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2015年10月21日 15:00
明治44(1911)年には「日本初のカフェ」とされるプランタン(3月)に続き、ライオン(8月)、パウリスタ(12月)と「カフェー」を冠する店が銀座に相次いで開店した。パウリスタはコーヒー中心だったが、ライオンは料理、酒が中心だった。
ライオンは、築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られた。
「カフェー・ライオン」外観と店内の様子(「株式会社サッポロライオン」のサイトからコピー)
「株式会社サッポロライオン」の「『銀座ライオン』店名の由来と誕生」では、次のように述べられている。
>明治44年(1911年)、8月10日、銀座四丁目の角に、『カフェー・ライオン』が誕生しました。(築地精養軒経営)
この開店の背景には、当時パリで知ったカフェの味を忘れられないフランス留学帰りの画家たちから、カフェ開店のすすめがあったそうです。
『カフェー・ライオン』 の店名は、当時の築地精養軒(上野精養軒の前身)の経営者・北村宇平氏がイギリス・ロンドンを訪れた際に、ピカデリー広場の角で営業していたレストラン「ライオン(LYON)」(ジョー・ライオンズ商会経営)の名にあやかったと言われています。この「ライオン(LYON)」とは、その創始者ジョー・ライオン氏の名前からとったものですが、同時に百獣の王ライオンの貫禄と威厳に敬意をはらって使われていました。また、ライオンは英国王室の紋章であり、イギリスを象徴する動物です。
このような名を当時西洋式レストランの元祖ともいえる店にいただき、『カフェー・ライオン』は、ダイニングルームの他に、バーや宴会場も備えた本格的なレストランとして、多くの文化人にも愛され、その人気は隆盛を極めました。
その後昭和6年に経営が大日本麦酒(株)へ移り、『ライオンヱビスビヤホール』として店名を変え、ビヤホールとして生まれ変わりました。
ビヤホールに変わった後も、訪れる多くのお客様からは「銀座のライオン」や「銀座ライオン」という通称・愛称で呼ばれていました。この通称・愛称であった「銀座ライオンを正式な店名としたのは、戦後の昭和24年のことです。
現在サッポロライオンのコアブランドとして親しまれている「銀座ライオン」の店名は、銀座4丁目の角、銀座のど真ん中で誕生し、たくさんのお客様から親しまれる名となりました。
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2015年10月21日 09:00
「ものしり百科」で、「震災復興事業により賑わいを取り戻した銀座」として、「明治43年(1910)、日本橋区小網町に東京で最初のカフェー「メイゾン鴻乃巣」が開業した。翌年3月には銀座初のカフェー「カフェー・プランタン」がオープンし、・・・同年8月には、現在の銀座5丁目角に3階建ての「カフェー・ライオン」が開店した。・・・・・大正期に入ると、「カフェー・ライオン」の成功が呼び水となり、銀座煉瓦街にはカフェーの開店が相次ぐ。そして銀座は、大正ロマンの香り漂う、華やかな時代を迎えていく。」と述べられている(122頁)ように、「銀座初のカフェー」は、「カフェー・プランタン」であった。
「カフェー・プランタン」は、東京美術学校出身の松山省三が開いたもので、東京都京橋区日吉町20番地(現中央区銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)。相談役であった小山内薫が命名した。
昭和初め頃には、もっぱら女級の接待をウリにする風俗営業になってしまうが、それまでのカフェーは、レストラン、バー、喫茶店を兼ねるような存在であった。
「メイゾン鴻乃巣」などは西洋料理店に近かったが、「カフェー・プランタン」では、コーヒーと洋酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。後に焼きサンドイッチも名物になった。
「カフェー・プランタン」の店内 (wikipediaからコピー、public domain 確認済)
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2015年10月20日 19:00
「ものしり百科」では、第2章で「関東大震災から復興したまち並み」という項をおき、「震災復興事業により賑わいを取り戻した銀座」について述べている。(122頁)
ここでは「アクセスが格段によくなった銀座には有名な百貨店が進出し、幅広い客層を受け入れ始めた」と述べられているが、百貨店が銀座へ進出し始めたのは、大震災(大正12年・1923年)の後のことである。
例えば、上野の松坂屋が銀座に支店を出したのは大正13(1924)年で、銀座最古の百貨店であり、初めて土足入店を試みた百貨店であった。
