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2016年1月26日 12:00
馬込勘解由屋敷跡
宝田恵比寿神社
宝田神社は慶長十一年(1606年)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。
徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在皇居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引卒して此の地に集団移転をしたのであります。
馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。
作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は地主となって、三伝馬取締役に出世し、御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢・駿河・遠江・美濃・尾張等、家康公ゆかりの国々より商人を呼び集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商売発祥の地として大変賑わったのであります。
現在も周辺の老舗、大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いております。
宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日の「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年また新たまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商人にとって大切な年中行事として老舗は現在でも恵比寿講をお祝いして居るのであります。又若者により浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられております。(大伝馬町・株式会社江戸屋サイトから)
身延別院
徳川三百年に亘って小伝馬町牢屋として怖れられていた牢獄には、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎のような幕末の志士もいれば、蛇蝎の如く人々から恐れられた盗賊や殺人鬼もおり、また後に浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなった八百屋お七のような乙女もいた。その牢屋は明治になって取り壊されたが、その跡地は誰も住む人もなく放棄されていた。ここへ法華の道場を建立して大勢の亡霊たちを慰めようとした一団の人々が現れた。時の身延山久遠寺七十三世、新居日薩上人を中心に、深川本立院江川勝義、浅草玉泉寺鵜川日行、後に身延山八十世に就任した若き日の市川日調の三上人と、これを外護した強力な法華の信者、鈴木伊兵衛、沢田治助、藤懸与左衛門と新居日薩家一族の人々である。
明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。この祖師堂建立事業の中心になった組織が清浄結社で、新居日薩上人がその普及拡大に努めたものであるが、僧俗一体となって同修同行の実を挙げる講社組織である。その第一結社がここ日本橋に生まれ、島根、福岡、新潟、千葉、長野等で盛んになり、やがて全国的に法華の団体ができたのである。(『新居日薩略伝』より) (同院サイト『身延別院縁起』から)
十思公園
十思スクェア
旧十思小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。
震災復興期につくられた装飾性の強い小学校建築の代表作であり、その中でも特に地域との つながりを重視した、アーバンデザインの優れた建物として評価が高い。表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。正面玄関口がある南西隅部は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。
また、隣接する公園は、震災復興期に同時に計画されたものである。
平成二年三月の廃校後、改修工事を経て、平成十三年からは区の複合施設「十思スクエア」として広く区民に利用されている。
(ee-tolyo.com から)
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2016年1月25日 09:00
三島由紀夫氏もよく銀座「浜作」を利用していたようですね。
徳岡孝夫著『五衰の人』(文春文庫)によると、徳岡氏が最後に三島氏に会ったのは「浜作」であったようです。昭和45年、三島さんが亡くなる直前の9月、徳岡氏は三島氏に「浜作」へ呼び出され、その時、徳岡氏は約束の時間に40分も遅れるという失敗を犯した。
「いまでもそのときの失敗が恥ずかしく、記憶の戻るのが怖さに、その店を再訪したことがない。息せき切って引いた表戸の横に『関西割烹』と出ていたのを覚えているから、銀座の浜作だったと思う。階下はカウンターで、二階が座敷になっていた。階段を駆け上がって部屋に入ると、三島さんは畳の上に寝そべっていた。」と書かれている(164)。
また、ジョン・ネイスン氏は「私は三島と銀座の「浜作」で待ち合わせ、白木のカウンターでかなりの酒を飲んだ。三島は上機嫌だった。もちろん私もそうだった。三島は私に翻訳の礼をいい、私は彼の期待に応えられてほっとしたといった。」と書いている(ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝―』野口武彦訳 新潮社)。
「浜作」(銀座7-7-4)
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2016年1月22日 18:00
蛎殻銀座跡
所在地 中央区人形町一丁目五・六・七・十七・十八番地域
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。
江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。
平成五年三月
中央区教育委員会
人形町通り
(人形町商店街協同組合サイトから)
「人形町」は江戸の中心日本橋にある歴史と伝統を持った粋な東京の下町です。
下町情緒の残る小粋な界隈は、 安産・子授けの神様 水天宮を中心に、七福神を祀る八つの神社を大切に保存する土地柄です。 町並みを見ながらの七福神めぐりは、 全行程2時間程度の歩きやすいコースで、 老若男女問わず人気があります。
甘酒横丁
(人形町商店街協同組合サイトから)
明治座や浜町公園にぬける甘酒横丁には、 江戸時代から続く伝統工芸店や、味な老舗も多く残ります。
水天宮を擁する土地がら、妊婦さんや家族連れも多く、 季節ごとに開かれる、せともの市や、人形市、べったら市は
今では感じることの少なくなった日本独特の暮らしの中にある季節感に触れられます。
漢方醫學復興の地
和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき この地において衣を薄うし 食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年 醫界之鐵椎を自費出版し 漢方医学の復興に立ち上がった
今や漢方再興の気運に際会し 先生の旧趾に碑を建て その偉業を顕彰するものである
昭和五十三年十月十日
日本東洋医学会
東亜医学協会
日本医史学会
賀茂真淵縣居(かものまぶちあがたい)の跡
都指定 大正七年四月
所在地 中央区日本橋浜町一ー四付近
古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し、元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、縣居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。
あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて
月見に来つる都人かも
その旧跡は、この地点の北東約百メートルのあたりである。
平成元年七月
中央区教育委員会
明治座
(明治座公式サイトから)
明治座の歴史は、明治6年(1873)にさかのぼります。
その前身は、両国広小路(西両国)に在った富田角蔵・福之助・金太郎の、俗に言われる「三人兄弟の芝居」でした。この時代は座名などなく、よしず張りの芝居小屋で雨天には興行ができないので、俗に青天小屋とも呼ばれていました。
明治5年(1872)9月、東京府々令によって、それまでの三座(中村座・市村座・守田座=旧森田座)以外での興行が許可されるようになり、「三人兄弟の芝居」の金主(今で言う出資者)であった鈴木吉兵衛が劇場出願し、これが認められます。
翌年の明治6年(1873)4月28日、現在の久松警察署の南側に劇場が立てられ、喜昇座として開場しました。これが、明治座のはじまりです。
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2016年1月20日 18:00
玄冶店(げんやだな)跡
所在地 中央区日本橋人形町三丁目八番付近
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。
