今年も、やっと桜の季節がやってきました。
中央区に転入して15年、この後、何回桜を見ることができるのか・・・という感慨が年と共に強くなってきます。「さまざまなこと思い出す桜かな」
変わり映えしない写真ですが、定点観測のつもりで・・・
まずは、石川島公園から、永代橋、東京スカイツリーを臨む。
佃公園
住吉神社では、龍神祭りが行われていました。汁粉をごちそうになりました。
佃大橋から、リバーシティを臨む。公園はかなりの人出でした。
明石町「あかつき公園」
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Japan Web Monthly Magazine
Relive Traditional Urban Culture at Japan's Cardinal Point - Nihombashi [Special Extra] として、日本橋地区をとりあげていましたのでご覧ください。 http://japan-magazine.jnto.go.jp/en/special_globalblue02.html 空襲を受けた銀座
三島由紀夫と三谷信氏は、学習院での同級生であるが、三島は、先に応召入隊した三谷と葉書を遣り取りしていた。そうした葉書を中心に、三谷が、三島の思い出を語った著作が『級友三島由紀夫』(単行本1985年刊、中公文庫1999年刊)であるが、その中の「昭和二十年二月十九日の便り」で、銀座への空襲について、以下のように記述しているので、紹介しておきたい。 三島由紀夫の小説 『鏡子の家』
三島由紀夫の小説『鏡子の家』の冒頭に、勝鬨橋とその近辺の描写があることは知られているが、勝鬨橋とその近辺の取材について、『裸體と衣装』の昭和33年3月10日(月)の部分で述べられている。 中央部が鐵板になつてゐる。その部分だけが開閉するのである。その前後に係員が赤旗を持って立つてゐて、停められた車がひしめいてゐる。歩道のゆくても一條の鎖で阻まれてゐる。かなりの数の見物人もゐるが、通行を阻まれたのをさいはひ油を賣つている御用聞きや出前持などもゐる。 電車の線路のとほつてゐる鐵板が、その上に何ものも載せないで、黒く、しんとしてゐた。それを両側から車と人が見戌つてゐる。 そのうちに鐵板の中央部がむくむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ、割れ目をひらいた。鐵板はせり上って来、両側の鐵の欄干も、これにまたがつてゐた鐵のアーチも、鈍く灯った電燈を柱につけたまま、大まかにせり上がつた。夏雄はこの動きを美しいと思つた。 鐵板がいよいよ垂直にならうとするとき、その両脇の無数の鐵鋲の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。両脇の無数の鐵鋲の、ひとつひとつ帯びた小さな影が、だんだんにつづまつて鐵鋲に接し、両側の欄干の影も、次第に角度をゆがめて動いて来る。さうして鐵板が全く垂直になつたとき、影も亦静まつた。夏雄は目をあげて、横倒しになつた鐵のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。 ・・・・・・・・・・ ずいぶん永く待つたやうな氣がした。・・・・・ 車は勝鬨橋を渡り、月島の町のあひだをすぎて、さらに黎明橋を渡つた。見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを劃してゐた。海風は頬を搏つた。峻吉は、米軍施設のはづれにある滑走路の、立入禁止の札を目じるしに車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたはらには、數本のポプラが日にかがやいてゐた。(11-10) |
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