Hanes

【遠足シリーズ第52弾】堺の職人と故郷の風景
~柳が語る銀座と堺の関係とは~


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
突然ですが、江戸時代における現・東京都中央区と現・大阪府の関係と言ったら、皆様は何を思い浮かべますか?
関係は色々ありますが、やはり1644年(正保元年)に摂津国西成郡佃村(現・大阪府大阪市西淀川区)から江戸にやってきて、佃島を築いた漁師たちを思い浮かべる方が多いのではないかと思います。
(佃島を築いた漁師たちの詳細は、2018年11月の記事「【遠足シリーズ第9弾】漁民が結んだ縁の島」をご覧ください。)

私の中でも江戸時代における現・東京都中央区と現・大阪府の関係と言ったらそのイメージだったのですが、先日大阪府堺市を訪れ、市役所周辺を歩いていると、「『銀座の柳』の言い伝え」と題された案内板が目に飛び込んできました!
そして、そこにはこう記されていたのです。

東京の「銀座」という地名は、江戸時代に堺から移住した銀細工職人が銀貨を鋳造した地であることから「銀座」と呼ばれるようになったそうです。また、今も「銀座」に柳が植わっているのは、職人たちが堺を懐かしみ堺から柳を移植したからとのことです。柳は堺市民の木になっています。

 

 【遠足シリーズ第52弾】堺の職人と故郷の風景~柳が語る銀座と堺の関係とは~


しかし、一般的に「銀座の柳」と言われるものが誕生したのは、19世紀後半と言われています。
1874年(明治7年)に銀座通りに日本初の街路樹として松、カエデ、桜が植えられるも枯れてしまい、1877年(明治10年)に柳に植え替えられることとなりました。
そのため、「銀座の柳」というと街路樹として植えられ、歌にもなった明治時代以降のイメージが強いです。

そこで、「銀座の柳」ではなく「銀座に植えられた柳」にはなりますが、江戸時代に既に現・銀座に柳が植えられていたことが分かる記録や絵画がないか軽く調べてみることにしました。
レファレンス協同データベースによると、堺市立中央図書館はこの案内板の説明についてこう述べています。

『堺市史』には、銀座の職人が堺から柳を移植したという記述はありませんが、堺のメインストリートである大小路筋に柳の並木があった記述はあります。


さらに、江戸時代に描かれた現・銀座の風景に柳が見当たらないか探してみたのですが、歌川広重の『名所江戸百景』の「びくにはし雪中」(現・銀座1丁目4番あたり)や『富士三十六景』の「東都数寄屋河岸」(現・銀座5丁目あたり)には柳のようなものが描かれているものの、柳だと解説している文献は見つかりませんでした。
そのため、江戸時代に現・銀座に堺から職人たちが柳を移植したという確証は得られずじまいでした。

 【遠足シリーズ第52弾】堺の職人と故郷の風景~柳が語る銀座と堺の関係とは~

堺市役所を背景に風になびく柳


一方、徳川家康が駿府にあった銀貨鋳造所を新両替町(現・銀座2丁目)に移転した当時、そこで銀貨を鋳造したのはどのような人たちだったのでしょうか?
中央区観光検定の公式ガイドブックに記載があることから銀座役所の移転元・移転先は知っていたのですが、実際にそこで作業をした人たちの出身地や技術レベルまでは恥ずかしながら把握していませんでした。

そこで詳しく調べてみたところ、日本銀行金融研究所が1999年9月に発行した『金融研究』に掲載されている大貫摩里氏の論文「江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として」に以下の記述がありました。

慶長6(1601)年の銀座設立は、幕府が徳川氏の縁者、豪商など10人を頭役に任命し、銀座人とし、堺の銀吹師湯浅作兵衛(大黒常是)を銀吹人として特命したのに始まる。


堺市で見つけた案内板にある通り、実際に堺よりプロがやってきて銀貨鋳造をしていたようです!

大黒常是という名は目にすることがあっても、どこからいらした方かまでは記されていない文献も多く、勝手に直前の移転元駿府から家康が連れてきた方とばかり勘違いしていました...
推測し思い込まず、気になったことは調べてみないといけませんね!

少し頭をひねりましたが、今回もまた中央区を区外から見てみることで面白い発見がありました。
今後も様々な角度から中央区と日本各地の繋がりを見つけ、本シリーズでご紹介していきたいと思います♪

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