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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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笑座こんぱる Show The Konparu

[銀造] 2012年3月15日 08:30

 銀座8丁目の金春通り、金春湯のお隣にあります。

笑座こんぱる と書いて、SHOW THE KONPARU と発音します。その店名の通り、笑いあり、楽しいミュージカルショーあり、懐かしいメロディを歌って楽しませてくれました。

ショーの前には、出演者が名刺を持って挨拶に来てくれました。リピーターも多いようです。

食事もそれなりに美味しく、

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飲み放題でしたが、店員さんが良く気を配ってくれて、テーブルにはいつも飲み物があり

 

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大変楽しい夜の一時を過ごすことが出来ました。銀造のお気に入りになりました。

お店のHPは、こちら。 http://www.konparuza.co.jp/

 

 

元禄14年(1701)3月14日 浅野内匠頭長矩 切腹

[滅紫] 2012年3月14日 08:30

風さそふ

  花よりもなほ我はまた

     春の名残をいかにとやせん


数多の武将や政治家の辞世の中でも良く知られたこの一首を詠んで浅野内匠頭長矩がこの世を去ったのは元禄14年(1701)3月14日(旧暦)のことでした。享年35歳。「赤穂事件」については余りに有名なので説明の要もありませんが、お預けとなった田村右京太夫邸に浅野家用人の片岡源五右衛門が主従の暇乞いに訪れ、目付の多門伝八郎が許可、この時詠んだものと云われています。歌舞伎(元禄忠臣蔵)でも名場面のひとつです。(真偽は定かでないという説もあるようですが。・・)

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内匠頭は即日切腹、御家断絶の沙汰となったため江戸藩邸と赤穂城は収公されることとなりました。

赤穂藩鉄砲洲上屋敷は現在の聖路加国際病院、看護大学辺り一帯を占めていました。聖路加国際病院の敷地内に「浅野内匠頭邸跡」を示す石碑と説明板が設置されています。


8900坪あったといわれている上屋敷から15日のうちに家臣はほとんど町中の借家に引き払ったそうです。

以下は古地図に見る浅野家上屋敷の移り変わりです。

「浅野又市」とあるのは内匠頭の幼名で9歳で家督を相続しています。

赤穂事件以降上屋敷敷地が細分されているのがわかります。最後は明治期に入っての築地居留地の沽券図です。

 

 


因みに大石内蔵助の辞世

「あら楽や思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」


浅野内匠頭邸跡:明石町10-11地域一帯

 

 

 

一面のクロッカスとスカイツリー・石川島公園パリ広場

[坂の上のねこ] 2012年3月14日 08:30

春分の日を前に、やわらかな日差しを感じるようになりました。いち早く春を告げる花のひとつ、クロッカス。今、石川島公園のパリ広場にはそのクロッカスが一面に広がっています。可憐な花が咲きそろっている風景は写真よりも目で見るのが一番ですから皆さんもどうぞ実物をご覧にいらして下さいね。

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足元には数え切れないほどの黄色・白・紫のクロッカス、空に目を向けるとスカイツリーがくっきり。贅沢なお散歩となりました。

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現在、パリ広場には川俣正さんの「東京インプログレス・隅田川からの眺め」が建設中。

3月20日にオープンとのことで何ができるのか楽しみです。

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 3.11 銀座和光の時計塔の鐘が 11回鳴らされました

[滅紫] 2012年3月11日 17:23

あの未曾有の大震災からちょうど1年が経つ。ここ数日のマスコミ報道で被災地の映像を目にすると復興どころか復旧にもまだ遠いと感じさせられる瓦礫の山、山。都知事が率先して瓦礫処理の受け入れを決めた英断にあらためて拍手を送りたいと思った都民は少なくないだろう。各地で追悼の行事が行われているが、3月8日付けの朝日新聞で「和光で追悼の鐘11回」という囲み記事を見て14時頃和光前に。

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ショウウインドウの説明にある「被災地に向けた市民からのメッセージや東北6県の県鳥の絵の入ったポストカード千枚はご自由にお持ちください」というポストカードは既になし。

14時46分が近づくに連れ4丁目交差点は 人、ヒト、ひと!歩行者天国になっていない通りも完全に人が溢れている。14時46分になるとぴったり鐘が響き始め全員黙祷!

