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2016年7月28日 18:00
前回のブログで、荷風が竹葉亭に通ったという記述を知らない、と書いてから、少し気になって、『断腸亭日乗』を読み返してみた。すると、数か所、「竹葉亭」の名が出てくる。
(昭和10年9月15日)「くもりて暗き日なり。哺時(ほじ;哺の篇は日。今の午後4時ごろ)日本橋白木屋楼上古本展覧会に赴き尾張町竹葉亭に飯してかへる。」
(昭和10年12月15日)「昏暮銀座に往き尾張町竹葉亭に飯して後茶店辺留(キュベル)を訪ふ。」
(昭和12年10月5日)「曇りてむし暑し。十月の気候とは思はれぬなり。正午に起き銀座に飯して土州橋に行く。・・・・夜また銀座に行き竹葉亭に飯す。」
そのほかに、鰻を食した記述として、
(大正6年12月28日)「米刃堂主人『文明』寄稿家を深川八幡前の鰻屋宮川に招飲す。余も招かりしかど病に托して辞したり。」
(大正10年5月28日)「松莚子の招がれて仲通の鰻屋小松に飲む。」
(昭和22年6月念8)「細雨終日糠(ぬか)の如し。市川駅前のマーケットに鰻飯90円を食して海神に行く。」
等があるが、全体として、その記述は極めて少ない。荷風はあまり鰻が好物ではなかったようにも思われる。
(昭和15年10月初8)には、「子弟を教育するものは先(まず)第一にこれら人心の機微を察せざるべからず」として「鰻は万人悉(ことごと)くうまいと思つて食ふものとなさば大なる謬(あやまり)なり。」などと述べている。
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2016年7月27日 18:00
さぎごろ、「日本橋」名の由来について、その起源は「二本橋」であったとする池田弥三郎氏の所説を紹介したが、たまたま、これを否定的に解する説(『中央区区内散歩 史跡と歴史を訪ねて(第8集)』 中央区企画部広報課・編集発行 平成22年3月)(以下「区内散歩」という。)を発見したので、この問題を再説したい。池田弥三郎氏の所説は『日本橋私記』(昭和47年発行)で説かれたものであり、45年近く前の著作であるが、「区内散歩」は比較的最近のものである。
「区内散歩」は次のように述べる、
>池田は、日本橋は最初二本丸太を渡した程度の橋「二本橋」であっただろうといわれます。その粗末な橋は、おそらく工事用のものでしょうが、日本橋川の川幅からいって、丸太二本を渡した程度のものでは用をなさないでしょう。(25)
しかし、他方では、
>もっとも埋め立てに際して工事用に簡易な橋を架けていたということは当然考えられます。太い丸太を二本渡した程度のものであった可能性はありますが・・・(19)と、矛盾したことを言っている。
池田氏は
>日本橋の橋名の由来に触れた『見聞集』(慶長見聞集;江戸初期の見聞記。三浦浄心作。1614年(慶長19)刊。10巻)の前後の記事は、もう少し慎重に読むべきだろうと思う。
として、
>『見聞集』では、「江戸に古より細き流れただ一筋あり」とし、これに「橋五つ」わたしてあったけれども「みな、たな橋にて、名もなき橋どもなり」として、その五つの橋を、(1)雉子橋、(2)ひとつ橋、(3)竹橋、(4)大橋、(5)銭瓶橋、としている。
そして、
>こういう『見聞集』の記載は、橋の名というものがいかに自然発生的に出来上がっていくものかを説いていて、興味がある。丸木の一本橋だから一つ橋、竹で出来ているから竹橋。ほかのに比べて大きいから大橋。いかにも自然で平凡でありふれている。(53)
また、
>『紫の一本(ひともと)』という著作には「一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか」と書かれている。 このような「戯語」めかして書いてあることの背景に、日本橋はもともと「二本橋」であったのだが、それがいつか、同音連想で日本橋となってしまったという、その当時の人々がまだ知っていた巷間の「知識」が隠されているとみることは、決してこじつけではない。 (50) と説く。
そして、
>橋の名が、単純で端的な名付けられ方をしているのは、何も橋に限ったわけではなく、橋の名も含めて、地名の発生からしても、もともと単純であったのである。(54) と説かれるのは説得的で同感できるように思う。
「区内散歩」で
>二本が三本となり四本となっても、最初の「二本橋」の名称が残ったというのでしょうが、無理があるように思います。(25)
などと述べるのはおかしい。 「竹橋」が木橋にかわり土橋にかわっていけば竹橋という名が残るのは無理がある?とでも言うのだろうか。
すでに例に挙げた「一ツ橋」「竹橋」などのほか、「六本木」「二本松」などなど、地名とは最初の由来がそのまま残ったものが多いのであって、必ずしも現況に合わせて「改名」されていくとは限らないだろう。
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2016年7月26日 16:00
