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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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第11回中央区観光検定

[CAM] 2019年2月 4日 10:00

節分の日にあたる本日(2月3日)、第11回中央区観光検定に参加しました。暖かい好天の日曜日でした。私は、第7回、第8回と受験したのですが、もう止めようかなとも思っていたし、最近は私事多忙なのですが、意を決して、久しぶりに受験しました。

 

 この試験は、日頃から歴史などに興味を持ちつつ区内を歩き回りながら、1年に数日、『中央区ものしり百科』を丹念に読み返す機会として利用するべきもので、できれば毎年受け続けるべきでしょうね。

 私は、久しぶりの受験でしたが、出題者もよく工夫していると感じましたね。細かいと言えば細かい部分もありますが、日頃から区内を歩き回り、テキストを細部に注意して精細に読むべきためのものと考えればよいのでしょうか。

 例えば、写真問題の問.42ですが、確かに、この写真は、テキストのグラビア3頁に「江戸桜通り」として、挙がっています。しかし、すぐ上に「日本橋さくら通り」の写真も挙がっており、目印となる建物の判別はかなり困難で、写真だけでこれを区別することは無理でしょう。私は「日本橋さくら通り」と誤答しました。

もっとも、この地帯を歩きこんでおれば、問題文の「日本橋本石町から日本橋本町へと続く道を撮影したもの」という部分で、容易に正答を導き出すことができたのでしょう。テキスト192頁の「日本橋・京橋エリア」の地図では、「江戸桜通り」と「さくら通り」が明示されています。

 

 

「江戸っこ」 再考   

[CAM] 2019年1月30日 14:00

「にゃんボク」氏の「江戸っ子とは」という投稿を読んだら、最後に

>なお CAMさんの「江戸っ子とは」にも詳しい記述があります。

 /archive/2017/09/post-4591.html

  

 と、小生の随分前の投稿に言及していただいており、ありがとうございます。

 

 私は、以前の投稿を、次のように結びました。

 

>関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

 

 現在でこそ、東京一極集中が進み、大阪も「地方のトップ」と言われるまでに衰退しています。しかし、明治になって首都を江戸(東京)とした理由のうち、大きなものが、「大阪は首都でなくても繁栄を維持していけるだろうが、江戸は首都でなくなれば寂れてしまう」ということがあったことを思うと、今昔の念に堪えなくなります。

 

 先日の毎日新聞の「余禄」でしたか、テニスの「大坂時代の到来」を告げる導入部の記述として、「奈良時代、鎌倉時代、江戸時代のように政権の所在地を時代の名にするならば、豊臣秀吉が大坂城で政務をとった時代は『大坂時代』にすべき」と書いていました。歴史区分の「安土桃山時代」というような表現は明らかに不当ですよね。少なくとも「安土大坂時代」というべきだと思います。これも東京の歴史学会の陰謀だったとも考えられます。

 

 府県制を作った際も、「摂津」地方を分割して一部を兵庫県に繰り入れたのは、大阪府が強大になりすぎることを東京政府が恐れたからだとも言われています。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読むと、幕末の頃の神戸などはまだまだ都市化には至っていない状態であったことが分かります。

 

 私は、「原江戸」と言うべき現中央区の域内を歩いて、日本橋、新川などに、大阪、関西が強大であった時代の名残を見いだしたことが、中央区の歴史を研究したいと思うに至った端緒となりました。

 

 

第10回観光検定試験問題・問52

[CAM] 2019年1月20日 12:00

ひさしぶりに観光検定を受けようかと、『ものしり百科』の最新版を購入し、綴込みの第10回観光検定試験問題をながめると、問.52 は「中央区役所別館横には、江戸時代末期、築地一・二丁目近辺に土佐藩の藩邸があったことを示す説明版があります。幕末の志士・坂本龍馬は、この藩邸に寝泊まりしながら、ある剣術家の道場に通ったといわれます。この剣術家は次のうち誰でしょう。」です。

 

