[りょうきち]
2014年3月31日 18:00
すっかり寒さも緩み、暖かくなったと思ったら、桜が咲いていました。ということで近所の浜町公園に花見目的で、子連れで出かけてきました。浜町公園は広く、遊具も充実しているので子供には最適な場所です。
2つ目の写真は隅田川方向を撮影しました。船からの景色はより素晴らしいと想像されます。「春のうららの隅田川・・・」と口ずさみたい気分です。(歌っていましたが)
ということでうちの子供もご満悦でした。今日は花が全て。それ以上、書くことはありません。毎年この時期のみの楽しみですが、来週の週末はまだ、残っているでしょうか?もう少し、花を楽しむ機会が欲しいものです。
[whatever]
2014年3月19日 14:00
啓蟄を過ぎても肌寒い日が続きましたが、気温も上がってポカポカ陽気になった日曜日の朝。人形町通り沿いの歩道を歩いていると、壽堂のディスプレイが目に留まりました。
マグノリアのつぼみがついた枝が生けてありました。かわいいと思いながら通り過ぎると、甘酒横丁交差点近くの街路樹にマグノリアを発見。間もなく開きそうなつぼみがたくさんついていました。
そろそろ街のあちこちに春を見つけることが出来るのではと思い、用事を済ませ、午後3時過ぎに人形町〜日本橋周辺に繰り出しました。朝見かけたマグノリアをもう一度見に行くと、朝よりつぼみが膨らんでいます
街行く人も増え、多くの人が足を止めて眺めていました。その他に見つけた『春』を紹介します。
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ミツマタ(人形町通り)。後方は高層マンションのリガーレ日本橋人形町。
よし梅の玄関先には白い花のついた枝が生けてありました。
芸者新道と呼ばれるこの通りは、関東大震災や大戦の被害を受けなかったようで、当時の建物が残っているそうですね。
2月の冬景色も風情がありました。
人形町薮そばの桜の木。ソメイヨシノに似ていますが、違うかな?
ネコヤナギだと思いますが・・・(太田鮨)
日本橋方面へ歩いて、昭和通りを越えたところの日本橋本町のあじさい通りにはおかめざくら。
濃いピンクと小さめの花弁が愛らしいです。
残念ながら、日本橋詰の桜はまだまだ小さなつぼみでした。
改装工事中の三菱倉庫江戸橋倉庫ビル前の陽光桜。こちらもまだつぼみでしたが、色づいていますね。
少々歩いて、清洲橋近くの隅田川テラスの植え込みにはマーガレットが満開でした。
しかしながら、最近見つけた一番お気に入りの春は・・・三原堂本店のさくら餅とさくら団子。
結局、花より団子
[与太朗]
2014年3月18日 09:00
3月といえば、まず3年前の3.11東日本大震災ですが、東京人としては69年前、10万人もの命が奪われた3.10東京大空襲も忘れることが許されない惨害ですね。このとき、浜町の明治座に避難して命を落とした方々の中に、日本橋生れの小説家・劇評家・書家の山岸荷葉(1876-1945)の名があります。
