[巻渕彰/写楽さい]
2009年8月13日 09:30
日本橋兜町に「中央区立阪本小学校」(写真上)がある。明治6年(1873)創立の第1大学区第1中学区第1番学校なので、通称「一、一、一学校」として歴史は古く、また谷崎潤一郎出身校でも知られている。そのとなりは明治22年(1889)開園の「区立坂本町公園」(写真中)である。お気づきのように、ここに「阪本」と「坂本」、2種の表記がある。
「坂本町」の名は近江国比叡山延暦寺の守護神、日吉大社の門前町である「坂本」に倣って、という。江戸末期の絵図では山王御旅所(日枝神社)門前の西側に所在し、俗称植木店(たな)とも呼ばれた。町名の名残は茅場町薬師、現在の智泉院境内に天保12年(1841)奉納の天水鉢(区民文化財=写真下)があり、「坂本町」と記されている。
「坂本町公園」は江戸期からの歴史的地名を踏襲しているが、それでは「阪本」とは、どうしてなのだろうか。
ご承知のとおり、同じような例がある。江戸期は「大坂」であったものが、今は「大阪」。伊勢国「松坂」は、三重県「松阪」(地名の正しい読みは「まつさか」で、濁らない)と表記する。
こんな俗説がある。
1. 「坂」は傾き、転げ落ちるので不吉だから、よって「阪」に変えたとか。
2. 「坂」には「土に返る」ということで「消滅」につながり縁起が悪いので、「丘・大きい・多い・豊か・盛ん」の意味を表す「阜(フ)」をもとにした「こざとへん」の「阪」が当てられたとか。
3. 「坂」は「士が反く(武士が叛く)」から、「阪」にした。
――など。
「坂=縁起が悪い」が共通項のようであるが、作り話か否か、真偽のほどは分からない。詳しくご存知の方は教えていただきたい。明治期以降「阪」が使われていったようだ。いずれにしろ、この地は「坂」と「阪」が対比できる場所である。
ちなみに「坂」は常用漢字で、小学3年生で習う学習漢字である。しかし、「阪」は常用漢字にはなく、「坂」の異体字とされるが、現在見直し中の常用漢字追加候補には入っているので、「阪本」も「大阪」もようやく大手を振れそうだ。
[銀造]
2009年8月13日 09:00
明石町の納涼大会が始まりました。 今日、8月11日から13日までです。
周りを聖路加の ご加護を受けて、
12使徒の温かい眼で、見守られて
静かに、明石町の納涼大会の盆踊りは始まりました。
来賓の方の、「文明開化は、明石町から始まった」というお言葉で、、「ここが、外国人居留地であった」ことを、次回お話せねばと思った、特派員でした。
この子らに、永遠のご加護を! +
[まぴ★]
2009年8月13日 09:00
銀座4丁目、晴海通りの和光の並びにあるグッチビルにあるカフェです。
とっても暑い日だったので、エアコンがすごく効いててお店の中は別世界でした。
店内も広くて、隣の席との間が広いのが贅沢な気分にさせてくれます。
テーブルやコースターなどもデザインが統一されシックでいい雰囲気でした。
この日はアイスティーと焼き菓子のプレートにしたのですが、
焼き菓子は、ほんとに焼きたてで温かく美味しかった!
それとこのアイスティーのグラス、
底が円なのですが、上が楕円形というデザインで
アイスティーが美味しく見えるし欲しいなと思いました。
やっぱり器って大事です(*^^*)
グッチカフェの店内だけ、ゆっくり時間が流れているような気がしました。
値段も妥当で、くつろぎたいティータイムにオススメです。
ちなみにこの1Fのエレベーター前にあるパネル(写真右)
人が近づくとパネルの内容が各フロアの案内に変わります!
写真左のグッチチョコレートはテイクアウト出来ます
[ドームくん]
2009年8月13日 09:00
江戸時代、永代橋架橋後の歴史で1大エポックはなんといっても、文化4年(1807)8月19日、深川八幡宮祭礼での永代橋落橋事件だろう。1,500人以上の犠牲者が出たそうでだ。
その後、深川寺町*海福寺(明治43年に目黒へ移転)などに供養塔、慰霊碑が建てられた。ここ中央区湊2-16-16にも永代橋落橋の犠牲者の供養の為、汐見地蔵尊がひっそりと建てられている。但し、こちらは歯痛治癒にも霊験あらたかだそうだ。
脇の小公園を抜けて隅田川テラスにでてみると、隅田川の向こうは佃*石川島灯台。視線を上流に向けると中央大橋の背後は永代橋に深川だ。
そういえば、今月13日から深川富岡八幡宮の例祭だ。16日には神幸祭(二ノ宮神輿渡御)、1屯半の大神輿が中央区新川までやってくるぞ。
No 09015 ドームくん
[Happy Talk]
2009年8月12日 09:30
The Best 7 Shots from Kachidoki!
Yeah! What A Wonderful Evening!