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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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銀座5~8丁目ウォーキングコース (1)

[CAM] 2016年1月 6日 20:00

 「ものしり百科」の第1章「中央区を歩く」のコースを踏破する計画を開始したものの、少し休止していました。新しい情報を追加できているわけでもないので、投稿はもう止めようかとも思ったのですが、「ものしり百科」も全てのシーンに写真を掲載しているわけでもないし、観光検定も近づいてきたようなので、受検者に少しは参考にもなるかと思い、今年も継続することにいたしました。

 

 数寄屋橋公園は改修中です。銀座東急プラザが331日にオープンの予定。 写真撮影は141600過ぎです。

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数寄屋橋の碑

 

寛永六年(西暦一六二九年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった 橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった 爾来三十年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し こヽは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした
一九五九年四月
数寄屋橋公園美化協力会

 

島崎藤村・北村透谷記念碑

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所在地 中央区銀座五-一-十三

この泰明小学校は明治十一年六月に開校され、文芸家北村透谷や島崎藤村はその初期の卒業生であった。
透谷(一八六八~一八九四)は付近の実家から通学、明治十五年卒業し、同二十六年、藤村等と雑誌「文学界」を創刊し、近代浪漫主義の開拓者といわれた。
藤村(一八七二~一九四三)は明治十四年木曽馬籠より上京し、付近の姉の嫁先から通学し、しばらく帰郷ののち、別の縁家に移り、十七年卒業した。三十九年、日本自然主義文学の先駆的作品「破戒」によって作家の地位を確立し、さらに、「春」「夜明け前」などの大作を遺した。
昭和五十一年二月
中央区教育委員会

 

石川啄木歌碑

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石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治四十二年三月から四十五年四月十三日二十七歳でこの世を去るまでの約三年間である この間彼は佐藤真一編集長を始めとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」 詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満六十年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである
昭和四十八年四月一日
日本大学教授 文学博士
岩城之徳

(裏面)
京橋の瀧山町の由来
京橋の名は維新後の明治十一年に新たに制定された区名で昭和二十二年に現在の中央区に改められるまで七十年の間都民にしたしまれてきた区名です
瀧山町の名は江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので昭和五年銀座六丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です 現在は中央区銀座六丁目と又新しく表示されております
昭和四十八年四月一日
歌の書体は歌集「一握の砂」初版本の活字を拡大して用いました

 

 その前の工事中のビルの囲障壁面には、朝日新聞社跡と夏目漱石についての説明が記されています。

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人形町の 元徳稲荷神社 綱敷天満神社

[銀造] 2016年1月 6日 16:00

 明治座から甘酒横丁に入って、藪蕎麦の角に、「初詣 元徳稲荷神社」のご案内の幟がありました。

左折して100mほど入ったところに、元徳稲荷神社が鎮座されていました。 この辺りには、入ったことがありませんでした。大発見です。

お参りして、ご由緒書きを拝見すると、

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「元徳稲荷神社と綱敷天満神社の由来記、

 江戸時代上期 千五百石を領した川村徳ェ衛門が伊勢神宮の外宮、豊受大神宮より分け御霊を受け、小石川の自分の屋敷内に祀った。

後に屋敷替えとなり今の墨田区立川三丁目の三ツ目通り三ノ橋の袂に遷宮して一般市民の参拝が出来るように開放しました。

豊受大神宮は瑞穂の神として国魂の神になって居たので庶民が豊作をもたらす神として祀る場合は稲荷神社の神名で祀るようになったようです。

 

川村徳ェ衛門が再度屋敷替えをした跡に民家が建ち、この町を「元徳ェ衛門町」と言い、稲荷神社は元徳稲荷神社と名づけられました。

細川公という大名屋敷が今の浜町二丁目西部町会(以前は元徳町会と呼ばれていた)内にあり、細川公が懇請して元徳稲荷神社の分け御霊を受けて祀ったのが、元徳稲荷神社の由来であります。

