日本橋本町にある真新しい神社です。
縁起は定かではないようですが、案内板によると江戸時代初期から日本橋の方々に親しまれている神社のようです。
平成25年に隣接するビルの建て替え工事に伴って神社も一旦とりこわされ、平成28年に新たに造営されたようです。
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両社稲荷神社
日本橋本町にある真新しい神社です。 東京駅八重洲地下街 948 串と饂飩 有り難いお店です
久しぶりに中央通りのブリヂストン美術館(現在閉館中。新美術館は2019年秋オープン予定です)前から越前屋さんの方面に散歩しました。
越前屋さんの店先で、素敵な刺繍の数々を拝見した後、今日は東京駅地下街を探検してみようと思いました。 最寄りの地下道を下りると、沢山のお店が営業をなさっていらっしゃいます。 毎年10月末から11月初めにかけて開催される、「まるごとミュージアム」のパレードの時には、 こちらの施設を利用させていただき、安近短の昼食を頂いています。 今日も訪れたのは、階段を下りて直ぐのお店、948 美味しいおうどんと小丼のセットが、格安でお召し上がりになれます。 昼食ゆえ、適量を、それなりのコスト・パフォーマンスのあるお値段で頂きます。 海鮮丼・うどんセットは、美味しいおうどんと鮪の赤身を使用した海鮮丼。 お値段は、税込みで¥580。夕方4時から、串カツや、利き酒セット¥780を堪能できるようです。立飲みの居酒屋より、値打ちのあるお店かなっと思います。 最寄りの越前屋さんには、手芸用品が充実して、素敵な作品も展示しているようなので、 いつも入店したいと希望していますが、女性客に人気で遠慮気味です。その、越前屋さんのHPは、こちらです。 http://www.echizen-ya.co.jp/ ◆ 東京駅八重洲口発のバスに乗って
土曜日の夕方の東京駅。いやぁ、今日も暑い1日だった。 これから中央区の勝どき駅に行かないといけないので、八重洲口から出ている「深川車庫前」行きのバスの乗り場を探した。
丸の内南口から出ているバスを使っても、勝どきに辿り着くことが出来る。しかも有楽町や銀座や築地の街並みを見ながら。でも今日は、八重洲口発の都営バスにしてみた。
このルートのバス停はたぶん、東京に詳しくない人だと、聞き慣れない名前が多いかもしれない。
17:46 東京駅八重洲口 17:47 通り三丁目 17:49 八丁堀二丁目 17:50 亀島橋 17:51 新川 17:54 新川二丁目 17:55 鉄砲洲 17:57 湊三丁目 17:58 明石町 18:00 聖路加病院前 18:01 築地七丁目 18:03 勝どき橋南詰 18:04 勝どき駅前
中央区の中でも下町色の濃い、ディープなエリアを通るこのバス。本数こそ少ないが、乗るたびに違う味がしてくるので、たまに乗りたくなってしまう。列に並び、バスに乗り込んで、今日は初めてバスの一番前に陣取ってみた。
バスは東京駅から八重洲通りを真っ直ぐに、新川・佃方面へと走っていく。八重洲通りの左側が昔の日本橋区、右側が京橋区だったので、その境を走っている。 中央通りとの交差点にある『 平和の鐘』を横目に過ぎていくと、不思議な名前のバス停「通り三丁目」に停まる。 名の由来は、八重洲通りでもなく、中央通りでもない。昔の町名「通(とおり)」から来ているらしい。 今の中央通りは江戸時代、日本橋を起点として延びていた東海道の道筋で、その東海道の最初の区間、日本橋と京橋の間の道沿いに賑った細長い町の名前が「通」。江戸時代の初めから栄えた商業地だ。 昭和48年にその町名は消えてしまったものの、バス停にその名前を残してくれている。なんとも嬉しいバス停である。
バスはビジネス街を抜け、亀島川に架かる亀島橋を渡り、新川地区に入っていく。
「新川」の名前は、かつて東西に流れていた運河の名前に由来するというが、今はもう、埋め立てられてしまっている。
今度の日曜日の深川八幡祭りでは、この辺りも55基のお神輿が巡行する。隅田川の人気のある2つの橋をお神輿が渡るので、とても好きな夏祭りだ。 深川から清洲橋を渡ってきて、箱崎や、ここ新川地区を通り、永代橋で隅田川を渡り直して深川の富岡八幡宮へと戻っていく。特に永代橋辺りは見物人の溢れる人気エリアとなっている。