山岸荷葉は本名・惣次郎、当時のメインストリート本町通り、通油町(現在の日本橋大伝馬町)にあった硝子・眼鏡問屋の加賀屋(通称加賀吉)に生れました。同じ町内に育った文化人に川尻清潭、長谷川時雨がいます。時雨の『旧聞日本橋』には、彼女の父が大店加賀吉を会場にして憲法発布の祝賀の演説をしたとあります。
彼は幼少から書道に秀で、書家巌谷一六門下で神童といわれ、(後には「かがのや流」で一家をなします。) 一六の息子小波の紹介で硯友社に入り、尾崎紅葉の下で小説家となります。代表作『紺暖簾』をはじめ明治期の日本橋の商家や花柳界を舞台に下町情緒を描いた作品は「日本橋文学」と呼ばれました。後年は演劇に関心を移し、荷葉翻訳の劇を川上音二郎一座が明治座で上演するなど、西欧演劇の大衆化に貢献したほか、歌舞伎の劇評にも腕を揮いました。彼の人柄は気さく・洒脱で誰からも慕われたといわれます。画家の鏑木清方とは互いに心を許す友人でした。
昭和20年3月10日の大空襲には、自宅に近く、翻訳劇を上演した縁もある明治座の建物に避難したが、ここも被災して落命。硯友社最後の文人,山岸荷葉は日本橋に生れ育ち、日本橋を描き、日本橋で生涯を閉じたのでした。享年69歳でした。
【写真上】 旧通通油町の現在、大伝馬本町通り。石町通り(現在の江戸通り)に電車が走るまでは、こちらが幹線道路で、大店が 軒を連ねていました。江戸時代には蔦屋重三郎の書肆・耕書堂もここにありました。
【写真下】 谷中霊園にある山岸家の墓。近くにある川上音二郎の銅像台座には、荷葉書の碑文が彫られています。
[銀造]
2014年3月15日 14:00
日本橋で熈代照覧を見て、日光、奥州街道への旅の夢を膨らませ、歩き始めました。
日本橋ユイトの角を右折し直進します。
この角は、日本初の 眼鏡専門店である村田眼鏡店さんの手前です。
両側には大手製薬会社のビルがあります。「くすりミュージアム」まで来ると、
高速道路にぶつかります。高速道路の向こうは、小津和紙さんの店舗ビルが見えます。
本町2丁目か本町3丁目の横断歩道を渡ります。
そして、小津和紙さんのビルを左手にして、直進します。
江戸時代から続く、刷毛の専門店、江戸屋さんの向かいは、現在駐車場になっています。
その片隅に、黄銅色の石碑があります。これが、日光街道道標です。
そのまままっすぐ行くと、横山町の問屋街で、道なりに進むと浅草橋の交差点に出ます。
ここでは、浅草橋、浅草見附跡へ行くには、地下道を利用します。
交番のところが、郡代屋敷跡、そして浅草橋、浅草見附跡の説明版があります。
ただ単に、日光街道を正直に歩くより、
小津和紙さんのギャラリーを訪れたり、そのビルの裏手にある佐竹大日如来の井戸跡や宝田恵比寿神社を参詣したり、
十思公園内の時の鐘、小伝馬町牢屋敷跡(囚獄 石出帯刀)、かつて囚われていた吉田松陰の無念の声を聴くのも良いかなと思います。
旅のお供には、古地図か安藤広重の名所江戸百景を携えて歩くのをお勧めします。
名所江戸百景が一冊になった本は、中央区観光協会でもお買い求めできます(数に限り有り、ご確認下さい。電話(03-6228-7907)
それでは、良い旅を!
