[下町トム]
2012年12月12日 13:00
区内の寺社を吟行気分で巡る一風変わった散策シリーズの第7回です。
今回は『築地本願寺』です。江戸開府まもなくの元和3(1617)年に当初は浅草・横山町に京都・西本願寺の江戸の別院として建立され、「江戸・浅草御坊」として親しまれました。しかし、かの有名な明暦3(1657)年の〝振袖火事〟で消失してしまったのです。区画整理のため幕府が代替地として指定したのが現在の築地でした。
佃島の住民が浅瀬を埋め立てて土地を造成しました。〝築地〟という地名もここから生まれました。かくして新たな寺院が完成し『築地御坊』と呼ばれて長く江戸市民の崇敬の地となったのです。以来、佃島とは縁が続き、慣例として本堂の賽銭箱は佃の有志が寄贈しています。
錦絵にも残る伝統的な寺院建築を誇った『築地御坊』でしたが、大正12(1923)年に関東大震災に見舞われ、またも消失しました。そこで名建築家・伊藤忠太博士の設計により仏陀の故郷である「インド様式」の石造りという、日本の仏教寺院としては珍しい建物が昭和9(1934)年に落成しました。平成23(2011)年には、本堂ならびに石積塀が国の登録有形文化財に指定されました。東京を代表する屈指の名刹のひとつです。
宗派としては、浄土真宗本願寺派・築地別院というのがこれまで正式名称でしたが、今年、正式に同派の直轄寺院として位置づけられ『築地本願寺』が正式名称になりました。もともと昨年は、開祖・親鸞聖人の750回忌にあたったこともあり、今年にかけて本堂修復などの記念行事が続いています。今年11月には〝キズキナサイ2012〟という記念イベントも催され、全国の〝ゆるキャラ〟が集まって銀座をパレードするという賑やかな一幕もありました。
本堂は修復され、金箔も鮮やかに張りなおされ、一層神々しくなりました。法要の際には多くの善男善女が集まり、おごそかな雰囲気が広がります。本堂後ろには、仏教寺院としてはこれも珍しくパイプオルガンが設置されており、毎月最終金曜日(12月は21日)のお昼、12:20~12:50に入場無料の「ランチタイムコンサート」が開かれていますので、お近くにお越しの節は是非訪ねてみて下さい。
今月この寺院をとりあげたのは、実はほかにも理由があります。それは『忠臣蔵』です。ご存知のとおり、今から310年前の元禄15年12月14日(新暦では1703年1月30日)に、赤穂浅野家の遺臣が仇敵・吉良上野介を討ち取ったというあまりにも有名な事件がもとになり、芝居や講談、浮世絵などでもてはやされました。
史実では、本所松坂町での討ち入りの後、赤穂浪士たちは両国橋を渡ることを許されず永代橋を渡り、現在の明石町にあった旧浅野家江戸屋敷の前で敬礼をしてから、築地御坊の門前(当時は現在の晴海通り側が正面でした)を通って、汐留から泉岳寺方面に向かったと言われています。
浪士のひとり、槍の名手・間新六は築地御坊の前を通りかかったときに、愛用の槍に書状と金子を結びつけて供養を願ったといわれています。そのゆかりの槍はいまでも同寺院で大切に保管されています。
間新六は同寺院とゆかりが深かったらしく、後に遺骸が引き取られて埋葬されました。もちろん泉岳寺にも墓碑がありますが、他の浪士と別に同寺院に埋葬されたというのは生前から信仰が篤かったのでしょう。現在ももちろん、築地本願寺の境内に間新六の墓碑があり、脇に説明版が設置されています。
赤穂浪士たちが本懐を遂げたときの道中の心持ちとはどのようなものだったのでしょうか。今の時代となっては〝仇討ち〟が必ずしも賞賛されないとしても、当時の道徳意識としてはまさしく「晴れ晴れとした」気持ちだったのではないかと推察します。
その当時も朝の築地の町に本願寺の鉦の音が響いていたのかと思うと、300年以上の月日を隔てて、何か心情が深まります。
今年も『忠臣蔵』の季節が来て、一年が終わろうとしています。平和な時代が続くように祈るばかりです。
・・・空冴えて覚悟の朝に弥陀の鉦
続きを読む: 区内寺社巡礼~第7番『築地本願寺』
[ジミニー☆クリケット]
2012年12月12日 08:30
江戸時代の初め、佃島の漁師が守護神として建てた住吉神社の鳥居には、珍しい陶製の額がかかっています
白地に藍色で、「明治十五壬午歳六月三十日 住吉神社 一品幟仁親王」とあり、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)が書かれたものです。
「一品」とは、皇族の位を表すものです。
[銀造]
2012年12月11日 14:00
銀座ギャラリーズ クリスマスアートフェスタ2012 が開催中です。今日は銀座柳画廊と秋華洞さんを訪問しました。 銀座柳画廊では、Gille Sachsick Exhibition の静物画の他に大好きなDarius の作品などを拝見しました。副社長の野呂洋子さんが説明してくれました。右が大好きなダリウスの作品
秋華洞さんでは、古今東西五本勝負!と銘打って、静物画、浮世絵、風景画、美人画が展示されています。
眼を見張ったのは版画絵の値段!クリスマスプレゼントにと並べられた中に興味ある、銀座が煉瓦街であった頃の桜並木の版画絵を見つけ、購入しました。
