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2015年10月30日 16:00
「まるごとミュージアム2015」(11月1日)も近づいてきました。私は「バスルート右まわり」を担当するので、今日(10月25日)は少し下見に行ってきました(写真はいずれも10月25日撮影のものです)。
まずは、築地市場橋駐車場
築地社会教育会館前を通り、新橋演舞場、采女橋公園を臨みながら右折し、晴海通りへ。
萬年橋から晴海通りへ入ります。萬年橋の下には元々築地川が流れていました。川は昭和39年に埋め立てられ、現在は首都高速が走っています。橋の両脇には中央区立築地川銀座公園があります。
昭和通りとの交差点、三原橋交差点を通過。三原橋はかつて三十間堀川に架けられていた橋です。実際の三原橋は交叉点から銀座三越よりの三原橋地下街の位置に存在していました。
工事中の三原橋地下街跡です。
銀座4丁目の交差点。中央通り(銀座通り)と交差しています。四つ角に位置する、和光、三越、三愛は銀座を代表する建物群です。日産ギャラリーなどが入っていたサッポロ銀座ビルは工事中です。
数寄屋橋交差点から左折し外堀通りへ。
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2015年10月29日 16:00
本日(2015年10月27日)の日経夕刊に下記の記事が出ています。
>べったら漬け、江戸文化の華――甘くて色白、粋な味わい(食ナビ)
2015/10/27 日本経済新聞 夕刊 7ページ 2053文字
この中で、
「他の漬物と同様、チルド流通の整備でべったら漬けは全国へ広まった。現在、業界トップといわれるのが東京にいたか屋(東京・中央)。戦後に本格生産を始め、べったら市の復興にも尽力したが、東京の漬物であることをどうアピールするかに苦心した。工場は埼玉県に移し、原料も全国から調達するため地元産を売り物にできないためだ。 そこで全国観光土産品公正取引協議会の認定を受け、中央区観光協会から推奨名産品の指定を受けるなど東京名産にこだわってきた。」
と述べられ、「中央区観光協会の推奨名産品」という制度も紹介されています。
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2015年10月28日 18:00
表記の会場を少しのぞいてみました。
[1][2] まず、「パイロット筆記具ミュージアム」がある「パイロット ペン・ステーション」(京橋2-6-21)ビルです。
「明治屋京橋ビル」(京橋2-2-8)(ものしり百科19頁)が中央通りの向かい側にあります。
[3]「環境活動フェス2015」の会場となる「環境情報センター」がある「東京スクエアガーデン」ビルです(京橋3-1-1)。中央通りと鍛冶橋通り交差点にあります。
その地階には「中央FM」のスタジオもあります。
[4] 「銀座奥野ビル」はかなりレトロなビルです(銀座1-9-8)。銀座最初の高級アパートであり、昭和モダンの香りを今に伝える建物として中央区の貴重な建築遺産となっています。
手動式のレトロなエレベーターの入口横にも「まるごとミュージアム」のポスターが掲示されていました。
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2015年10月25日 18:00
10月19日、「べったら市」をのぞいてきました。
『ものしり百科』168頁では、江戸時代、大伝馬町にある寶田恵比壽神社の門前では10月20日に恵比寿講が開かれる習わしがあった。・・・前日の19日には、供え物を売る市が立った。・・・いつの頃か、市では、大根の漬物が売られはじめた。・・・・店側も「べったら、べったら」と威勢のよいかけ声で客を呼び込んだため、恵比寿講前日の市は「べったら市」と呼ばれるようになった、と説明しています。
神輿も出ていました。
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2015年10月25日 18:00
『ものしり百科』168頁では、開催日は通例どおり10月19・20の2日間で、寶田恵比壽神社から椙森神社にかかる一帯には、べったら漬けを販売する露店をはじめ、数百軒にも及ぶ露店が軒を連ねる、と説明していますが、まさしく、寶田恵比壽神社から椙森神社にかけて全く切れ目がなく、露店の列が続いていました。
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2015年10月24日 16:00
『ものしり百科』では、109頁と146頁に説明があります。なお、147頁にある写真の掲示板は新しくなっていました(英文と絵画入り)。
ここは明治29年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。
ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。
明治40年、島崎藤村が『春』を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が『大川端』を執筆したのを始めとして、大正2~3年頃には、佐藤惣之助、木村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。
この碑は昭和43年、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。
藤村は、『春』執筆の準備から連載を終えるまでの間、明治40年(1907)9月から約1年を過ごしたようです。この「春」は夏目漱石の「坑夫」の後をうけて明治41年4月7日から朝日新聞に135回掲載されました。
執筆中、藤村はこの海水館の様子などを知人に「今年中に半分を―出来得べくんば三分の二位を書き置く必要より ・・・ 小生は閑静なる境地に身を置くべく考え ・・・ 昨日よりこの海岸にある宿へ引移り申候。この宿は友人にも告げず ・・・ 朝日新聞執筆のことも、未だ世上には発表いたさず候。二階の西隅にある一室にて、寺院の如き閑静と、旅舎の便利とを兼ね候」と伝えています。
現在の海水館跡近くから豊洲方面を臨む(2015年10月18日撮影)