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2015年10月24日 14:00
銀座のメインストリートである中央通りの7丁目~8丁目付近を交差する通りが「花椿通り」です。出雲市から寄贈された出雲椿が街路樹として植えられたことから、現在の呼び名がつけられたようです。
「銀座花椿通り公式ウェッブ」では、「(江戸幕府創始のころ)『日比谷入江』と呼ばれた海を埋め立て、城下町の拡張を目指した整備が30年の後に終了、その地に手伝普請に駆り出された諸藩の大名の江戸屋敷が建ちはじめます。この辺り一帯には松江藩の上屋敷が建ちました。松江藩は出雲一国を領有していたことから、『出雲町』と名付けられ、通りも町名と同じく『出雲通り』と呼ばれた」ということ、そして、「昭和9年に通りの名の由来となる椿が寄与された」と説明しています。
現在は、御影石がきれいに敷きつめられ、その整備の記念として椿の花を持ったポニーテールの少女「はな」の像が置かれています。出雲から寄与された8本の椿は健在で、3月~4月にかけてきれいな赤い花を見ることができます。また、街路樹としてはアメリカハナミズキも植えられています。そして、1年を通して老若男女を問わず、各国からの観光客も訪れる活気あふれるストリートとして愛され続けています。
バックの建物は銀座資生堂ビル
椿屋珈琲店本店
少女「はな」の像
昭和通り歩道橋はエスカレーター付きです
なお、従来から、「資生堂」のシンボルマークは「花椿」と呼ばれ、資生堂に関連する活動にも「椿」の名称がよく用いられてきました。ところが、このシンボルは1987年に広告での使用を中止し、1989年以降は製品からも外すなど対外的な使用を取りやめ、使用範囲は株券など極めて狭い範囲に限定されていたのですが、その後方針を変更し2004年から復活しています。「椿」ファンとしては、この資生堂の方針の伝統復帰はうれしいですね。
資生堂グループのサイトを見ると、「資生堂のシンボルマーク『花椿』は、1915年に初代社長福原信三が自らデザインし誕生しました。その後も何度か微調整が加えながらも、資生堂の揺るぎないアイデンティティーとして、現在に至っています」とあります。
私事ながら、私のブログ・ネーム「CAM」とは、「Camellia」の頭三文字をとったものです。
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2015年10月23日 18:00
「新富座跡」については、『ものしり百科』 61頁で述べられています。
新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明治五年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
(wikipediaからコピー、下の写真は明治15-16年頃。いずれもpublic domain 確認済)
その母が大の芝居好きであった荷風も、しばしば訪れています。例えば、
大正7年10月9日、「三十間堀春日にて昼餉をなし夕刻新富座楽屋に松莚子を訪ふ」
大正7年10月13日、「新富町の妓両三人を携えて新富座を見る」
大正8年7月7日、「夜新富座に往き岡本綺堂君作雨夜の曲を観る」
大正9年3月23日、「新富座を立見して家に帰る」
また、随筆「監獄署の裏」(明治42年)では、次のように書いています。
「(私の母は)江戸の生れで大の芝居好き、・・・・私は忘れません。母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座などの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、・・・」 (4-54)
久松座、千歳座は、明治座の旧称、明治26年に明治座に改称しています(ものしり百科;91頁)。
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2015年10月23日 14:00
谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」の中で、卯木督助の日記の一節として、次のように書いている。(原文カタカナをかなに変換)
・・・今の東京をこんな浅ましい乱脈な都会にしたのは誰の所業だ、みんな田舎者の、ぽっと出の、百姓上りの、昔の東京の好さを知らない政治家と称する人間共のしたことではないか。日本橋や、鎧橋や、築地橋や、柳橋の、あの綺麗だった河を、お歯黒溝のやうにしちまったのはみんな奴等ではないか。隅田川に白魚が泳いでた時代のあることを知らない奴等の仕種ではないか。死んでしまえば何処に埋められたって構はないやうなものだけれども、今の東京のやうな不愉快な、自分に何の因縁もなくなってしまつた土地に埋められるのはいやだ。・・・・・・さう云ふ点では何と云っても京都が一番安全である。・・・・兎に角京都に埋めて貰へば東京の人も始終遊びに来る。「あ、こゝにあの爺さんの墓があつたつけな」と、通りすがりに立ち寄つて線香の一本も手向けてくれる。(19-139)
これは、言うまでもなく谷崎自身の心情だろうが、谷崎は昭和40(1965)年7月30日、79歳で亡くなり、京都市左京区鹿ヶ谷法然院に葬られている。
「瘋癲老人日記」は昭和36年月号から昭和37年5月号まで『中央公論』誌に発表されたものだから、まだ日本橋は高速道路で覆われてはいなかったはずである。上記では、川の水質汚染を嘆いてはいるものの、景観破壊については述べていない。
昭和8年の日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿)
昭和32年の江戸川から日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿)
現在の日本橋と日本橋川(2015年10月18日撮影)
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2015年10月22日 18:00
