など愉快な浮世絵で楽しませてくれます。
日本橋室町の乾物・鰹節のお店(八木長本店)では、
食品総合卸 国分 1712年創業、乾物・鰹節 八木長本店 1737創業、刃物 日本橋木屋 1792年創業
和紙 小津和紙 1653年創業、百貨店 三越 1673年創業、鰹節 にんべん 1699年創業
という日本橋の名店の歴史が、日本橋魚河岸の風景とともに紹介されています。
日本橋のお散歩が楽しくなりましたね。
その他のお店の紹介の浮世絵は、健康と美容の為、是非ご自分で発見して下さい。