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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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NHKスペシャル、シリーズ「大江戸」

[CAM] 2018年5月 7日 12:00

 この4月29日から、NHKスペシャルが、新シリーズ「大江戸」を始めましたね。「150年前、1868年に消えた"日本史上最大のロスト・シティー"江戸。その知られざる姿を、ドキュメンタリーや4KCG、ドラマ表現など多彩な演出で描きます」(NHKのWebサイト)ということです。





 全3回の内、第1回(4月29日)のテーマは「世界最大!!サムライが築いた"水の都"」でした。最近発見された、江戸初期の都市計画を描いた図面や、幕末の写真ネガなどを基に、江戸が「水を駆使して造り上げられた、世界に類をみないユニークな都市だった」ことを明かし、"水の都"江戸誕生の秘密に迫るものでした。




 中央区は、周知のように「原初の江戸」ですから、「水の都・江戸」を描くことは、ほぼ「かつての水の街・東京都中央区」の原形とダブってきます。中央区教育委員会 中央区立郷土天文館発行の「区制70周年記念 中央区の歩み -戦後の発展とまちの変化―」(2017年10月)では、10頁から「戦後復興 河川の埋め立て」、14頁から「東京オリンピックによる整備と河川の埋め立て」について述べられています。10頁には、震災復興以降の河川の埋め立てが地図にまとめられていますが、震災復興、戦災復興、東京オリンピックによって、中央区内の多くの河川が埋め立てられたことが一目で把握できます。

 

 

「小田原町小沢太郎兵衛店」

[CAM] 2018年5月 2日 14:00

4月28日の日経新聞26面「詩歌教養」の頁に、松尾芭蕉が日本橋に居住したことについて述べられています。

 芭蕉は、1672年(寛文12年)に俳諧師を目指して伊賀上野から江戸に下ります。1680年(延宝8年)冬、まだ郊外であった深川に庵を結んで隠棲しましたが、この後世「芭蕉庵」と呼ばれる庵に移るまでの期間、日本橋周辺に居住したと考えられています。

 最近解読された古文書によると、芭蕉の当時の住所は「小田原町小沢太郎兵衛店」、小田原町は今の日本橋室町1丁目、当時は魚市場の近くで繁華な場所でした。

その後の研究で、芭蕉は1677年(延宝5年)ごろから小田原町にいたというのが定説となっているようです。

日本橋三越から中央通りを挟んだ対面近く、通称むろまち小路にある佃煮の老舗「日本橋鮒佐」の店先には、この頃に詠まれたと考えられる「発句也松尾桃青宿の春」の句碑があるというので、早速、確認してきました。

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中央区の将来推計人口(2)

[CAM] 2018年4月 7日 12:00

 前回の、「中央区の人口推計」に関する投稿で、一部、誤りを修正するとともに補足します。


>「中央区ものしり百科」では、87頁で「中央区の人口変遷」について、・・・・1998年に対前年比「297人」と45年ぶりに人口が増加し、2006年4月には1975年以来31年ぶりに10万人を達成したこと、などと述べています。


 それから、前稿で「私が居住する佃地区では、佃公園、石川島公園、隅田川テラスなど、『緑と水』の空間にも恵まれていますから、人口増加による『集積のメリット』(地域活力と生活利便性の向上)がいっそう高まり、『人口過密化というデメリット』を打ち消すことになるでしょう。」と述べましたが、

これに関連して、森永卓郎氏が、東京都心の人口増加について、次のように、「いま、東京が"江戸化"している」という指摘をしています。周知のように、中央区(旧日本橋区・京橋区)は原初の江戸です。


http://www.1242.com/lf/articles/48592/?cat=life&pg=happy

森永)江戸ってすごく地域的には小さい、今の山手線の内側よりも小さいくらいの所で皆が集中して住んでいたのですね。まあ100万都市だったのですけれども、今の皇居の所を中心に武家屋敷というのがあって、そこに江戸の6割の武士が、50万人が住んでいたのですけれども、残り2割が寺社。お坊さんとかが住んでいて、残りの2割の土地に、なんと50万人の町人が集中して住んでいた。まさに長屋なのです。