『ものしり百科』では、銀座の柳の記念碑については、下記「銀座柳の碑」(銀座8-9先)について述べる(47頁)だけである。
西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑。明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立した。
しかし、銀座の柳に関する記念碑は別に2箇所あり、その一「柳並木の碑」は、数寄屋橋公園にある。
「銀座の象徴 柳並木
銀座の柳は明治10年年頃に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年銀座通りの改修と共に姿を消した
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する
平成11年11月 西銀座通会会長 柳澤 政一」
そして、もう一つ「銀座柳由来の辞」が銀座1丁目にある。
「銀座の柳由来
銀座の柳は明治20年年ごろ銀座通りに植えられて以来大正9年撤去昭和6年復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和43年歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った
いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する 銀座通聯合会」
この「昭和6年復活」については、荷風が次のように記している。
昭和7(1932)年3月25日「・・・帰途数寄屋橋朝日新聞社入口に"銀座の柳復活記念祭"とか書きたる掲示を見る。かかる事に復活といふ宗教上の語を用るもこれを見て怪しみ笑ふものなし。言葉の乱るるは人心の乱れたるを証するなり。・・・・」
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2015年10月22日 16:00
「三十間堀(さんじっけんぼり)」については、『ものしり百科』47頁で述べられている。
現在、「三十間堀跡」として、下記のような説明版が設置されている(一部漢数字を算用数字に変換)。
「三十間堀跡
所在地 中央区銀座1から8丁目地域
三十間堀は、現在の中央通りと昭和通りとの間にあった、京橋川から汐留川にいたる入堀です。慶長17年(1612)江戸の舟入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。名称は堀幅が三十間あったことに由来します。江戸時代、西岸は三十間堀1から8丁目、東岸は木挽町1から7丁目で、沿岸には舟運の荷揚場として河岸地がありました。江戸時代初めの「武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)には、堀の東側に尾張徳川家と紀伊徳川家の蔵屋敷が並び、更に、京極・加藤・松平といった大名屋敷が並んでいる様子が描かれています。文政11年(1828)には両岸の河岸地が広げられ、堀幅は19間に狭められましたが、その後も舟が盛んに行き交い、多くの荷物の運搬に利用されていました。明治17年(1884)の地図からは、北は真福寺橋・豊蔵橋・紀伊国橋・豊玉橋・朝日橋・三原橋・木挽橋・出雲橋といった多くの橋が架けられていたことがわかります。三十間堀は、戦後灰燼の山を処理するために、昭和23年(1948)から埋め立てが進められ、同27年7月の完了してその姿を消しました。平成20年3月 中央区教育委員会」
荷風は、『新橋夜話』の一篇「見果てぬ夢」(明治43年)の中で、出雲橋から見た掘割の風景を次のように描いている。
「今方二人で歩いて来た横町を木挽町の方へ曲らうと思つて出雲橋の手前まで来た。深け渡る溝渠(ほりわり)の眺めはますます静に優しく見えて、沈みきつた水の面(おもて)には、寝静る両側の人家の屋根の倒影と共に、若し覗いたなら自分の姿さへ見られる様に思はれたので、彼は橋の上に立止つて欄干に身をよせかけた」(5-250)
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2015年10月21日 19:00
映画「東京行進曲」が公開されたのは、昭和4(1929)年5月31日で、同時に主題歌がビクターレコードから発売された。銀座を歌った一番は
昔恋しい 銀座の柳
あだな年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨
Seidensticker氏の東京行進曲("Tokyo March")英訳を参考までに引くと("TOKYO RISING")
The Ginza willows bring thoughts of the past.
Who will know the aging, fickle woman?
Dancing to jazz, liqueur into the small hours.
And in the dawn a flood of tears for the dancer.
(wikipediaからコピー、public domain 確認済)
荷風も昭和4(1929)年6月25日の『日乗』で、少し「東京行進曲」にふれている。
「夜お歌を伴ひ銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり。散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行歌(はやりうた)を聞く。沓掛時次郎とやらいふ流行歌の由なり。この頃都下到処(いたるところ)のカッフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大いに流行す。その他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり。」
歌は、当時の東京風景とともに、「You Tube」で見聞きできる。