 たしかに、『ものしり百科』の69頁には「幕末の志士・坂本龍馬は、この藩邸に寄宿しながら千葉定吉の道場に通っていたといわれる。」と述べられていますから、この部分を正確に記憶していれば、容易に正答を出せるわけですが、ここまで細かく読み込むのは、少し難しいでしょうね。とは言え、あまり容易な問題ばかりでは高得点者続出になってしまうし、出題者も、なかなか工夫していることが感じとれます。

 このことについては、昨年11月25日に、私が投稿している通り、『竜馬がゆく』を読んで居れば、極めて容易に正答が導き出されます。

/archive/2018/11/post-5839.html

 

 もう一度、『竜馬がゆく』の該当部分を引用します(司馬遼太郎氏は「千葉貞吉」と表記しています)。

 「竜馬は、鍜治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが、築地、品川の二つの下屋敷に移されたのである。これは黒船の江戸湾侵入に備えての土佐藩の防備態勢のひとつで、この二つの海沿いの屋敷に人数を常駐させる一方、幕府の許可をえて品川に台場を築きつつあった。」(文春文庫一巻;169頁)

 「『寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには北辰一刀流がよろしい』『ああ、千葉周作先生であられまするな』 ・・・・・。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場といわれ、天下の剣を三分していた。『・・・・周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場をもつ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉ケ池の大千葉に対し、小千葉とよばれています』」(文春文庫一巻;18頁)

 

 

平成時代の建造物

[CAM] 2018年12月19日 14:00

 『ものしり百科』巻末の「中央区の主な出来事」に挙げられている「平成時代の建造物」を訪ねてみました。

 まずは、「銀恋の碑」。歌謡曲「銀座の恋の物語」が大ヒットしたのは昭和36年(1961)でしたが、この碑が建立されたのは平成2年(1990)のことでした(『ものしり百科』39頁)。

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 中央大橋が創架されたのは、平成6年(1994)でした。佃大橋が創架されたのは、東京オリンピック前の昭和39年(1964)のことで、これによって、渡船が廃止されたのですが、さらに中央大橋が架橋されたことにより、佃島から東京駅方面への交通が便利になりました(『ものしり百科』60頁、106頁)。

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橋の中央部の橋脚上には「メッセンジャーの像」が設置されています。

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 リバーシティ21の敷地内に「パリ広場」が造られたのは、平成11年(1999)。

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 「友情から未来へ」と題されたモニュメントが設置されています(『ものしり百科』111頁)。

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 歌舞伎座(第5期)の新装開場は、平成25年(2013)でした(『ものしり百科』43頁)。

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 東京メトロ東銀座駅と直結した地下2階の木挽町広場は、歌舞伎座ならではの土産物を購入できるほか、災害時に帰宅困難者を収容する施設としての役割も担っています。

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 また、歌舞伎座タワー5階には空中庭園もあります。

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 「築地大橋」の創架は、平成26年(2014)のことでした。これにより、本橋が、隅田川河口から第一番目に架かる橋となりました。

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『竜馬がゆく』

[CAM] 2018年11月25日 12:00

 ひさしぶりに、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読み返しました。随分以前に初めて手に取ったときはまだ中央区の住民ではありませんでしたが、中央区に16年余住んだ現在になると、文中に述べられている地名などに馴染みが出ていることから、あらためての感興を覚えながら読むことができました。

 竜馬は、当初江戸に出てきた際は、土佐藩鍜治橋藩邸で起居し、その後「土佐藩築地藩邸」に移ったようです。『竜馬がゆく』では、「竜馬は、鍜治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが、築地、品川の二つの下屋敷に移されたのである。これは黒船の江戸湾侵入に備えての土佐藩の防備態勢のひとつで、この二つの海沿いの屋敷に人数を常駐させる一方、幕府の許可をえて品川に台場を築きつつあった。」と述べられています(文春文庫一巻;169頁)。この土佐藩築地藩邸は、現在の中央区役所そばですね(『ものしり百科』;69頁)。

 

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 竜馬は、当初は土佐藩鍜治橋藩邸長屋から桶町(中央区八重洲2丁目8番先)の千葉定吉道場へ通うことになります。この経緯について、『竜馬がゆく』では、「『寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには北辰一刀流がよろしい』『ああ、千葉周作先生であられまするな』 ・・・・・。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場といわれ、天下の剣を三分していた。『・・・・周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場をもつ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉ケ池の大千葉に対し、小千葉とよばれています』」と述べられています(文春文庫一巻;18頁)。

