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2015年10月31日 20:00
[6]「ハープのミニコンサート」が開かれる「銀座十字屋ハープ&フルートサロンhanare」は、銀座4-4-5 の映画館シネスイッチがある建物の5階です。入口が少し分かりづらいのですが、映画館の左横を少し入ると、エレベーター乗り口があります。
「7」「アフタヌーン・ギャラリーズ」が開かれる画廊です。
「銀座柳画廊」 銀座5-1-7 数寄屋橋ビル3階です。 泰明小学校のすぐ裏です。
泰明小学校は、「インフォメーション&抽選会場」となるほか、「5」「銀座将棋まつり」の会場にもなっています。
「靖山画廊」(銀座5-14-16、銀座アビタシオン1階)です。歌舞伎座正面の晴海通りを渡った向こう側通路を少し入った所です。
「ギャラリー林」(銀座7-7-16)は、花椿通り、椿屋珈琲店の正面に向かって左の通りを少し入った所にあります。
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2015年10月31日 18:00
入船橋交差点から、さらに「新大橋通り」を進みます。 地下鉄築地駅出入口が見えてきました。
さらに「新大橋通り」を進むと、右側に「日本すし学院」もあります。
さらに進むと、特徴のある「築地本願寺」の塔が見えてきます。
ここで左折するのですが、この交差点の近くには、京橋築地小学校があります。京橋小学校と築地小学校の統合は平成4(1992)年でした。ものしり百科85頁の「中央区の人口変遷」によると、人口が最低となったのは平成9(1997)年4月で、71,806人だったのですが、平成18(2006)年4月には、31年ぶりに10万人を回復し、平成26(2014)年1月には、51年ぶりに14万人台に回復しているようです。学齢人口が増えてくれば、また、小学校を再分割することになるのか???
この、京橋築地小学校近くの交差点を左折して、突き当りをさらに左折して進むと、聖路加タワーが目の前に現れますが、右側には「あかつき公園」の入り口が見えます。 この「あかつき公園」のなかにはシーボルトの胸像があります(ものしり百科;72頁)。
近くの明石町河岸公園から、明石町防災船着場を手前に、月島・勝鬨方面を臨みます。
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2015年10月31日 14:00
今日(2015年10月27日)は、茅場橋から出発。(以下、写真は全て2015年10月27日撮影)
茅場橋から少し行くと、永代通りとの交差点。右に「COREDO日本橋」も見えます。
新大橋通りをさらに進むと、左側歩行路に「地図御用所跡」の説明版掲示もあります(日本橋茅場町2丁目12番付近)。
「地図御用所」は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745-1818)の住居に設けられていました。
伊能忠敬は、寛政12年(1800)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万kmにも及んだといいます。
文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った忠敬は、八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作成するための地図御用所として利用されていました。
忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役らの手により「大日本沿海與地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成しました。
さらに進むと、八重洲通りとの交差点へ。
此の交差点の左先には亀島橋があり、その際には「堀部安兵衛武庸之碑」もあります(ものしり百科;55頁)。亀島橋の下にはまだ亀島川が残っており、数少なくなった現役の橋で、平成14(2002)年に架け替えられたものです(ものしり百科;56頁)。リバーシティ21の高層マンション群も遠望できます。
さらに「新大橋通り」を進むと、左側に「桜川公園」入口が見えます。江戸時代に八丁堀と呼ばれていた堀割が、明治になって桜川と改称されました。それが昭和の中頃に埋め立てられた跡の一部を使ってつくられたのが桜川公園です。
入船橋から、中央区役所、銀座ブロッサム等を臨むと、この下が川であったことは明白です。
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2015年10月31日 12:00