[橘]
2014年3月14日 09:00
第一大学区第一中学区一番小学校の阪本小学校や泰明小学校は、中央区観光検定のテキスト「歩いてわかる 中央区ものしり百科」にも登場しますが、阪本小学校より1ケ月遅れで創立された中央区で2番目に古い久松小学校は(実は母校なのですが)余り知られていないので、紹介させて頂きたいと思います。
久松小学校は阪本小学校と同じ明治6年(1873年)創立なので、昨年(2013年)には創立140周年を迎えました。全国的に見てもかなり歴史のある小学校です。
(2012年に行われた周年関連行事の航空写真です)
「久松小学校内資料館より」
久松小学校の校名の由来は、伊予松山藩主の末裔・久松伯爵の献金を基に創られた学校なので、校名が久松と付けられました。
卒業生には各分野でご活躍された方々がおられます。
政治では、蜂須賀貴族院副議長、川島正次郎氏
建築家又詩人として有名な立原道造氏
テイジンやキャノンのポスター等グラフィックデザイン界をリードしてきた伊藤憲治氏
日本橋や浜町に近いので芸能関係も盛んでした。
山田五十鈴(女優、文化勲章)、芳村五次郎(歌舞伎長唄、人間国宝)、
鳥羽屋里長(歌舞伎長唄、重要無形文化財保持)、四代目江戸屋猫八(声
帯模写)
等色々な方が各分野で活躍されています。
久松小学校の特筆すべき点は、1963年の創立90周年式典に昭和天皇の行幸啓を仰いで以来、節目の10年毎の式典に皇族の行啓・お成りを仰いでいる点です。
100周年には皇太子同妃両殿下(平成天皇)
「久松小学校内資料館より」
110周年には浩宮徳仁親王殿下(皇太子殿下)
「久松小学校内資料館より」
120周年には秋篠宮同妃両殿下
「久松小学校内資料館より」
130周年には常陸宮同妃両殿下
「久松小学校内資料館より」
140周年には秋篠宮妃殿下及び内親王佳子殿下
以上の様に10年の節目ごとに此れだけの皇族方にお祝い頂ける小学校は大変貴重であるとともに、大変名誉なことと思われます。
私が卒業した1963年頃は1学年160人位いましたが、現在は60名~100名位だそうです。しかし、ここにきて中央区の夜間人口の回復努力が実って月島・晴海地区程ではないにしても、久松小学校の区域内でもマンションが増えてきたこと等もあり、本年の入学予定者は30人ほど卒業生より増加するそうで、校舎の建増しも予定されているようです。
"強く 正しく 豊かに"を教育目標としている久松小学校に光あり。
[滅紫]
2014年3月 7日 14:00
旧暦2月の初午は今年は3月12日になりますが、今日ほとんどの2月初午祭や二の午祭は新暦で行われているので年中で一番寒い季節に当たっています。旧暦であれば、初午は少し春めいた頃に巡ってきたもののようです。
三大稲荷の一つ「笠間稲荷」では新暦と旧暦の両方で初午祭を行うとのこと。江戸時代には「事始め」の時期で寺子屋に入門するのもこの日が多かったとのこと。ベストセラーの「なぜ日本では八幡神社が一番多いのか」によれば、「稲荷社」を名乗る神社は2070とされているが摂社末社や街中の小祠を入れれば実際には稲荷が一番多いはず」と書いてある。「もともと五穀豊穣の神だった稲荷は次第に漁業の神、商売繁盛の神、そして関東では屋敷神として広く信仰を集めるようになり「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれるほど多くの稲荷が勧請されたと言われている。」(「日本の暦と年中行事」)。
江戸時代には芝居小屋には「大入りや安全祈願」を願って必ずお稲荷さんが祀られて、2月の初午には楽屋でも年中行事として稲荷祭が催されそのすべてを管理、主催していたのがそばに部屋のある大部屋役者たちで「稲荷町」と呼ばれていたのはご存知の方も多いことでしょう。(別な説もあります)。江戸三座もそれぞれ楽屋に稲荷大明神を祭祀していて、中村座は「銀杏稲荷大明神」!、市村座は「大津稲荷大明神」(何故か森田座がない)で「商売繁盛」や「安全祈願」に霊験あらたかな稲荷大明神はあらゆる意味で芝居興行の守護神にふさわしかったことでしょう。
現在でも歌舞伎の上演される劇場には稲荷が祭られています。以下の写真は歌舞伎座「歌舞伎稲荷大明神」と新橋演舞場「演舞場稲荷大明神」、明治座の稲荷です。歌舞伎座と新橋演舞場は鉄砲洲稲荷神社の氏子です。明治座の稲荷は笠間稲荷を勧請したものだそうです。国立劇場の稲荷は花園神社の稲荷を勧請したものと会員向けのバックヤードツアーで伺いました。楽屋入口の着到板のそばにあります。観劇の折に、劇場のお稲荷さんにもちょっとお参りしてみませんか?国立劇場をのぞけばいつでもお参り可能です。(演舞場稲荷はチケット売り場の裏にあります)。