2017年11月のブログで『木下杢太郎記念館(伊東市)を訪問したこと、木下杢太郎の人となり』を紹介した。
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今回は"永代橋"の架橋を担当したことで有名な木下杢太郎の4歳年上の実兄、「太田圓三」を紹介する。
学生時代には東京で同居もしていた仲の良い兄弟であった。
太田家の次男「圓三」は、東京帝国大学土木工学科を卒業後、逓信省鉄道作業局に入局し、橋梁設計を振り出しに、房総線工事や上越清水トンネル工事などを担当した。工事の機械化や路線の図上選定法の導入など、幅広く鉄道技術の向上に貢献し、「鉄道始まって以来の天才技術者」と呼ばれた。
大正12年(1923年)、関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京を復興するため帝都復興院が設置されると、土木局長に任命され当初は未経験の分野のため辞退したが、親友十河信二(戦後、東海道新幹線建設起工時の国鉄総裁)の強い勧めにより就任した。交通網や衛生設備、安全性、景観などを備えた「文明的都市・東京」を目指した。
*車社会の到来を目越した道路などの拡張
*土地区画整理
*永代橋・清洲橋など震災で焼け落ちたものや新設など約150もの橋梁について、
弟・杢太郎や芥川龍之介・木村荘八などの芸術家の意見を聞き景観に配慮した架橋を
行った。
以下の図は、永代橋・清洲橋などの橋デザインを示している。全て奇抜なデザインのため採用されなかった。
*高速鉄道(地下鉄9の必要性を説き、鉄道網の具体化に尽力した。
(下図の鉄道網図は小さくて駅名が見えないかもしれませんが、都電・省線(JR山手線・中央線など)と共にメトロ銀座線・丸の内線など高速鉄道(地下鉄)など将来を見据えた鉄道網を示す。東西線・日比谷線らしきものも描かれている。)
圓三は現代まで続く近代都市・東京をデザインし、その礎を築いたのである。
帝都復興に心血を注いだ圓三であったが、大正15年(1926年)3月21日、志半ばにして自殺した。区画整理に対する無理解・復興局疑獄事件(土地買収にからんだ汚職事件)の発覚などによる心労が積み重なり、突発的な事件であったと言われる。
45歳の若さでこの世を去った。
昭和6年(1931年)隅田川相生橋畔中之島公園に肖像レリーフが設置された。しかし震災で破壊されたため昭和30年(1955年)現在の神田橋公園に移築された。
「(圓三が)万難を排して立案計画せられたる復興事業は、どこを切っても故人の血が流れ魂が生き続けてゆくだろう」(元鉄道大臣 井上匡三郎)
兄圓三の死を悼む杢太郎の詩が雑誌「明星」第8巻4号(大正15年(1926年)6月)に掲載されている。
タイトル「永代橋工事」
過ぎし日の永代の木橋はまだ少年であったわたくしにどれほどの感激を与えたらう。
人生は悲しい、またなつかしい、面白いと、親、兄弟には隠した 酒あとのすずろ心で、伝奇的な江戸の幻想に足許危く眺めもし、佇みもした。
それを、ああ、あの大地震、いたましい諦念、帰らぬ愚痴。
それから前頭の白髪を気にしながら 橋に近い旗亭の窓から あの轟轟たる新橋建設の工事を うち眺め、考えた。
これも仕方がない、時勢は移る。
基礎はなるべく近世的科学的にして、建築様式には出来るだけ古典的な 荘重の趣味を取り入れて貰いたい。
などと空想して得心した。
それだのに同じ工事を見ながら 今は希望もなく、感激もなく、うはの空にあの轟轟たる響を聴き、ゆくりなくもさんさん涙ながれる。
あんなに好きであった東京、そして漫漫たる墨田のながれ。
人生は悲しい、ここは三界の火宅だと
-ああ恐ろしい遺傳-多分江戸の時代に この橋の上で誰かが考えたに相違ない、それと同じ心持が今の私に湧く。
水はとこしへに動き、橋もまた百年の齢を重ねるだろう。
私の今の心持は ただ水の面にうつる雲の影だ。
行く水におくれて佇む木屑かな (大正15年5月)
いつの時代にも「基礎はなるべく近世的科学的にして、建築様式には出来るだけ古典的な 荘重の趣味を取り入れて貰いたい。」という意見が出るのは普遍的なものですね。同感です。