10月10日(土)、10月11日(日)の2日間開かれている「築地場外市場秋まつり」をのぞいてきました。(10月10日)
これは、築地場外市場に参加する約300店舗が開催する試食・食育まつりです。(ものしり百科;78頁)
土曜日で、場外市場はかなりの人出でした。
波除神社
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五木寛之のアルバイト
昨夜は少し寝つきが悪く、何とはなしに書棚から、昔読んだ五木寛之のエッセイ集を取り出して少し読み返した。
その第一作とも言うべき『風に吹かれて』、その冒頭で、当時の学生アルバイト作業について書いている。その頃、池袋の近くに住んでいたというが、専門紙(業界紙)の配達をやっており、その配達区域が日本橋から月島、佃島を含んでいた。その頃の生活が、『ゴキブリの歌』の中の「18年前の日記から」で述べられている。
昭和28(1953)年1月8日「配達を終り1時から4時半まで日本橋図書館。」 1月9日「日本橋図書館へ行き、映画史を読む。」
日本橋図書館を利用していたようである。
現在の日本橋図書館(日本橋小学校)
そして、当時の日記の「解説」として、当時の配達エリアについて、次のように述べている。
「先ず日本橋の事務所を出て、日本橋の手前を真直ぐ電車通りをつっ切ると、西川の次の通りを右に回り、丁度日本橋の電車通りと昭和通りにはさまれた道路をどこまでも真直ぐに、京橋に入って右にテアトル銀座を眺める所で左に昭和通りを横切り、配達区域に入る。まず新富町。ここには松竹の本社がある。 次に湊町、聖路加病院の明石町。 松竹本社の前の橋を渡って築地1丁目、2丁目にはビクターがある。 築地警察、京橋公会堂などのそばを通り東本願寺の前を通って、華僑ビルを配り東劇を回って小田原町、勝鬨橋を渡って月島に入る。 石川島重工業を経て又築地5丁目へ回り、中央市場を配って終わる。約3時間。これが私の責に区域であった。」
湊町は現在の湊1~3丁目、小田原町は現在の築地6~7丁目の旧町名である。(ものしり百科『旧町名の由来』168頁)。
『風に吹かれて』は昭和43(1968)年7月、『ゴキブリの歌』は昭和46(1971)年8月の発行である。今から45年前後の昔。そして、昭和28(1953)年というと、もう60年以上前の話である。
今の若者が読むなら、私たちの世代が永井荷風の「断腸亭日乗」を読むようなものであろう。
荷風随筆「町中の月」
「断腸亭日乗」では、しばしば月を観るという記述が見られる。荷風は観月が好きであったらしい。例えば、下記のようである。
大正8(1919)年1月7日、「夕刻銀座に往く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり」、 大正8年8月7日、「半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北壽が浮絵を見るが如し」 大正8年8月9日、「重ねて新富座にて人形を看る。・・・夜、月佳し」 大正8年8月10日、「晩涼水の如し。明石町佃の渡場に往きて月を観る」
現在の明石町佃の渡場跡から観た月(2015年9月28日撮影)
そして、昭和12年1月の「中央公論」に「町中の月」という随筆を寄せている(昭和10年冬稿、全集17-129)。まだ川が多かった頃の銀座、築地界隈が描かれているので、少し紹介しておきたい。
「燈火のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降ると、夕方の澄みわたった空は、真直な広い道路に遮られるものがないので、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、少し黄ばんだ色をして、大きく浮かんでゐるのを見ることがある。 時間と季節とによって、月は低く三越の建物の横手に見えることもある。或はずっと高く歌舞伎座の上、或は猶高く、東京劇場の塔の上にかゝってゐることもある。 ・・・・・・・・・・・ 服部時計店の店硝子を後に、その欄干に倚りかかって、往来の人を見てゐる男や女は幾人もあるが、それは友達か何かを待ち合してゐるものらしく、名月の次第に高く昇るのを見てゐるのではない。 ・・・・・ わたしがたまたま静に月を観やうといふような―――それも成るべく河の水の流れてゐるあたりへ行って眺めやうと云ふ心持になるのは、大抵尾張町の空に、月の昇りかけてゐるのを見る夕方である。 東京の気候は十二月に入ると、風のない晴天がつづいて寒気も却て初冬のころよりも凌ぎよくなる。日は一日ごとに短くなり、町の燈火は四時ごろになると、早くも立迷ふ夕(せき)の底からきらめき初める。 わたしはいつも此時間に散歩を兼ねて、日常の必要品を購ひに銀座へ出る。それ故名月を観るため、築地から越前堀あたりまで歩くのも年の中で冬至の前後が最も多いことになるのである。」
「夕せき」、「夕あい」は、夕方のもや、夕嵐。 荷風の原文を読むためには漢和辞典を要する。 荷風随筆「町中の月」(2)
随筆「町中の月」には、鉄砲洲神社近辺の様子が詳しく描かれているので、もう少し引用させていただく。
「むかしは銀座通の東裏を流れてゐる三十間堀の河岸も、月を見ながら歩けるほど静であったが、今は自動車と酔漢とを避けるわづらわしさに堪えられない。築地川は劇場の燈火が月を見るには明るすぎる。鬨のわたし場は近年架橋の工事中で、近寄ることもできない。明石町の真中を流れてゐた掘割は、その両岸に茂った柳の並木と、沿岸の家の樹木とに、居留地のむかしを思出させた處であつたが、今は埋立てられて、乗合自動車の往復する広い道路となった。 こんな有様なので、わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃の渡し場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。 稲荷橋は八丁堀の流が海に入るところ。鉄砲洲稲荷の傍にかゝつているので、その名を得たのであらう。この河口は江戸時代から大きな船の停泊した港で、今日でも東京湾汽船会社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大島行の汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船体と檣(しょう・帆柱のこと)と煙突とを空中に聳かしてゐる。・・・・・・・・・・・・・・水の上は荷船や運送船の数も知れず、日の暮れかゝるころには、それ等の船ごとに舷(ふなばた)で焚くコークスの焔が、かすみ渡る夕靄のあひだに、遠く近く閃き動くさま、名所絵に見る白魚舟の篝火を思起させる。 わたくしは稲荷橋に来て、その欄干に身をよせると、おのづからむかし深川へ通つた猪牙舟を想像し、つゞいて為永春水の小説春暁八幡佳年の一節を憶ひだすのである。・・・・・ 稲荷橋をわたると、筋違ひに電車の通る南高橋がかゝつてゐる。電車通りの灯火を避けて、河岸づたひに歩みを運ぶと、この辺は倉庫と運送問屋の外殆ど他の商店はないので、日が暮れると昼中の騒しさとは打つて変つて人通りもなく貨物自動車も通らない。石川島と向ひ合ひになつた岸には栄橋と、一の橋とがかゝつてゐて、水際に渡海神社といふ小さな祠がある。永代橋に近くなると、宏大な三菱倉庫が鉄板の戸口につけた薄暗い燈影で、却つてあたりを物淋しくしてゐる。そして倉庫の前の道路は、すぐさま広い桟橋につゞくので、あたりは空地でも見るやうにひろびろとしてゐる。 わたくしはいつも此桟橋のはづれまで出て、太い杭に腰をかけ、ぴたぴた寄せて来る上潮の音をきゝながら月を見る......。」 (昭和10年冬稿)
現在の永代橋近辺から観る月(2015年9月28日撮影)
「稲荷橋」は、八丁堀舟入堀の入口、八丁堀(桜川)に架かっていて、八丁堀と湊町(当時)を結んでいた。埋め立てで撤去され、今は橋標だけが残されている。
「勝鬨橋」の竣工は昭和15年であるから(ものしり百科129頁)、昭和10年ころは工事中であった。 |
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