この祭りの特徴でもある「水かけ」の風景は各所でみられ、それを見ているだけでも、この祭りにかける人々の情熱を体感でき、感動もできる夏祭りである。
また新川地区は、昼食のための休憩タイムにあてられているエリアなので、その間、お神輿の博物館状態になる場所でもある。まじまじとお神輿自体を見物してみたい人には、良い場所かもしれない。
さて、このまま八重洲通りを真っ直ぐに進んでいくと、「中央大橋」で隅田川を渡ることになる。しかしバスは八重洲通りをサヨナラして右に曲がる。
曲がったかと思えば、すぐ「新川二丁目」のバス停で停まり、発進したら目の前にある「高橋」を渡らずに左へと折れる。何だか慌ただしくなってきた。 この慌ただしさは、バスが亀島川を渡るのにわざわざ「南高橋」を選んでいるせいではないのか、という疑念を生じさせる。
南高橋は、この辺りの橋の中でも、粋な作りの橋だ。関東大震災の復興で架け替えられた旧両国橋の部材を使っているので、レトロ感が満載である。川を渡るのにこの橋を選ぶとは、このバスも、なかなかニクいことをしてくれるものである。
バスは、鐵砲洲稲荷神社の前にさしかかる。バス停も「鉄砲洲」。面白い名前である。かつて隅田川の河口辺りにあった洲が、鉄砲のような細長い形をしていたから、とも言われているが、面白い名前にしては、少し理由がつまらない。
佃大橋の高架の下をくぐった先が明石町。やたらと「◯◯発祥の地」という、石碑やら記念碑やらの多いエリアに入っていく。 この辺りは開国後「築地居留地」として、東京の中でも新しい外国の文化が、いち早く入ってきたことがその理由だが、そもそもこの明石町という名の由来は、兵庫県の明石の浦の風景に似ていたから、という説がある。 江戸時代の人は、明石町の海の先に浮かぶ佃島を淡路島に見立てていたに違いなく、きっと綺麗な江戸の海の風景が広がっていたのだろう、と想像ができる。
『平和の橋』の下にある「聖路加病院前」のバス停で停まった。この『平和の橋』の名付け親は、先日105歳で永眠された日野原重明先生なのだそうだ。 微かに鐘の音が聞こえてくる。聖路加病院の18時の鐘の音である。雰囲気のよい場所には、よいメロディが流れるものだ。この鐘の音とともに、日野原先生の平和への想いも、ここ明石町の空の下で受け継がれていくのであろう。
そしてバスは、昔、小田原町と呼ばれていた街を抜けていく。この辺りを裏築地と呼ぶ人もいて、隠れた名店が多いところであるが、路地裏の道に入っていったりすると、思わぬ建築が目の前に現れたりして、ビックリする場所でもある。
晴海通りを左に曲がるとすぐ勝鬨橋。この橋が一番格好よく見えるのは、自分で車を運転して渡る時だと、この前運転して思った。なので今日は一番前に陣取って橋を見てみたかった。やっぱり自分で運転した時のほうが、格好良く見えたと思う。
橋を渡った先が勝どき。いろいろな所を巡ってきたが、意外とあっという間である。
時間があったので「勝どき橋南詰」のバス停で途中下車した。今日は隅田川の夕暮れが綺麗そうなので、勝鬨橋まで少し戻ってみようと思ったからだ。
隅田川テラスにおりて、夕涼み、といきたいところだったが、駅に向かわないといけない。仕方なくこの場所を後にし、勝どき駅まで歩いて、ちょっとした小旅行を終わらすことにした。
まだまだあります島根の幸 ~ にほんばし島根館 ~ ②
『ギフト、そして自分も楽しむ』をキャパシティーを発揮して取材します、 rosemary sea です。
島根県のアンテナショップ、にほんばし島根館さん、前回のご紹介はこちらです。 ⇒ /archive/2017/08/post-4532.html
ご紹介したいところ満載の島根の幸、それではご紹介です。 今回もにほんばし島根館 島根県東京事務所の栗之宮館長、安井課長、入江さんにお世話になりました。 のどぐろ 島根県出身の錦織圭さん、海外から帰国の際、 " 今食べたいもの " として " のどぐろ " と答えたことは有名なお話。 本来は「アカムツ」という名の魚ですが、高級魚として " のどぐろ " の別名も認知されていますね。 確かに口の奥が黒いお魚。 一夜干し、焼いてお皿に載せたら・・・たまりませんね。
