先日静岡県伊東市に用事があり一泊したので、翌日伊東駅から徒歩5分程度の距離にある木下杢太郎館を何らの知識もなしに訪問した。入館してみて中央区とのかかわりが非常に強いことに吃驚したので報告させて頂きます。
〔記念館所在地〕414-0002 伊東市湯川二丁目11番5号
私が訪問した日がたまたま入館無料だったようです。
太田家の家計図です
<理由>
* 杢太郎自身は菊池寛などと共に作ったパンの会のメンバーとして中央区日本橋小網町にあった「メゾン鴻ノ巣」(日本最初のカフェーと言われる説あり)及びその後開かれた「カエー プランタン」などの銀座のカフェーを足しげく訪れていた。
* 医者・文士であるにも拘わらず東京駅前に明治時代に架かっていた八重洲橋を設計した。その上、4歳年上の兄「太田圓三」は関東大震災後に帝都復興院土木局長に就任し、後藤新平の下で
* 昭和通り・靖国通り等の復興道路の建設計画を立案
* 永代橋・清洲橋などの橋梁の架橋計画・施工を担当
など近代都市・東京をデザインし、その基礎を築いた。
兄弟はこのように中央区と強い縁を持つことを知ったので、これから3ケ月に亘って背景を調査しブログとして連載する予定です。
1回目(12月): 木下杢太郎と八重洲橋
2回目(1月): 太田圓三の生涯
3回目(2月): 木下杢太郎とカフェー
中央区とは直接の関わりはありませんが、三女「たけ」と樋口一葉が一緒に移った写真が記念館に飾られているので紹介します。一葉の髪をさげた珍しい姿です。太田たけが大柄なのか、樋口一葉が非常に小柄ですね。
1) (第一回)木下杢太郎と八重洲橋
1)-1 木下杢太郎のプロフィール
1885年(明治18年)静岡県賀茂郡(現在の伊東市湯川)に、右上の写真のように父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。父は米惣という雑貨問屋を営んでいた。兄は太田圓三、甥には動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)がいます。家業は「米惣」という雑貨問屋であった。
当時の米惣の「暖簾」です
1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学へ進むと翌年(1907年)には与謝野鉄幹の新詩社の機関誌「明星」の同人となりました。これから中央区との強いかかわりが始まるのですが、1908年(明治41年)には北原白秋・吉井勇らと『パンの会』を立ち上げます。定期的に集まる場所を探していた当会にとって、メゾン鴻ノ巣の開店はグッドタイミングでした。「メゾン鴻ノ巣」があった日本橋小網町の日本橋川にパリのセーヌ川の雰囲気を見出したからです。3年半に亘って、頻繁にこの集いは開催され、鉄幹、永井荷風、小山内薫、高村幸太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岡本一平らも顔を出しました。
杢太郎は、1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学を卒業し、森鴎外の勧めで皮膚科の土肥慶蔵教授の下でライ病の研究を志しました。留学の後、1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となりました。皮膚科・伝染病の研究を継続しライ病の世界的な権威と言われるようになりました。
また、絵画にも目覚め872枚の植物写生画も残しています。その一部は木下杢太郎記念館に展示されています。
1945年(昭和20年)胃幽門の癌のため亡くなりました。
1)-2 八重洲橋
「八重洲橋」は明治初頭から戦後までの約60年間に、以下のように架橋・撤去を繰り返した珍しい橋です。
① 明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋
② 大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。
③ 大正14年に東京駅入口として再び架橋。
④ 昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。
写真上部は丸の内側から見た東京駅と「八重洲地域」です。右には八重洲橋が外堀に架かっていますし、左端には呉服橋、丸の内側には関東大震災で被災する以前の堂々とした東京駅が存在しています。
明治中期の以下の地図には八重洲橋が架かっていますし、現丸の内にも「八重洲」・「永楽」という旧町名が見られます。
八重洲橋全景
野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では、外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していました。
「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・
悲しき運命をたどった八重洲橋
八重洲橋が木下杢太郎により設計されたことを知る人が少ないのは非常に残念です。木下杢太郎が「八重洲橋」を設計できたのは、永代橋を設計した建築家 兄「太田圓三」の存在が大きかったと思います。