岡本玄冶(一五八七~一六四五)は京都に生まれ、医術を曲直瀬(まなせ)道三(玄朔)に学びました。元和九年(一六二三)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修諸家譜』には、寛永十年(一六三三)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。
岡本玄冶の拝領屋敷は『寛保沽券図』によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(一六四五)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永六年(一八五三)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。
平成十六年三月
中央区教育委員会
堺町・葺屋町芝居町跡
所在地 中央区日本橋人形町3丁目2~7番地域
堺町は慶長年間(1596~1615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦2年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。
江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興した中村座と市村座(ほかに現銀座6丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋1丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永9年には禰宜町(現日本橋堀留町1丁目辺り)に、慶応4年(1651)には下堺町へと移転し、二代目勘三郎のとき、本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。 この間、堺町では、上堺町において寛永10年に都座が、寛永11年には村山座(後の市村座)が創設されました。
歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において元和3年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永9年禰宜町移転を経て慶安4年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。
堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保13年(1842)から翌14年にかけて、猿若1丁目から3丁目(現台東区浅草6丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。
近年、日本橋人形町3丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。
平成23年3月
中央区教育委員会
大観音寺
鉄造菩薩頭
所在地 中央区日本橋人形町一ー一八ー九(大観音寺)
この菩薩頭は鋳鉄製で、総高一七〇センチメートル、面幅五四センチメートル。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ五三センチメートルの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。
この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治九年(一八七六)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月十七日に開帳され、信仰を集めています。
中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和四十七年四月、都指定有形文化財に指定されています。
平成八年三月
中央区教育委員会
西郷隆盛屋敷跡(バックの建物は日本橋小学校)
谷崎潤一郎生誕の地
所在地 中央区日本橋人形町一ー七ー一〇
谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』、『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。
のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『細雪』、『少将滋幹の母』などを遺しています。その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受賞しました。
平成七年三月
中央区教育委員会
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2016年1月19日 12:00
軍艦操練所跡
所在地 中央区築地六-二十先
現在、中央卸売市場となっている一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があった所です。
安政四年(一八五七)四月、外洋航海の必要性から幕府は旗本、御家人、その他の希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置しました。軍艦操練所と名付け、頭取(向井将監・勝海舟等が就任)以下、教授方出役・取調方等を任命しました。
元治元年(一八六四)に焼失して、南隣りの松平安芸守の屋敷に仮移転し、慶応二年(一八六六)七月、海軍所と改称しました。同年十一月、再び類焼して現在の浜離宮に移り、跡地には、日本最初の様式ホテルである築地ホテル館が建ちました。
平成十一年三月
中央区教育委員会
勝鬨橋の記
明治三十七八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
昭和十五年十二月
東京市長
大久保留次郎 撰 書
勝鬨の渡し跡(後の建物は勝どき橋記念館)
所在地 中央区築地六丁目二〇番
明治二十五年(一八九二)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治三十八年(一九〇五)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋區祝捷會挙行之日建之 京橋區同志會」と陰刻されています。
設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三町目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
大正十二年(一九二三)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(一九四〇)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
平成十六年三月
中央区教育委員会
かちどき橋
電信創業之地碑
東京傳信局跡
明治二年十二月廿五日開始
逓信省
電信創業記念碑の由来
明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。
あかつき公園・シーボルト胸像
シーボルト(一七九六~一八六六)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(一八二三)七月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同九年正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(一八五九)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。
中央区教育委員会
中央区立郷土天文館
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2016年1月18日 18:00
築地本願寺
(同寺公式サイトから)
築地本願寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、京都の本願寺(西本願寺)が本山です。
創建時は浄土真宗本願寺派の全国各地にある別院「築地別院」として建立されました。
そして2012年4月1日より、ここ東京首都圏の拠点として直轄寺院となり、正式名称が「築地本願寺」と改められました。
築地本願寺の住職は、「門主(もんしゅ)」です。
門主とは、浄土真宗本願寺派の代表であり、また本山本願寺の住職であります。現在の門主は第25代、大谷光淳(こうじゅん)門主であります。
古代インド様式と、浄土真宗の「みんなのお寺」が融合
丸みを帯びた屋根にトゲのような塔、石の大きな階段と宮殿のような柱・・・・・・・・・
築地の地で突然目に入るこの建築物は、一見お寺に見えず、人によって洋風ともインド・アジア風とも捉えられる「何か不思議な、荘厳な建物」と映るようです。
丸みを帯びた部分は本堂の屋根で、モチーフは菩提樹の葉。その中央に描かれているのは仏教のシンボルの花でもある蓮の花。これが私たち「築地本願寺」の正面の顔です。
ハートと菩提樹とステンドグラス
建築家、伊東忠太氏は、築地本願寺にいろいろ楽しい意匠を残してくれました。
入口からみた特徴的な半円の屋根は、菩提樹の葉がモチーフ。中央には仏教のシンボルの花でもある「蓮の花」が描かれています。
森孫右衛門供養塔
間新六供養塔
酒井抱一墓
九条武子夫人歌碑
土生玄碩墓
芭蕉句碑
大津絵乃
筆のはじめは 何佛
親鸞聖人象
続きを読む: 築地本願寺と文明開化の跡をたどるコース(2)