「土用丑の日」も近いことだし、もう少し鰻の話を続けたい。
たまたま、「この夏行きたい『うなぎ屋8選』」というサイトを見たら、「竹葉亭(銀座)」の名が挙がっており、「銀座で鰻と言えば一番に名前があがる名店。築地寄りにある本店は趣ある佇まいで、永井荷風など多くの文豪に愛されたお店としても知られている。三越前にある銀座店は銀座の一等地にしては比較的お手頃価格でカジュアルに鰻が食べられる。」という説明がなされている。
http://news.infoseek.co.jp/article/zuuonline_112773/?p=2
しかし、荷風が竹葉亭に頻繁に通ったということはないと思う。断腸亭日乗を読むと、荷風が通った店の名として、銀座の銀座食堂、新橋の料理屋金兵衛などがすぐ思い浮かぶが、私が知る限り、竹葉亭の名は登場していない。
銀座の銀座食堂、新橋の料理屋金兵衛も、決して高級料理屋といったものではなく、日乗では「銀座に出て銀座食堂に飯す、蛤の吸物味甚佳なり」(昭和4年1月10日)、「銀座に往き銀座食堂に飯す、蜆の味噌汁味殊に佳なり」(昭和4年3月31日)、「銀座食堂に飯す、章魚の甘煮味佳なり」(昭和6年11月12日)、「金兵衛に至りて例の如く玉子雑炊に青刀魚を食す」(昭和9年10月6日)、「銀座に往き銀座食堂に飯す。アイナメの照焼味佳し」(昭和10年4月14日)、「芝口佃茂(金兵衛)に夕餉を食す。土用蜆味正に佳し」(昭和12年7月31日)といった感じで、荷風の食べるものは庶民的なものばかりである。
そもそも、美食家の谷崎潤一郎に対して荷風は食べものへの執着が薄かった。
谷崎は、『細雪』のなかにも、蒟蒻島の「大黒屋」と云う鰻屋を登場させている。
>・・・・・・・姉ちゃんにこっちでお昼の御飯食べるつもりで早ういらっしゃい云うてほしい、と、そう云って電話を切ったが、悦子はお春に預けることにして、姉と二人で久々にゆっくり食事をするにはどこがよかろう、と考えた末、姉は鰻が好きであったことを思い出した。ついては昔、父と一緒に蒟蒻島とかいう所の大黒屋と云う鰻屋へたびたび行ったことがあったので、今もその家があるかどうかを聞かしてみると、さあ、どうでございますやろ、小満津なら聞いておりますがと、女将が電話帳を繰ってくれたが、なるほど、大黒屋ございますわ、ということなので、部屋を申し込んで置いて貰い、・・・・・(396)
(現在の新川地区は、江戸時代には、霊岸島(霊厳島)と呼ばれていた場所で、霊岸橋際請負地は享保年間の埋め立てにより、富島町一・二丁目は弘化2年(1845)島西側の埋め立てによって成立したが、亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。)
北大路魯山人は『鰻の話』昭和10年(1935年)において、鰻屋一流店として小満津、竹葉亭、大黒屋を挙げているそうである。
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2016年7月23日 09:00
2016年7月 8日の投稿 『 「うな丼」の発祥 』に目をとめていただき、中央FMで少しお話する機会をあたえていただきました。
実は、この6月に、大学時代のクラスメート4人で、千葉県我孫子市手賀沼近辺を散歩し、山階鳥類研究所等を見学した後、当地の名物であるという鰻を食しました。その際に、古来、下総地方は良質の鰻を産するとされ、牛久沼付近が「うな丼」の発祥地とされているという話が出たのですが、『ものしり百科』の説明と少し異なるので、少し調べてみる気になったことがこの投稿のきっかけでした。
茨城県のサイト「茨城で生まれた日本伝統の味『うな丼』」でも、龍ケ崎市のものとほぼ同様の説明をしています。うな丼の発案者とされる大久保今助は、江戸時代の実在の人物です。1757年(宝暦7年)に現在の茨城県常陸太田市で生まれ、江戸に出て商才を発揮。ひと財産を築いた立志伝中の人です。
この大久保今助は江戸日本橋堺町中村座の金主(資金提供者)であったという人物で、うな丼を初めて売り出したのは、日本橋葺屋(ふきや)町の大野屋であったと言われており(『ものしり百科』; 156頁)、中央区は、たとえ、発祥地ではないとしても、中央区から広まっていったことには間違いがないと思われます。
今年は7月30日にあたるようですが、何故『土用丑の日』に鰻を食べる習慣ができたのか? という由来については諸説ありますが、一番有名なものとしては、江戸時代、うなぎ屋がうなぎが売れないで困っていることを、平賀源内に相談したところ、「"本日丑の日"という張り紙を店に貼る」 ことを平賀源内が発案し、これが功を奏して、うなぎ屋は大繁盛になったという説が一般的であるようです。本来ウナギの旬は冬のため、 以前は夏にウナギはあまり売れなかったそうです。売れないウナギの販促のため、 旬ではない"夏"という時期にウナギを食べる風習を根付かせたという説が有力です。