神田今川橋にあった松屋呉服店、現在の松屋デパートが銀座3丁目に銀座営業所を開業したのは、震災約1年半後の大正15(1925)年5月である。なお、商号を「株式会社松屋呉服店」と改称したのは1924年で、商号を「株式会社松屋」に変更したのは1948年である。
さらに昭和3(1928)年6月には、「株式会社三越呉服店」が商号を「株式会社三越」に改めて、昭和5(1930)年4月に銀座店を開店した。こうして、松屋、松坂屋、三越の三つのデパートが出そろったのであった。
銀座松坂屋(大正(不詳))中央区観光協会サイト「移り行く街の姿・建物」
銀座松屋(昭和4年)中央区観光協会サイト「移り行く街の姿・建物」
銀座三越と服部時計店 (1933年10月)(wikipediaからコピー、public domain 確認済)
昭和7(1932) 年には、銀座の象徴ともいうべき服部時計店ビル(現在の銀座和光本店)が完成する。「建て替えは大正年間に計画されていたが、関東大震災の影響で工事は大幅に遅れた。その結果、耐震性を強めた鉄骨鉄筋コンクリート造の建物が誕生した」(ものしり百科;38頁)ということである。
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2015年10月18日 09:00
中央区立郷土天文館企画展「谷崎潤一郎と日本橋」--文豪のルーツをたどる‐-をのぞいてきました。
「谷崎潤一郎没後50年を記念し、今回の企画展では、文豪・谷崎が中央区で過ごした時期に焦点をあて、自筆原稿を中心に生い立ちや潤一郎が見た風景という視点から明治・大正期の日本橋を写真や錦絵を用いて、当時の街の様子を再現します。また、谷崎の書簡や資料等を多数借り受け、区ゆかりの作家原稿や写真とあわせて、谷崎文学の世界を中央区との関わりとともに紹介することで文豪のルーツをたどります。」というものです。
展示構成
1.谷崎潤一郎と日本橋
・生い立ち
・「幼少時代」を歩く
2.文学作品の世界
・生活の変化と創作-関東から関西へ-
・「細雪」の世界
・「源氏物語」へのまなざし
・晩年の夢
2015年10月14日、明石町・隅田川河岸から見た佃島です。ますます高層マンションが増えてきています。月島機械の旧本社跡も高層マンションになるのだろうか?
大正10(1921)年9月11日の断腸亭日乗に述べられた「掘割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり」という情趣は消えてきていますが、いよいよ「東京のマンハッタン島」のイメージに・・・・
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2015年10月16日 18:00
「ものしり百科」では、「震災復興事業により賑わいを取り戻した銀座」として、
>明治43年(1910)、日本橋区小網町に東京で最初のカフェー「メイゾン鴻乃巣」が開業した。翌年3月には銀座初のカフェー「カフェー・プランタン」がオープンし、・・・同年8月には、現在の銀座5丁目角に3階建ての「カフェー・ライオン」が開店した。・・・・・大正期に入ると、「カフェー・ライオン」の成功が呼び水となり、銀座煉瓦街にはカフェーの開店が相次ぐ。そして銀座は、大正ロマンの香り漂う、華やかな時代を迎えていく。
と述べられている。(122頁)
荷風も盛んにカフェーに足を踏み入れており、大正15(1926)年11月20日の日乗では、当時のカフェーの様子を詳しく述べて、「太牙は震災の翌年春頃より開店し、尾張町の獅子閣と相対して今やその繁栄遥に優るといふ。銀座通にはこの他に松月、銀武羅など呼べる酒肆あり」と述べる。
荷風も述べているように、開店は「カフェー・ライオン」(獅子閣)が早く明治44年、築地精養軒の経営であった。タイガーはそれを追って大正13(1924)年に出来た。
荷風は、大正末頃から昭和の始め、特にこの「カフェー・タイガー」(太牙)に足繁く通っている。昭和2(1927)年9月28日には、カフェー・タイガーの女給お久に130円という慰謝料?を払ったりしている。
タイガーは、一時は女給が200人もいたほどの大型店。菊池寛が多数の友人や文藝春秋の社員を連れてきては、さかんにビールを飲んだ。「銀座行進曲」(昭和3年)には、「タイガー女給さん文士が好きでライオンウェイトレスレディ気取り」とある。
「カフェー・タイガー」(Wikipedia からコピー)
カフェーとは、本来は喫茶店であるはずであったが、その頃のカフェーの性格は純然たるバーであった。
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2015年10月12日 18:00
人形町が育んできた伝統を広くアピールするイベントで人形町と縁の深い水天宮にあやかり、十月十日をからイメージして、"てんてん祭"と名づけられた。人形町通りの半分を歩行者天国とし、富くじやマーチングパレード、各地の特産品販売、フリーマーケットなどの楽しい催しを開催する。(ものしり百科;91頁)
10月11日(日)、のぞいてきました。
中央区観光大使も出動。
地震体験車も。