クリスマスアートフェスタ2012 は12月 15日迄です。お見逃しなく!詳細はこちらをご覧下さい。
http://www.ginza-galleries.com/xmasartfes.html
[巻渕彰/写楽さい]
2012年12月11日 08:30
師走に入り、暦の上では「大雪」、七十二候の12月7日~11日頃は「閉塞成冬」(そらさむくふゆとなる)。今冬は寒さが厳しいようだ。秋はあっという間にとおり過ぎた感があるが、ようやく!? 紅葉がはじまった場所がある。
日本橋郵便局東側の日本橋一丁目から八重洲通りに突き当たる日本橋三丁目まで南北約1kmにわたる昭和通りと首都高速道に挟まれた、「江戸・もみじ通り」である。
ここに「イロハモミジ」が街路樹として植えられている。葉が「いろはにほへと」と7裂ほどの掌状になることからの由来で、「いろは楓」「高尾楓」とも呼ばれるそうだ。
東側の首都高速道は東京オリンピックにあわせ開通したが、それ以前は楓川(もみじがわ)と呼ばれた堀割であった。
江戸初期の絵図をみると、現在の八重洲通りには堀割があり、これが「紅葉川」といわれたという。それに並行して数本の舟入堀が掘られ、楓川に接していた。
現「江戸・もみじ通り」辺りに相当する楓川西側の河岸は本材木町として木材物資集積の一大拠点であった。これが現在の「木場」の原点である。その後は、現在の千代田橋と新場橋の間に「新魚場」と呼ばれた日本橋魚市場と肩を並べる魚市場が設けられた。これが「新場」であった。
江戸初期からの歴史をもとに、この道路を「江戸・もみじ通り」と名付けられたのだろうか。紅葉川とか楓川の命名は、江戸城内の紅葉山に因むものともいわれている。紅葉川の名称は、現在の中央警察署の地に、かつて都立紅葉川高校があったことなど地元には親しまれた呼び名であった。●巻渕彰
[滅紫]
2012年12月10日 08:34
坂東玉三郎さんが久しぶりに「日本橋」に出演するという話題の舞台。「高野聖」「海神別荘」「天守物語」等、鏡花ものには定評のある玉三郎さん演じる久々の「お孝」。大正の初めの日本橋が舞台でもう1人の芸者清葉は高橋恵子さんが演じます。「春の朧の一石橋」のたもとにあでやかな芸者姿の玉三郎さんが登場するとあまりの美しさに場内は一瞬シーン、大拍手です。今回大抜擢と評判のお千世役の斉藤菜月さんも初々しくていい感じです。
大正4年本郷座での初演に際し、この役を切望した当時はまだ駆け出しだった花柳章太郎が祈願に訪れたという「西河岸地蔵寺教会」を回ってみました。お芝居の中でも「縁結びの西河岸地蔵尊」というせりふが度々出てきます。地元の方にとても親しまれてきたお地蔵様なのですね。石段の隣の説明板によると「享保3年(1718)年、西河岸町の中ほどに堂宇を建立し天台宗の僧天海の持物と伝わる地蔵菩薩を安置したのが始まり」とのこと。地蔵菩薩は日を限って至心に祈願すると霊験あらたかであることから「日限地蔵」と称され寿命を延ばし福利を授ける延命の祈願寺として信仰を集めてきたそうです。
こちらにある「お千世の図額」はこの花柳章太郎がめでたくお千世の役に起用され、2回目のお千世役となった明治座での上演に際し、小村雪岱に描かせ奉納したものとのことです。
お芝居を見てその舞台となった場所を訪れるのは楽しみが倍加します。勿論当時そのままの景色はありませんが、「雛祭りのあとのさざえと蛤を川に放ったのはこのあたりか?」「お孝の家は?」とか想像しながら歩いてみるのはなかなか楽しいものです。仕上げは「願い事のかなう」「縁結び」の地蔵尊にお参りしましょう。
勘三郎さんの訃報の翌日だったので幕間では早すぎたご逝去を悼む声があちこちから聞こえてきました。南座顔見世では勘九郎さんの襲名口上で泣いてしまいそうで今から不安になっています。ご冥福をお祈りします。
西河岸地蔵寺教会」八重洲1-2-5
[杏葉牡丹]
2012年12月 9日 09:00
銀座7丁目と8丁目の間の「花椿通り」と昭和通りが交差する場所に、「X」の形に架かっている横断歩道橋。
屋外には珍しく、上下のエスカレーターがあって楽ができるので、しょっちゅう利用しています。
ところが先日、中央通り側にあるプレートを見てビックリ。
なんとこの歩道橋には「銀座ときめき橋」という、ロマンチックな名前が付いていたのです。
名前の下には、その由来が記された碑があり、まず冒頭には、国文学者の金田一春彦の「『ときめき』には、一つに心を打つような感情、もう一つに時勢に乗って栄えるという意味があります」という文章が刻まれています。
その後を一部抜粋しますと
「平成5年銀座7・8丁目の道路の改修が行われて『花椿通り』が誕生。
記念曲『ときめいて銀座』がレコード化され、愛唱されました。
平成9年、昭和通り銀座歩道橋として竣工したこの橋を、江戸・明治期に新橋と花柳界をつなぐ男女の逢瀬の場として賑わったゆかりの地にちなんで、愛称『銀座ときめき橋』として、ここに記念の碑を建立します。」
とのことです。
昼間この歩道橋を通行しているのは、周囲のオフィスで働く人か、ビジネスで訪れた人達ばかりですが、夜ともなれば昼とは違う顔を見せてくれる「銀座」のこと、きっと心をときめかせて、この歩道橋を渡る人達も、数多くいることでしょう。