元徳稲荷神社に、同じ町内に祀ってあった学問の神である天神様(綱敷天満神社)を合社いたしました。進学の神、産業、商売繁盛、火伏の神としてもご利益も伝えられています。

神紋は稲荷神社の抱き稲紋と天神様の梅鉢紋を組み合わせた抱き稲に梅鉢です。

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天神様で合格祈願、綱敷天神 辨財天という幟がはためいています。私も、資格試験が成就するようにとお参りしました。

 

 

日本橋七福神めぐりー当日(1月4日)の情景

[クラさん] 2016年1月 6日 14:00

昨年の12月28日に「日本橋七福神めぐり」(日本橋三越 主催)をご紹介しましたが、その開催当日(1月4日)の情景を報告します。当日は暖かく好天に恵まれ、予定時刻より少し早く受付が始まり"参加リボン、参加用紙、順路地図"のセットを受取り、巡拝をスタートしました。主催者の話では、8000人程の参加者を予定しているとのことでした。

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小網神社から始まり寶田恵比寿神社までの8社を順路地図と要所に立つスタッフの道案内で約1時間半かけて廻りました。どの神社も参拝者の行列ができていました。途中の椙森神社では配布された記念品引換券(2枚)のそれぞれにスタンプを押してもらいました。また、8社の巡拝を終わり終点の日本橋三越までの間の小津和紙がお茶処と用紙の記入所となっており、多くの人が休憩所として利用していました。

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最後に、終点の日本橋三越の屋上にスタンプを押した参加用紙を持参し、干支の絵馬型手ぬぐいをいただきました。また、同じく参加用紙を三越の向かいの山本海苔店に持参し、干支小皿を記念品としていただきました。

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暖かい日差しのもと、「日本橋七福神めぐり」を楽しんできました。

 

 

すずらん通り小咄三題

[之乎者也] 2016年1月 5日 16:00

今日は、お題として「すずらん通り」を取り上げたいと思います。以前ある記事を書いたとき、この通り(「銀座すずらん通り」)について間違えてお伝えをしてしまいました(既にその箇所は修正済です)。中央区の観光情報を正しくお伝えする特派員として今後間違えないように、今回はこの通りについて更に深く掘り下げてみたいと思います

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銀座すずらん通りといえば、中央通りの一本西側の銀座5丁目から7丁目までのタテの通りです。メジャーな中央通りに比べ、人通りもあまり多くは無い通りですが、晴海通り沿いには「SUZURAN ST」と大きく書かれたゲートがあり、存在感があります。Majalis8.jpg

 さらには12月30日付記事「MMM~銀座にヨーロッパの風を感じて(/archive/2015/12/mmm.html)」でもご紹介の通り、素敵なお店が立ち並ぶ通りでもあります。Majalis2.jpg【銀座すずらん通りの銀座木の実ビル】⇒何だこれは。。。ゴリラが壁を登ってる!

 

さて、そんな銀座すずらん通りですが、実は同じ銀座の中でも場所(南北)によって道の名前が変わります。晴海通りをはさんだ4丁目から北は「銀座ガス灯通り」、そして8丁目は「金春(こんぱる)通り」となりますMajalis11.jpg【ガス灯通りにある復元ガス灯】 

 

Majalis10.jpg【金春通り】

 

1本の通りに3つも名前があって「ぶり はまち、元はいなだの出世魚」ではないですが「(スズ)ラン (金春)芸者、いちに(1、2丁目)はあかり(=ガス灯)出世みち(=通))」などと下手な川柳ができそうです。しかし、銀座には実は他にも「出世通り」(あずま⇒信楽、レンガ⇒西五番⇒見番)があって、お店などの紹介の際には気を付けたいところです!Majalis12.jpg【銀座地域通り地図(中央区道路課作成地図を改変)】⇒①あずま⇒信楽(黄)、②ガス灯⇒すずらん⇒金春(赤)、③レンガ⇒西五番⇒見番(青)

 