 

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 幕末の剣客松崎浪四郎は三大道場の特徴を、「技の千葉(玄武館)、品格の桃井(士学館)、力の斎藤(練兵館)」と表現しています。斎藤弥九郎は神道無念流です。

 

当初、土佐藩鍜治橋藩邸長屋で相住いとなった武市半平太は、「アサリ河岸の桃井春蔵先生の塾頭で、鏡心明智流では江戸で三本の指に入るという達人」(文春文庫一巻;83頁)でした。

 この「蜊河岸」については、『ものしり百科』が、「その跡地に説明板がある」と述べています(42頁)が、正確な位置は少し離れているようです。説明板は、旧京橋小学校(1992年廃校)跡で現京橋プラザ(1999年7月開設)のそば、京橋公園内に設置されています。

 

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 その後、竜馬が通った軍艦操練所跡には説明板が設置されています(『ものしり百科』;73頁)。『竜馬がゆく』では、「築地本願寺から橋を一つ、東へ渡ると、南小田原町である。もう海のにおいがする。さらに東へゆくと、かつて芸州藩の下屋敷のあったところ、ごく最近まで幕府の講武所がおかれていた一角があり、その向こうは海である。そこに、安政四年以来、幕府の軍艦操練所がおかれている。」(文春文庫三巻;175頁)と述べられています。

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「わくわくツアー」 銀座画廊めぐり

[CAM] 2018年10月23日 12:00

 10月23日に「わくわくツアー」産業コースの引率を行うことから、本日(10月21日・日曜日)、少し下見にでかけました。

 当日は、数寄屋橋公園「若い時計台」前に集合します。数寄屋橋公園は、改修され、感じが少し変わりましたね。

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 最初の訪問先は「柳画廊」(銀座5-1-7数寄屋橋ビル3F)さん。数寄屋橋公園、泰明小学校のすぐ近くですが、日曜日はお休みでした。

 同社は、1994年の創業で、「国内外美術品の仕入販売、企画展覧会の開催、美術品の購入、売却に関する相談、美術品の評価査定、美術品の鑑定」などの業務を行っておられます。画廊に来られる方との対話を通じて、お互いに学び合い、文化の発展に寄与することを目標とされているということです(同社HPによる)。

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 二番目の訪問先は、「日動画廊」(銀座5-3-16)さん。元ソニービルのすぐ近くです。

ソニービルの跡地は、公園になっています。

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 日動画廊の創立は1928年で、事業内容は「絵画など美術品販売、展覧会企画、絵画など美術品鑑定」ということです。「日本で最も歴史のある洋画商として、油彩、彫刻、版画を主に、内外の物故・現存あわせてその取り扱い作家は数百名に及びます。
1942年には熊谷守一画集、次いで藤島武二、藤田嗣治などの画集を出版、現在に至るまで豊富な資料の蓄積をベースに数多くのカタログや大型画集などを出版し、コレクターの多様なニーズに応えています。
1966年には若手作家の育成のために昭和会展をスタート。2002年には現代美術を専門に扱う画廊としてnichido contemporary art(nca)を設立。また、責任ある作品の供給を果たすことを目的に美術品登録委員会を設置するなど、国内外を問わず現代の美術界の最新動向も幅広く収集しコレクターの信頼できるパートナーとして活動しています」ということです(同社HPによる)。

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 三番目で、最後の訪問先は至峰堂画廊(銀座6-9-4銀座小坂ビル4階)さん。1977年に大阪で創業、銀座店の開設は2009年です。事業内容は、「美術品、美術工芸品の販売、時計、宝石、貴金属、装身具の販売」で、「巨匠の作品から、忘れ去られつつあっても美術品として力を持った作品を取り扱うように心がけております。特に明治期~昭和期に活躍した作家には思い入れがあります。銀座店は、お立ち寄り頂きやすいよう賑やかな銀座通りに面したビルの4階にあります。ゆっくりお寛ぎいただける空間で、巨匠の作品との対話をお楽しみください。」ということです(同社HPによる)。

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