森永)それでこの長屋というのは、すっごく狭いのですよ。だけど、火事が多かったというのもあるのですけれども、物をできるだけ置かないようにして、広く暮らして。それで江戸の庶民は何をやっていたかというと、例えば落語を聴きに行くとか。歌舞伎とか楽しんだり、お相撲を楽しんだり。

森永)もう(今と)そっくりなのです。ライブを楽しむのですよ。というライフスタイル。

森永)(かつての長屋は横に広がっていたが、今は、それがタワーマンションのように)高くなっているだけで、やっていることは全く一緒なのですよね。

―FM93AM1242ニッポン放送のブログ記事より―

 

 

2045年の中央区推計人口

[CAM] 2018年4月 2日 12:00

 

「中央区ものしり百科」では、87頁で「中央区の人口変遷」について、中央区の人口は、1953年1月にピークとなる172,183人を数えたこと、1997年4月に過去最低となる71,800人まで減少したこと、1998年に対前年比297年と45年ぶりに人口が増加し、2006年4月には1975年以来31年ぶりに10万人を達成したこと、などと述べています。

 
 さらに将来の人口推計ですが、2018年3月31日付の日本経済新聞は、「都内人口格差、一段と、2045年の推計、都心3区、15年比3割増」という見出しの下に、「厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が30日発表した2045年の将来推計人口によると、東京都心への人口流入が一段と進む見通しだ。都心3区(千代田、中央、港)は15年比で3割超の増加。一方、多摩地域は減少率が2桁の自治体が目立つ。都内でも自治体間の人口格差が一段と広がりそうだ。
 都心3区は15年に約44万3000人で、45年の推計では約59万5000人に増える。同研究所は3区について『マンション建設が相次ぎ、予想以上に人口が増加した。今後もその傾向は続くのではないか』と分析する。3区は全国の市区町村別の増加率で上位3位を占めた。
 都心3区で増加率が最も大きいのは中央区の34.9%。前回(13年)の推計では40年の人口は10年比14.4%増で、増加ペースが加速する格好だ。」と述べ、2045年の中央区の推定人口は19.0万人としています。

  
 この推計通りに進むとすれば、2045年には1953年1月のピーク人口17.2万人を超えていることになります。

 
 「人口過密化というデメリット」を危惧されるかもしれませんが、私が居住する佃地区では、佃公園、石川島公園、隅田川テラスなど、「緑と水」の空間にも恵まれていますから、こうした環境がデメリットを打ち消し、人口増加による「集積のメリット」(地域活力と生活利便性の向上)がいっそう高まることによって、さらに住みよい街に進化していくことが期待されます。

 下は3月24日の石川島公園の風景です。

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今年も桜の季節

[CAM] 2018年3月26日 12:00

 例年より少し早めですが、今年も桜のシーズンがやってきました。3月24日の土曜日は、天候もよく、絶好のウォーキング日和でした。

 毎年変わり映えもなく、たいした工夫もない単なるスナップの羅列にすぎなくて恥ずかしいのですが、定点観測のつもりで、少し紹介します。

 石川島公園から中央大橋を望んだもの。ここらあたりはほぼ満開でした。

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 佃、リバーシティから、中央大橋を渡り、新川の霊岸島検潮所・量水標跡近辺から石川島公園の隅田川河畔の桜を望みました。

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 あかつき公園(築地7-19)です。シーボルトの胸像が立っています。

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 聖路加タワーから勝どき橋、築地大橋をながめます。 階上の展望室が廃止されたのは残念。

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 聖路加タワー前から、佃方面を望んだもの。

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 佃大橋を渡り、佃へ戻って、佃公園。

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 石川島公園。

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3月1日、隅田川沿いを歩く

[CAM] 2018年3月 3日 12:00

 3月1日は、、「春近し」を思わせる4月末頃並の陽気で、散歩の足は隅田川沿いに向かいました。中央大橋の上からは、スカイツリーもくっきりと見えました。

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 川岸のカワズ・ザクラが、もう見頃でした。

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 河岸の桜も開花を心待ちしているような風情でした。桜の季節まで、もう3週間ばかりか?

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 隅田川テラスを歩くと、汗ばんでくるほどの陽気で、「水ぬるむ」という風情でした。

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