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2017年4月 4日 16:00
今年も、やっと桜の季節がやってきました。
中央区に転入して15年、この後、何回桜を見ることができるのか・・・という感慨が年と共に強くなってきます。「さまざまなこと思い出す桜かな」
変わり映えしない写真ですが、定点観測のつもりで・・・
まずは、石川島公園から、永代橋、東京スカイツリーを臨む。

佃公園

住吉神社では、龍神祭りが行われていました。汁粉をごちそうになりました。

佃大橋から、リバーシティを臨む。公園はかなりの人出でした。

明石町「あかつき公園」

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2017年3月24日 16:00
JNTOが運営している「Japan Web Monthly Magazine」 というウェブマガジンが、
Relive Traditional Urban Culture at Japan's Cardinal Point - Nihombashi [Special Extra]
として、日本橋地区をとりあげていましたのでご覧ください。
http://japan-magazine.jnto.go.jp/en/special_globalblue02.html
写真の何枚かに(C) Chuo City Tourism Association とあるのは、中央区観光協会のことでしょうか?
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2017年3月13日 14:00
春近しを思わせる好天の3月12日。明石町、佃を散歩しました。もう2週間もすれば、桜が開花するのでしょうか?





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2017年2月22日 09:00
メトロ有楽町線、都営大江戸線の月島駅を上がって、清澄通りの相生橋方向に「肉のたかさご」という店があり、知る人ぞ知る肉の名店です。
写真は、昨年の大晦日に撮影したものですが、行列が店頭から相生橋前まで連なっており、少し驚きました。


焼き豚、山形黒毛和牛、角煮、ローストビーフ、牛モツ煮込み、牛すじカレー、黒毛和牛の牛どん・・・といった品が並んでいます。
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2017年1月23日 18:00
三島由紀夫と三谷信氏は、学習院での同級生であるが、三島は、先に応召入隊した三谷と葉書を遣り取りしていた。そうした葉書を中心に、三谷が、三島の思い出を語った著作が『級友三島由紀夫』(単行本1985年刊、中公文庫1999年刊)であるが、その中の「昭和二十年二月十九日の便り」で、銀座への空襲について、以下のように記述しているので、紹介しておきたい。
「・・・・銀座の焼跡へも行つてみました。山野のあとには焼けた楽譜がヒラヒラ風に舞ひ、焼あと毎に立札が立つて山野や御木本旧蹟の地の存在を主張し、名刺受まで設けられて、多摩墓地のやうです。あたりの塀に白墨で『―― 一家無事。・・・・方に避難中』などと大書してあり、それはともかく、いつもの通りあるいてみて、空つぽになった服部と教文館ビルの間がいやに近いのでおどろきました。銀座が丸焼けになつても、これなら大した感慨も湧きさうにありません。郷里の隊で(注;故郷の加古川での入営検査の際)明治学院出の一等兵君から、心配さうに銀座の安否をきかれたことを思ひ出しました。東京の人にとつての恋人であるこの街。自分ひとり知つてゐた筈の小さな一ト隅が、焼跡になつたときいておどろく悲しみは、所謂銀座通には大きいことでせう。・・・・」
銀座の焼跡を「多摩墓地のやう」だと評している。これに続く「二月二十四日の便り」では
「・・・空襲のため、久々の大顔合せの演舞場もなかなか初日があかず、芝居のない東京は火の消えたさびしさです。・・・・・」などという記述も見られる。
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2016年12月22日 16:00
三島由紀夫の小説『鏡子の家』の冒頭に、勝鬨橋とその近辺の描写があることは知られているが、勝鬨橋とその近辺の取材について、『裸體と衣装』の昭和33年3月10日(月)の部分で述べられている。
>毎日、書下ろし長篇「鏡子の家」を書き出さうと思ひながら、なかなか怖くて書き出せない。千枚となると脳裡の模索は何にもならぬ。月島の先の晴海町あたりの景色をプロローグに使ひたいので、タクシーに乗つて行つてみる。丁度午後三時、勝鬨橋の上る時刻である。これは使へる、といふ直感があつて、車を下りて、橋の上るさまをメモをとる。いよいよ晴海町へ行くと、數年前「幸福號出帆」(完全に失敗した新聞小説であるが、自分ではどうしても悪い作品と思へない)を書くためにここへメモをとりに来た時と比べて、完全に一變した景色に一驚を喫する。あんまりメモをとる感興が起らない。さらに晴海埠頭の對岸の東雲の突端まで行く。海に向つて數人の男が相談してゐる。密輸の相談にしては、声は高く、海はうららかで、それらしくない。(28-28)
三島由紀夫の小説『鏡子の家』は、昭和33年(1958)、雑誌『声』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年昭和34年(1959)に新潮社から、「第一部」「第二部」の2冊が同時に、単行本刊行された。その書き出しは下記のようである。
>勝鬨橋のあたりは車が混雑してゐるのが遠くからわかる。どうしたんだらう、事故でもあったのかな、と収が言った。が、様子で、開閉橋があがる時刻だとわかつた。峻吉は舌打ちした。ちえつ、埋立地はあきらめようや、じれったい、と言ふ。しかし夏雄と鏡子が、まだ一度も見たことのない、その橋のあがるところを見たがったので、可成手前に車をとめて、みんなでぞろぞろ鐵橋の部分を渡って見に行った。峻吉と収はいささかも興味のない顔をしている。
中央部が鐵板になつてゐる。その部分だけが開閉するのである。その前後に係員が赤旗を持って立つてゐて、停められた車がひしめいてゐる。歩道のゆくても一條の鎖で阻まれてゐる。かなりの数の見物人もゐるが、通行を阻まれたのをさいはひ油を賣つている御用聞きや出前持などもゐる。
電車の線路のとほつてゐる鐵板が、その上に何ものも載せないで、黒く、しんとしてゐた。それを両側から車と人が見戌つてゐる。
そのうちに鐵板の中央部がむくむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ、割れ目をひらいた。鐵板はせり上って来、両側の鐵の欄干も、これにまたがつてゐた鐵のアーチも、鈍く灯った電燈を柱につけたまま、大まかにせり上がつた。夏雄はこの動きを美しいと思つた。
鐵板がいよいよ垂直にならうとするとき、その両脇の無数の鐵鋲の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。両脇の無数の鐵鋲の、ひとつひとつ帯びた小さな影が、だんだんにつづまつて鐵鋲に接し、両側の欄干の影も、次第に角度をゆがめて動いて来る。さうして鐵板が全く垂直になつたとき、影も亦静まつた。夏雄は目をあげて、横倒しになつた鐵のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。
・・・・・・・・・・
ずいぶん永く待つたやうな氣がした。・・・・・
車は勝鬨橋を渡り、月島の町のあひだをすぎて、さらに黎明橋を渡つた。見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを劃してゐた。海風は頬を搏つた。峻吉は、米軍施設のはづれにある滑走路の、立入禁止の札を目じるしに車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたはらには、數本のポプラが日にかがやいてゐた。(11-10)