あごのやき(あご野焼) 山陰地方の郷土料理です。 産卵のために日本海を北上するあご(トビウオ)。 これをすり身にしてお酒やみりんなどで味付けして、棒に練り付けて焼いたもの。 あごはクセがなき淡白な味ですが出汁が出ます。 「あごのやき」はかたちがちくわに似ていますが、こちらの方が一般的に大きいサイズです。 「野焼」の名前の由来はそのサイズに関係します。 昔は屋内の炭火で焼いていましたが、あまりの大きさから煙に閉口し、軒先や戸外で焼くようになりました。 だから「野焼」。 ちなみに「あご」はあごが落ちるほど美味しいからとか。 切ってお皿に載せても一品となりますが、そのままかじって食べるのもおすすめ。 ロズマリの大好物です。
島根の水は美味しい、故にここでできるお米は上等、更に美味しいお米と水で・・・上質なお酒も島根にはございます。 更に更に、甘酒もおすすめ。 美味しい島根、いかがでしょう? 取材日には店頭で「仁多米(にたまい)」のご紹介もされていました。 島根県仁多郡奥出雲町産のコシヒカリです。 日本穀物検定協会の米食味ランキング(H15年度)では「特A」、故に " 東の魚沼コシヒカリ、西の仁多米 " と言われています。 中国山地の山あいの棚田で育てられたお米は、収穫したまま籾殻をつけた状態で低温貯蔵されており、いわば「生きているお米」です。 この新鮮な仁多米を、出荷直前に籾すり・精米してお店に並べます。 保存には注意が必要ですが、その分美味しいままでいただけます。 ※ 仁多米の店頭でのご紹介は8月1日~3日まででした。 ですが、商品自体はお米コーナーなどで取り扱いされております。
今回も観光部門から1つだけご紹介。 島根は「神々の国」。 また、「古事記」や「日本書紀」、「出雲国風土記」に記された神話ゆかりの地です。 パンフレットには出雲大社を筆頭に、58か所も紹介されています。 車でたずねる旅、趣きありそうですね。 もちろん他の交通手段でも。 パワースポットめぐり、御朱印帳を手に、巡ってみたいものですね。 ・・・ここのスタッフさん、島根の旅のアドバイスには一段と熱がこもります。 島根への旅、ご検討の際はぜひお立ち寄りください。 きっとご満足いただけると思います。
改めて、お知らせ にほんばし島根館さんは入居ビルの耐震工事に伴いまして平成29年9月19日(火)から、一時休館することとなりました。 リニューアルオープンは来年2月の予定とのこと。 なお、観光案内及び定住相談につきましては休館中も仮事務所にて業務を行うそうです。
日本橋室町1-5-3 福島ビル1階 東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅、A4出口 三越日本橋本店の向かいです。
観光のご案内、各種お問い合わせ ⇒ インフォメーションカウンター 03-5201-3310 物産品のお問い合わせ、ご注文 ⇒ 島根県物産協会東京支部 03-3548-9511 営業時間 10:30~19:00 年中無休(年末年始を除きます)
なお、他に「ふるさと定住・雇用情報コーナー」や お食事処として「島根の味・日本海の幸『主水(もんど)』も ございます。
にほんばし島根館さんのホームページはこちら 一石橋(八ツ見橋)
一石橋は、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋と一石橋自身の計8つの橋が見えることから、当初八ツ目橋と言われていました。 木橋の架け替えが最後に行われたのは明治6年(1873年)、その当時の記録によると橋長=14間(25.2m)、幅員=3間(5.4m)と言われています。想像ですが、江戸時代の橋もこの程度の大きさだったと予想されます。 満よひ子の志るべ江戸期~明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出ました。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」を南詰に建てました。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがありました。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたということです。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようです、現存するものは一石橋のものだけです。 昭和17年9月に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。 一石橋が話題に出てくる「十徳」という落語を一席紹介しますので、お寛ぎ下さい。 *********************************************************** ふだん物知り顔な男がおりまして、髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きにまいりました。 隠居は自分が来ている着物を見せて、「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとく(5+5)で十徳だ」と教えました。(以下の2枚の写真は十徳を着た様子です。参考に示します) (立てばシャクヤク、座れば牡丹という言葉がありますが、落語では「立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく」と余り色気がありませんな) 「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤の二人が地震で倒壊した橋の架け替えのために金を出し合ったから、「ゴト(五斗)とゴト(五斗)で一石だ」とウンチクを一くさり。ここまでは良かったのですが、八さんは髪床に戻って、物知り顔で話し始めたのについた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。一部省略 ・・・・「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これは(2+2)したり」 結局八さんは、ごとくごとくで十徳という説明をする積りが、(2+2=4)したりとなってしまう一席でした。 ******************************************************** このように名称のいわれが落語に出てくるほど一石橋の名称の由来は有名なものでした。 落語は文章を読むものではなく、聞くものですね。お粗末。Youtubeで談志等の「十徳」を聞くことができます。ブログを見ながら聞いて笑っていただければ幸いです。 ヤン・ヨーステン像 八重洲地下街と八重洲通りの分離帯にあり
ヤン・ヨーステンの像は、東京駅地下街と八重洲通りの分離帯にあります。 東京駅の地下街の銅像は、10年以上前に行ったきりで、場所は随分移動していました。 八重洲中央口から下りたメイン・アべニュー地下街にある案内所の方に、とても親切な応対で、所在地を教えて頂きました。 東京駅八重洲口からなら、八重洲中央口から下りて、ソフトバンクの角を右折、中国料理の「鳳鳴春」を過ぎて、ラーメン店「遊亀亭」の隣に、ヤン・ヨーステンと九州の大分県臼杵に漂着したオランダ船「リーフデ号」と同船が辿った航路が図示されています。 大西洋をひたすら南下して、チリの最南端ケープ・ホーンから、(私が読んだ本では、そこからチリの内陸を通っている運河を航行し)、 ハワイ沖、日本の大分の臼杵へ漂着したということです。 この時、英国人船員ウイリアム・アダムスも乗船していました。ウイリアム・アダムス(後に、三浦按針と名乗る)は、日本橋に屋敷を与えられて、按針町という町名が誕生したのですね。
八重洲通りの分離帯には、中央区が平和宣言した1年後に設置された「平和の鐘」と一緒にヤン・ヨーステンの顔の銅像が置かれています。 毎年、暑い夏に思うことですが、世界が紛争の無い平和であって欲しいと願っています。 平和の鐘の説明は、こちらです。 http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/monument/kane/ |
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