さて、一件落着と思いきや「すずらん通り」には、更にもう一つお題がありました。12月29日付記事の「二つのMIYUKI DORI(/archive/2015/12/post-2960.html)」では区内にある2つの御幸通りを紹介しましたが「SUZURAN DORI」はなんとつもありました。ーーー銀座の他に八丁堀の「鈴らん通り」、そして薬研堀(東日本橋)の「すずらん通り」です。Majalis7.jpg

【八丁堀の鈴らん通り】

 

銀座すずらん通りも、素敵な通りですが「(八丁堀)鈴らん通り」も、戦前は映画館、寄席、ダンスホールなどが立ち並んで「下町の銀座」とも云われたそうです。更には江戸時代に遡ればそこはかっこいい八丁堀の旦那(与力、同心)の住む粋なエリアでした。こちらには「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の教育委員会による説明板があり、現在も8月18日付ブログで紹介した「コピティアム 新加坡小餐館(/archive/2015/08/kopi-tiam-in.html)」など魅力的なお店が多く立ち並ぶエリアです。Majalis5.jpg【薬研堀のすずらん通り】

そして「(薬研堀)すずらん通り」ですが、こちらは銀座や八丁堀と比べるとちょっと静かな通りですが、享保2年(1717年)創業というお茶屋さん「ほりつ茶舗」があるほか、「金鳥(キンチョ―)」のマークで知られる大日本除虫菊の東京支店があり、こちらの赤いマークもかなりインパクトがありますが、なんといってもこの通りの名物は、通りの中央、大川の向こうに聳える見事なスカイツリーの風景でしょう。Majalis9.jpg

【薬研堀 すずらん通り】

 

 「すずらん通り」は、その名の親しみやすさや清らかなイメージのためか非常に人気もあり、全国に同名さんはかなりの数がありそうです。その元祖は神田のすずらん通りのようですが、今では神田を中心に8つのすずらん通り(赤羽、阿佐ヶ谷、荻窪、経堂、銀座、立川、成増)が集まる「東京すずらん通りサミット」まで結成されているとか。

 

追記:ガス灯通りはこれまでの説明だけでもすでにややこしいのですが、更には、2丁目部分は以前は「観世(かんぜ)通り」と云ったそうです。江戸時代、ここに観世屋敷(猿楽(能楽)の家元観世太夫のお屋敷)があったことが名前の由来だったようですが、このあたりは8丁目の金春通りと同様な歴史的な経緯のようです。平成16年に地元からの改名申請もあり、1丁目から4丁目まで一緒に銀座ガス灯通りと改名された(中央区役所道路課工務係)そうです。Majalis13.jpg【区内3つの鈴らん通り(中央区道路課作成地図を改変)】

 

 

【銀座すずらん通り】

所在地:〒104-0061 中央区銀座5-6から7-8まで

【銀座ガス灯通り】

所在地:〒104-0061 中央区銀座1-7から4-4まで

【金春通り】

所在地:〒104-0061 中央区銀座8-7から8-8まで

【銀座 木の実ビル(ゴリラの壁登り)】

所在地:〒104-0061 中央区銀座6丁目8−6

【鈴らん通り】

所在地:〒104-0032 中央区八丁堀1-8から3-18まで

交通:地下鉄日比谷線・JR京葉線八丁堀駅下車

【八丁堀与力・同心組屋敷跡】

所在地:〒104-0032 中央区八丁堀3-17-9(京華スクエア目の前)

交通:地下鉄日比谷線・JR京葉線八丁堀駅下車30秒

【すずらん通り】

所在地:〒103‐0004 中央区東日本橋2‐4から2‐19まで

交通:地下鉄都営浅草線東日本橋駅下車

 

 

江戸時代の新年会~芝蘭堂とおらんだ正月~

[之乎者也] 2016年1月 4日 18:00

お正月です。友人からも謹賀新年のメールとともに新年会のお誘いが入って来ます。今回は季節の話題でもある江戸時代の「新年会」~「おらんだ正月」~についてお話したいと思います。

 