しかし、発案者は、平賀源内(1728~79)ではなくて大田南畝(蜀山人)(1749~1823)だという説もあります。『土用丑の日』が文献に登場するのは文政期(1818~29)頃からだと言われており、『ものしり百科』でも、葺屋町の大野屋からうなぎめしが売りだされたのは文化期(1804~1818)頃だとしています(156頁)。年代的には大田南畝(蜀山人)説が妥当であるように思えます。
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2016年7月 8日 16:00
今年も土用丑の日が近づいてきたが(今年は一の丑が7月30日のよう)、『ものしり百科』では、「うな丼」の発祥地を江戸三座の一つ中村座としている(156頁)。
こうした食べ物の元祖だの発祥だのは、商標登録の制度もなかった時代のことであれば、必ずしも定説を決めることは容易ではない。上記『ものしり百科』では、その説明をうな丼発祥の「通説」としているが、竜ケ崎市のサイトを見ると、大久保今助が関わっていることには違いがないが、次のように説明している。
(http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/article/2013081500954/)
>江戸時代後期に江戸日本橋堺町に芝居の金方(資金を出す人)で、鰻の大好きな大久保今助という人物がいた。その今助が故郷である現在の茨城県常陸太田市に帰る途中、水戸街道を牛久沼まで来て、茶店で渡し船を待っているときに鰻が食べたくなり、蒲焼きとドンブリ飯を頼んだ。
ところが、注文した品が出てきたとき「船が出るよー」の声。今助はドンブリと皿を借り、ドンブリ飯の上に蒲焼きののった皿をポンと逆さにかぶせて船に乗り込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されていて、より柔らかくなり、飯にはタレがほどよくしみこんで、これまでに食べたどこの鰻よりもうまかった。
その後、どのように「うな丼」が広まったのかは、いくつかの説があります。一つは、今助が帰りに茶屋に食器を返しながら、その話をし、茶屋が出すようになったところ、水戸街道の名物になったというもの。もう一つは、今助が自分の芝居小屋でうな丼を売り出して江戸から広まったという説。さらに、うな丼が牛久沼の茶屋で出されるようになった一方、今助は、自分の芝居小屋で芝居に付きものの重詰めの代わりにご飯に蒲焼を載せさせて重箱を取り寄せ、それが江戸でうな重としてとして広まっていき、庶民にも、うな丼の形で提供するようになったという説もあります。
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2016年6月23日 18:00
歴史・由来を考える場合に、絶対に行ってはならないのは、「後知恵」で判断することであり、常に当初の時点に立って考えるという態度を失ってはならないのではないか。
池田弥三郎氏は、「大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと(東京・日本橋の名の起原が)『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられている。
元和4年(1618)に架け替えられた東京・日本橋は、長さ約67.8m、幅7.8mの木造橋であった(『中央区ものしり百科』118頁)のに対して、大阪の日本橋はほぼ同時期の元和5年(1619)に江戸幕府によって道頓堀川に架けられた。長さ約40m、幅約7mの木造橋で、道頓堀川では唯一の公儀橋であった(Wikipedia)。 なお、池田氏も述べるとおり、『慶長見聞集』では、1618年の架け替えられた橋の大きさを記しながら、それ以前の橋の大きさについての記載がない(『日本橋私記』92頁)。このことによっても、以前のものはかなり粗末なものであったのではないか、という推測が成り立つ。
公儀橋というのは、幕府が管理し、かけかえや修理などを幕府の費用で行う橋であり、外見的な区別として、公儀橋の場合は青銅製の擬宝珠がつけられていた。 江戸の場合、公儀橋は江戸城の内外にかけたもの4、50のほか、市中に約120、あわせて160から170もあった。しかしながら、天明7年(1787)の調べでは、当時の大阪の公儀橋数は12に過ぎなかった。これは、"水の都大坂"の生成がいかに町人の力によるところが大きかったかを物語るものと言える(岡本良一『大阪の歴史』;60)。
このように、1619年(東京ニホン橋架け替えの1年後)という時点で幕府によって架けられた大阪では数少ない公儀橋が、当時から「ニッポンバシ」と称せられていたとするのならば、創架(1603年説が有力)前後からしばらくの間、東京のものは「二本橋」と称されていた可能性が高く、上記の池田弥三郎説はかなり説得的なものとなると思う。
なお、池田氏は自ら作詞した「雨の四季」という歌詞の中でも、「二本橋」という用語を用いて、「大阪はニッポンバシで、江戸がニホンバシなのは、日本橋は後の合理解で、古くは二本橋だったのではないか、という作者の学説(?)にもとづいて、わざとそうしてみた」と述べておられる。(184)