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和光の時計塔は普段は営業時間内に限って時刻が59分から00分に変わるたびに鳴らしている。定時以外に鳴らしたのは今回初めてとのこと。

時計塔のある和光は銀座のランドマークだが、「中央区ものしり百科」によれば、初代の時計塔が建設されたのは明治27年(1894)。2代目の時計塔付きビルが完成したのは昭和7年(1932)。戦後は進駐軍のPXとして接収され、解除された昭和27年に商業施設及び社屋として再スタートを切った。当初時計塔の大時計はドイツ製だったが昭和41年にセイコークオーツに変更された。とのこと。

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銀座松屋でも1F入り口前でチャリテイコンサートが行われ多くの人が集まっていた。

早い復旧と復興を願わずにはいられません。


 

 

金子半之助店 ~天丼の店~

[織衣舞] 2012年3月10日 08:30

007.JPGTVでも何回か放映された 金子半之助店 に行きました。11時AM開店でしたが10時20分に到着しました。7番目でした。小ぬか雨なのでお客は少ないかも? 10:40には24人 10:50には42人が並びました。ちょっと冷えるかな?と思われる気温でした。店側は 電気ストーブ2台 ポットのお茶を用意してくれています。11時オープン。1Fカウンター6席 2F14席 のこじんまりしたきれいなお店です。

メニューは 天丼 880円のみ。ごはんの量は 少な目(200g)ふつう(300g) 大盛り(100円追加)から選びます。味噌汁は100円。箸休めは ごぼうがり と 大根 の2種類 無料。お茶は黒豆茶。卵のてんぷらはどんなふうにあげているのかみてみたいよ~。天丼はさすが、ご立派です。おいしかったです。どんぶりも冷めにくいように工夫されています。食べ終わってみてみると、11:40で70人並んでました。時間のある人でてんぷら好きの人は必見ですぞ!!

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中央区鉄道ものがたり <その7> 「レールの記憶」

[下町トム] 2012年3月 9日 08:30

今回も中央区の鉄道関連のお話です。


一時「廃線ブーム」というのがありました。廃止されてしまった鉄道の軌跡を訪ねて歩くというものです。もちろん今でも人気があります。このところ、また廃止される鉄道が増えてきて、かつての姿を懐かしむ人々の郷愁を誘っています。
中央区にもそんな想い出の場所があります。


銀座の踏切.jpg一つは以前にもご紹介したことのある〝銀座の踏切〟です。

正確には〔浜離宮前踏切跡〕としてぽっかりと時代の記憶を留めています。今は〔汐留シオサイト〕になっているところに、かつて国鉄汐留駅があり、そこから築地市場にレールが伸びていました。貨物の形態がトラック輸送に移るにつれて列車の需要が減り、とうとう1987(昭和62)年に廃止されました。

ぼくは廃止寸前の汐留駅とこの築地に伸びる線路のことをかろうじて憶えています。今思えば、物流や情報の世界が大きく変わる時代の節目だったんだなぁ、と思います。sandclock 


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鉄道輸送が築地市場の物流を支えていた時代は遠くなりましたが、その名残りは市場の独特の施設の構造に見られます。円弧を描くような建屋は貨物のレールに合わせて造られたものです。この姿もさていつまで見られることでしょう。


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もう一つの〝記憶〟は晴海の貨物線です。

かつて、「東京都港湾局専用線」があって、越中島を起点とした線路は、深川線として豊洲に至り、晴海線として分岐していました。この線路は春海橋と並行して晴海運河を渡り、晴海埠頭の倉庫群まで伸びていました。当時の鉄橋(晴海橋梁)は錆付いたままウォーターフロントの風景の一部に溶け込んでいます。yacht


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何年か前まではまだ線路も一部残っていましたが、豊洲や晴海の再開発が進むにつれどんどん姿を消しました。かつてレールが並んでいたあたりは造成のための草地になっています。当時の姿をとどめた案内板がなぜか残っていて、かえって哀愁を誘います。


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かつてぼくはこの辺りに住んだことがあって、この貨物線の脇を歩くのが好きでした。春には沿道の桜によくマッチする風景だったことを思い出します。1989(平成元)年に廃止されたときは一抹の寂しさを禁じえませんでした。今や遠い記憶になりました。cloud


201202 晴海レール跡.jpg久しぶりに晴海埠頭の倉庫街を歩いてみたら、レールの痕跡を見つけました。かつてこの一帯にはセメントや小麦粉を運ぶ貨車が並んでいたんだなぁと思いをめぐらせるばかりです。


こんな東京の真ん中にも〝廃線〟の郷愁があります。時代の移り変わり、都市の変貌を反射させてきた銀色の鉄路は、今は鈍い錆色の中にじっと想い出を噛み締めているようです。


レールは消えても〝記憶〟は残ります。繁栄の歴史とともに、そこで働いた人たちや関わった人たちの思い出として、永く、懐かしく・・・。confident
 

 

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