年末に岩手県から友人が上京して、銀座で一緒に飲んでいると「もうすぐお正月だね。正月といえば『新年会』だけど、一関(いちのせき:岩手県)出身で江戸時代に活躍した蘭学者の大槻玄沢(げんたく)って歴史の授業で習ったと思うけど、彼も新年会が大好きで、毎年必ずやっていたって知ってた?それもこの銀座で。。。」と江戸時代の新年会が話題になりました。Otsuki2.jpg

【大槻 玄沢像(小田 海僊(かいせん)画、重要文化財。出所:早稲田大学図書館)】

 

大槻玄沢(1757年~1827年)は一関藩出身、「ターヘル・アナトミア(解体新書)」を翻訳・出版(1774年)した杉田玄白と前野良沢に蘭学を師事し、二人から一字ずつ貰って玄沢と名乗っています。

両師匠が解体新書の翻訳、そして弟子の稲村三伯、宇田川玄随、岡田甫説が日本初の蘭和辞典である「ハルマ和解(わげ)」を完成(1796年)という偉業をそれぞれ成し遂げたものの、玄沢本人はむしろ後進教育やプロデューサー的な役割に熱心(世話焼きタイプ?)だったためか、蘭学(蘭学概論、オランダ語文法)入門書の「蘭学階(=楷)梯(かいてい:1788年創刊)」を著し弟子を教育する場所として京橋に「芝蘭堂(しらんどう)」を開いた(1789年)ことが実績として知られています。Otsuki3.jpg

【蘭学階梯(出所:京都外国語大学附属図書館)】

 

玄沢の門下には最盛期には100名の門下生がいましたが、蘭学者の集まりでもあり談論活発。玄沢の性格や蘭学塾の雰囲気、またオランダ商館長一行の江戸出府の際、長崎屋で対談したのをきっかけに、玄沢は1794年11月11日(旧暦)に芝蘭堂で「新元会(新しい元日を祝う会)開きます。蘭学者同士の親睦を深めて情報交換を行う場、今風に言えば西洋学会の新年会のようなものを企画、玄沢が自ら幹事役も買って出たというところでしょうか。Otsuki1.jpg【芝蘭堂新元会図(部分)(市川 岳山(がくざん)画、重要文化財。出所:早稲田大学図書館)】⇒岳山も玄沢の弟子のひとりであるので、おそらくこの新元会にも参加して楽しんだ一人ではなかったかと思われます。

 

11月11日(旧暦)がオランダ暦(すなわち現在の我々が使っている新暦)の1月1日にあたるということで、オランダの正月をお祝いするという宴会を開いたのでした。普段は難しい勉強ばかりしている蘭学者の集まりだったのかと思いますが、結構楽しそうな雰囲気です。玄沢は自宅を芝蘭堂として使っていたので、引越しの度に移転(京橋、本材木町、三十間堀町、南紺屋町、木挽町、築地小田原町など中央区内が多い)を繰り返していますが、最初の「おらんだ正月」は、京橋水谷町(現在の銀座1丁目の水谷橋公園あたり)で行われたようです。Otsuki4.jpg当時は、鎖国時代とはいえ、長崎出島を通じたオランダとの交易は許されており、特にこの時期、8代徳川吉宗の享保の改革の結果、実学奨励の方針が取られ、1720年以降漢訳洋書の輸入も一部解禁され、蘭学研究が盛んになった時期であったという背景もあったようです。この催しは好評だったようで、その後も毎年行われ玄沢の死後も長男の磐里(玄幹)に引継がれ44年間続いたようです。

 

【芝蘭堂跡(推定)】

所在地:〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目12-6(水谷橋公園)

 

 

平成の蔵屋敷 in 中央区~その3~

[之乎者也] 2016年1月 3日 14:00

前回の「平成の蔵屋敷 in 中央区」(/archive/2015/08/-in-5.html)では、中央区にある地方銀行についてご紹介しました。3回目となる今回はそれから5か月ぶりとなりますが、今回は中央区に進出している外資系金融機関としてHSBCグループ/香港上海銀行を取り上げたいと思います。

 

