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2016年1月17日 18:00
土佐藩築地藩邸跡(バックの建物は中央区役所)
所在地 中央区築地1丁目1~6番、同2丁目1・6、9番地域
この地は、江戸時代前期に埋め立てられ武家地や町人地となりました。
文政9年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。
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なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場に通っていました。
また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政3年(1856)から同5年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲2丁目、京橋2丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。
平成22年3月 中央区教育委員会
京橋図書館
活字發祥の碑
明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった
[昭和四十六年(一九七一)六月 建設]
築地小劇場跡
碑文・里見とん筆
大正末から昭和にかけ、新劇の本據として大いにその發展に寄輿した。戦災で焼失。
築地本願寺
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2016年1月16日 09:00
現在の霊岸島水位観測所
日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また、新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置のある東経139°47'にちなみ13.947mとしています。
観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に勾配45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。
南高橋(みなみたかばし)
所在地 中央区新川二丁目~湊一丁目(亀島川)
創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会
鉄砲洲稲荷神社
桜川公園と八丁堀跡説明版
江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。
八丁堀の開削年や名称の由来には諸説がありますが、『京橋区史』には、「南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海の入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870m)なるを以ってこの名あり」と書かれています。
なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。
通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
昭和35年から昭和41年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡(バックは京華スクェア)
所在地 中央区八丁堀一~二丁目
日本橋茅場町一~三丁目の一帯
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇~五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成十三年三月
中央区教育委員会
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2016年1月15日 12:00
永代橋
永代橋は、元禄11年(1698年)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所より上流約150mに架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁をを十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。
永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897年)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926年)12月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
新川の跡
所在地 中央区新川一町目地域
新川は、現在の新川一町目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五百九十メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
この新川は、豪商川村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六〇)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれました。
昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
平成六年三月
中央区教育委員会
新川公園
於岩(おいわ)稲荷田宮神社の鳥居・百度石
所在地 中央区新川二ー二十五ー十一
於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、文政八年(一八二五)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。
境内の本殿横にある石造の鳥居は明治三十年(一八九七)一月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では二番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次」と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
平成十一年三月
中央区教育委員会
中央大橋上の「メッセンジャー像」
両都市と両河川をつなぐ有効を記念して、パリ市は東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャー」を寄贈する。
1992年10月27日 東京にて ジャック・シラク
「メッセンジャー」(Le messeger)
本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE)47才の時の作品である。
この都市に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つのに数えられている。
当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は「希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。
「メッセンジャー」は、パリ市の徽章にも描かれている帆船を思わせる船を描いている。
[お江戸のマーシャ・堀内]
2016年1月14日 16:00
慌ただしく過ぎ去った正月松の内でした。昨年末「東都のれん会」というスタンプラリーに参加、
多くが東京の下町と呼ばれている場所にあり(中央区、台東区、墨田区、荒川区、江東区、千代田区、港区)、
江戸と現在を行き来しながら、雨風を問わず健脚作りをしたというお話です(大袈裟や!<ひとり突っ込み)。
「東都のれん会」とは、江戸~明治に創業し、東京で三代・百年以上の歴史を紡いできた54ののれん店の集まりで、
1951年の戦後の混乱期に発足したということですから驚きです。
扱っているものはといえば、佃煮、うなぎ、甘酒、お団子、眼鏡、果物、海苔、漆器、和紙、お茶、刷毛、弁当、扇子、楊枝、
刃物、稲荷寿司、お菓子、太鼓、天麩羅、すき焼き、豆腐、西洋料理、そば、履物、仏壇、人形、あひ鴨、清酒、あんこう鍋、
パン、呉服、帚、足袋、はんぺん、鰹節さん と衣食住の生活日常のものばかりで親しみやすいものです。
そんな中、26の老舗ブランドが中央区にお店を構えています。(中央区、\(^o^)/)
http://www.norenkai.net
普段からいくつかのお店に立ち寄ったりしていたのですが、今後は、より足しげく通うことになりそうです。
※上記写真をクリックすると大きくなります。
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2016年1月14日 12:00
堀部安兵衛武庸之碑
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀斎道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒学者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳
法名 刀雲輝剣信士
(裏面)
昭和四十四年八月建之
中央区八町堀一町目町會建内
代表者 奥山 喬一
亀島川と亀島橋
霊岸橋
河村瑞賢屋敷跡
所在地 新川一丁目八番地域
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八~一六九九)の屋敷がありました。
瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕府米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。
斎藤月岑(げっしん)の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四~一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三~一六八一)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
平成十五年三月
中央区教育委員会
船員教育発祥の地
政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流の水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
昭和五十年十一月
東京都中央区教育委員会
[サム]
2016年1月12日 12:00
1月4日、日本橋高島屋・日本橋三越本店にて、新春恒例の風物詩、江戸消防記念会第一区による、「江戸火消し 木遣り・纏振り・梯子乗り」の妙技が披露されました。
日本橋高島屋 1階正面ホール・正面入口前:10:00 12:00
日本橋三越本店 本館1階中央ホール:11:20
今から凡そ300年前の享保4年(1719)徳川幕府8代将軍吉宗の時代、時の町奉行大岡越前守忠相の唱道で「いろは四十八組」の町火消が結成されたのが消防組織の始まりとされています。明治に入り「消防組」として引き継がれ、その後、戦時下警護団に統合され、「消防組」は廃止。
江戸消防記念会は町火消・消防組の後裔として昭和14年に結成され、昭和29年に公益法人となり、江戸火消しの伝統と火消し文化の保存・継承を目的とし、今日も活動を続けています。
第一区は中央区全部と千代田区の一部を担当。
二番組(い組)から十番組(千組)までが中央区に帰属。
「木遣り」は、元来は複数の人員で火消しをする際に力をひとつにまとめるための掛け声や合図として唄われたもの。現代では作業唄から離れて儀式化し、また一部俗謡化するなど聴かせるためのものに変貌。東京都指定無形文化財に認定されています。
「纏振り」の纏は旗印の一種。組により様々な意匠が凝らされています。
現場で纏持ちは火事場の風下の屋根に上り、纏を振り立てて消火活動の目印とすると共に、仲間の士気を鼓舞したとされます。
「梯子乗り」は、梯子が、火災現場確認の為の櫓の役目、人命救助の器材の役目も担う事もあり、町火消の中心となった鳶職が、高所での機敏さと勇敢さの鍛錬のため、取り入れたと云われています。
江戸の粋を彷彿とさせる一コマです。
頂上技の数々。 左から「遠見」「腹亀」「背亀」「肝潰し」
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