日本橋中学校を過ぎてすぐ近くの右側に薬研堀不動院(ものしり百科;97頁)への通りがあります。(以下の写真はいずれも2015年10月26日撮影)
次に、清澄通りに入ります。
清澄通りを進むと、左側に明治座が見えます。
明治座の右隣りには、浜町公園への入り口が見えます。
その少し先に、水天宮の仮宮が見えます。
さらに少し進むと、新大橋通りとの交差点に至ります。この近辺にも高層マンションが増えてきました。
新大橋通りを進むと、右側に浜町緑道が見えます。勧進帳の弁慶像や「人形町浜町散歩」の表示板なども設置されています。
この浜町緑道は、浜町川の跡です。浜町川は、かつて現千代田区神田佐久間河岸の神田川から分れ、清洲橋の下流付近で隅田川と合流する水路でした。江戸時代に開削された人工的水路です。その後も、長い間開削が繰り返され人々の生活に大いに役立ってきたのですが、昭和に入り、戦後の残土処理の廃棄場所として埋め立てが始まりました。更に東京オリンピック、高度経済成長期の到来、都市開発などの流れで昭和40年代終盤までには残りの全てが埋め立てられました。現在、浜町川を埋めたその上にはビルや道路、民家、緑地などができ、浜町緑道はその一部です。
さらに進むと、再び人形町通りとの交差点に至り、建て替え工事中の水天宮が姿を現します。平成28年春完成予定です(ものしり百科;100頁)。
さらに進んで日本橋川に至り、茅場橋を渡ります。茅場橋は、日本橋川下流から数えて3番目の橋です。上空には都心環状線が走ります。橋の下流には湊橋、上流には鎧橋がかかっています。現在の橋は、旧橋の老朽化により1992年に架け替えられたものです(ものしり百科;25頁)。
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2015年10月31日 09:00
今日は、江戸橋からスタートします(以下の写真はいずれも2015年10月26日撮影)。
江戸橋を上野方面に渡って右折、人形町通りとの交差点です。
そのまま進むと、左側に久松警察署が見えます。
久松警察署の裏側には、久松小学校があります。
通りの右側に笠間稲荷神社東京別社(ものしり百科:101頁)が見えます。
清洲橋通りとの交差点です。
そのまま進むと、隅田川岸に至り、水上バス発着所が見えます。
道なりに左折して、浜町河岸通りを進むと、左側に元千代田尋常小学校の行幸記念碑が見えます。
両国橋、靖国通りの少し手前で左折し御幸通りを進むと、日本橋中学校の正面玄関が左側に見えます。
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2015年10月30日 18:00
数寄屋橋交差点を左折し、外堀通りに入ると、通り左側すぐに「日動画廊」が見えます。
外堀通りは、銀座5丁目でみゆき通りと、銀座6丁目で交詢社通りと交差しています。通り沿いはブティックやカフェ、宝石店、アトリエなどの店舗が続きます。さらに、銀座7丁目で花椿通りと交差しています。外堀通りの銀座5丁目から8丁目の地下には、西銀座駐車場があり、通り沿いには、駐車場の入口があります。
そのまま進み、銀座8丁目から先に、外堀通りと御門通りが交差する土橋交差点があります。外堀通り中央区最南端に位置する同交差点には、東京高速道路の土橋インターチェンジがあります。
当日のバスは東京高速道路をくぐり、外堀通りを左折し、昭和通りに入って行きますが
ここでは、高速道路手間で左折し、御門通りを進むます。左側に芝口門跡があります。
そして、三井ガーデンホテル銀座(写真)の先を左折して、昭和通りへ入ります。
(ここからバスルートに再び戻ります)
銀座7丁目当たりで花椿通りと交差しますが、その歩道橋はエスカレーター付きです。
屋上に塔が見えるのは、電源開発のビルです。
再び、三原橋交差点を通過して日本橋方向へ昭和通りを直進します。
昭和通り右側の、歌舞伎座ビル入り口です。
昭和通り沿いの銀座1丁目から4丁目。建ち並ぶのはオフィスビルですが、1階部分は銀座らしく、クリスタル品や靴、絵画ギャラリーなどのショーウィンドウが並びます。その一方で、一本脇道へ入れば、古い建物が顔をのぞかせる場所もあります。
都営地下鉄浅草線の宝町駅の出口が四方を囲む、鍛冶橋通りとの交差点。他の交差点同様に多くの車と人が往来しています。この周辺は、今では地名は京橋ですが、震災復興後の昭和6年に宝町として新たに名付けられたところです。都営地下鉄の駅名にその名を残しています。
京橋1丁目から3丁目を通り抜けると、昭和通りは八重洲通りと交差します。
昭和通りと永代通りが交差する江戸橋1丁目交差点。皇居方面の内堀通りへと向かう車や昭和通りに入ってくる車で昭和通りの中でも特に交通量が多いのが特徴。交差点付近からは、コレド日本橋の姿も先に見えます。
コレド日本橋。
江戸橋上から見た日本橋です。