東京駅前から八重洲通りを真っ直ぐ歩き、昭和通りと交わるところに、16年4月に地銀最大手の横浜銀行と経営統合することが決まっている第二地銀、東日本銀行の本店があります。その昭和通り沿いの北隣には、ガラス張りのビルが屹立しており、上部に赤地の6角形(Hexagon)に白抜きの蝶ネクタイのような形を合わせたマークの隣に、大きくHSBCの4文字が描かれています。こちらは、その香港の本部と似たガラス張りのデザイン、そしてマークからわかるようにHSBCグループ/香港上海銀行の東京拠点です。HSBC1.jpg

【HSBC東京支店ビル】⇒八重洲通りと昭和通りの交差点の近くにあります。


HSBCといえば、香港をはじめとするアジア地域、ロンドンやパリなど欧州では街中で普通に見かける銀行ですが、日本ではあまり見かけません。

日本ではもともとリテール事業を行っておらず、一時(2008年以降)展開したプレミアバンキング(プチ富裕層向けサービス)もプライベートバンキングとともに2012年に撤退しており、現在、日本においては貿易金融などをはじめとする法人向け商業金融サービス(香港上海銀行)、アセットマネジメント事業(HSBC投信)、証券会社ビジネス(HSBC証券)といった限定された範囲でのサービス提供となっています。

しかしこの銀行、実は日本とのゆかりは非常に深い銀行です。一般に、東京における外資系の銀行(投資銀行、商業銀行)は、赤坂や丸の内周辺に立地するケースが多く、中央区に拠点を設けている有力な銀行では、このHSBCのほかには、アメリカ銀行・メリルリンチ(@コレド日本橋)が有りますが、今回あえて香港上海銀行/HSBCグループをお題に選んだのは、日本とこの銀行のゆかりの深さによります。HSBC5.jpg

【1930年頃の香港上海銀行上海支店】⇒現在は、上海浦東発展銀行の外灘12号ビルとして使われています。

 

香港上海銀行は、1865年にスコットランド人のトーマス・サザーランドにより、香港にて設立されましたが、香港上海銀行が最初に日本へ進出したのは、設立の翌年の1866年です。それは、今を遡ること150年前、明治維新の前ですが、既に居留地があった横浜に最初の拠点を設けたのを皮切りとして神戸(1869年)、大阪(1872年)、長崎(1896年)と支店を開設していきます。明治以降の日本政府の富国強兵政策にも対応し、日本国内の鉄道、水道、港湾等のインフラ整備のために、2億5千万ポンドを貸付け日本の経済成長を支えました。

1923年の関東大震災により、横浜支店が倒壊したのをきっかけに、翌年東京支店を開設し、第2次大戦後も1947年以降、東京と神戸で営業を再開し、その後も日本において貿易金融等の分野を中心に日英間のビジネスをサポートした、まさに英国の在東京蔵屋敷のような役割を果たしてきた金融機関といえるでしょう。HSBC4.jpg【HSBC 香港本部ビル】

 

香港にあるHSBC本部ビルは、全面ガラス張りで更には風水を考慮した設計となっています。こちらについては預金、両替などのリテールバンキングも行っているので内部の見学も可能です。日本橋にある東京支店も、香港本部同様モダンなガラス張りのビル(1998年竣工)となっており興味をそそられますが、こちらについては、残念ながら現在リテールビジネスを行っていないため預金などこちらでは行うことはできず、従って一般には内部見学の機会は有りません。

なお、旧香港上海銀行長崎支店は、記念館として一般開放されており内部の見学も可能です。こちらはガラス張りではなく、明治の銀行建築ではありますが、長崎への旅行の際には見学のため訪れてみるのも一興です。

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【旧香港上海銀行長崎支店記念館】

 

【香港上海銀行東京支店】

所在地:中央区日本橋3-11-1(昭和通り沿い)

*文中説明の通り、東京支店ではリテールビジネスは行っておらず、基本的にビル内部には入れません。見学の場合は外部から見ることに止めましょう。