[達磨]
2017年12月 5日 12:00
富くじ(富突・突富・富)は文化文政期(1804~30)に大流行。中央区内では白旗稲荷(本石町)・福徳稲荷(室町)・椙森稲荷(堀留町)・薬研堀不動院(東日本橋)・茅場町薬師・新川大神宮などでも興行されたようです。(中央区内文化財HP、福徳神社富籤HP参照)。富札の値段は、1枚1分から2朱ほどだったとか。1両を10万円位に仮定すると、1枚は1~3万程度でかなりの高さです。人心や内部不正のため,天保の改革(1842)によって富くじ興行は禁止されましたが、落語の中では、「湯島天神」と「椙森神社」が主な舞台となって、富くじでの人々の動きが、平成の寄席、ホール...落語会の高座に引き継がれています。
↓〈知泉院茅場町薬師〉 ↓〈新川大神宮〉 ↓〈白幡神社〉
↓〈薬研堀不動院〉 ↓〈福徳神社〉家康公も参拝
↓〈椙森神社-べったら市前日-〉 ↓富落語2席のあらすじです。
三代目小さん(1857-1930)が大阪から持ち帰りの落語「宿屋の富」・・・馬喰町の汚い旅籠に貧乏くさい男が泊まった。「副業でやっている椙森神社の富札が一枚売れ残っている。」「これ以上金を増やしたくはないが、まぁいいだろう。」千両富が当たった!・・・貧乏宿の主人が祝いをしようと客の布団をはぐと下駄を履いていた...と。(笑い)
初代圓朝(1839-1900)が実話から落語化したものと伝えられる落語「富久」・・・酒でしくじってばかりの幇間の久蔵、なけなしの一分で椙森神社の札を買って、大神宮さまの神棚にしまいこんだ。――中略―――火事で久蔵の家は丸焦げ。椙森神社を通ると「一番、鶴の1500番」の声。「あ、当たった!」久蔵、卒倒した。当たり札がなければダメだ!帰る途中、鳶の頭「さすがに芸人だ。立派な大神宮様のお宮だな。家にあるよ。」「ど、泥棒!と半狂乱」「運のいい男だな~。」「へえ~、これも大神宮様のおかげです。近所にお払いをいたします。」...人情味豊かな噺です。//幕
[達磨]
2017年11月26日 09:00
江戸一番の旅館街として活況を呈したといいます馬喰町。
日本橋を起点に室町の通りをぶらぶら、総武線が走る江戸通りに出て、「石町時の鐘」の鐘楼に立寄る。
落語【ろくろ首】の鐘撞堂のおつねを思いつつ、浅草橋に向う。
日本橋から歩いて30分、馬喰町のファッションのまち並みです。
「郡代屋敷跡の植込みから馬喰町方面」↓
ここには初音の馬場があり、浅草橋のふもとに「郡代屋敷跡」「初音森神社」。浅草橋から蔵前を抜けて浅草へ、「両国広小路」「両国橋」も近くです。
この馬喰町には、郡代の役所に行くものとか、興行に行く!参拝!遊郭!買物!に都合のいい投宿場所だったようです。落語のネタでは馬喰町を舞台にたくさんの登場人物が行き来します。 以下、名作落語3席のあらましです。
落語『江戸の夢』では。静岡丸子宿の庄屋の下男・籐七、素性を言わなかったが、品性もあって、娘の婿にする。両親が江戸見物を計画。【馬喰町の宿】に入った。婿から「浅草の並木にある奈良屋に寄って、自分が育てた茶の出来栄えを鑑定してもらってほしい」。奈良屋宗味に会った「よい男でしたが、酒癖が悪く人に手をかけて、遠いところに行ってしまった」「よくぞ、この秘法を会得なされたと宗味が喜んでいたと、婿殿にお伝え下さい」...「あの人が藤七の親御さんだったんだね」、「氏(宇治)は争えないものだ」。・・・・歌舞伎作者宇野信夫が6代目円生のため落語化した噺です。
古典落語はいいです!江戸時代の「世情・文化・人情味・くらし」など・・・想像が広がります。
落語『文七元結』では。本所達磨横丁に住む左官の長兵衛、娘お久が吉原に身を沈めて作ってくれた50両を懐にして、大川の吾妻橋へ。「欄干から手を離せ!」、私は【横山町の鼈甲問屋】の手代です。「待て!待て!飛び込むな!...50両ここにあるから持っていけ!」、・・・お久は問屋主人から身請けされて、文七と夫婦になった。文七があみ出した元結は後々まで持て囃されたという。・・・圓朝の創作落語で人情噺の名作です。
落語『御神酒徳利』では【馬喰町一丁目の大店・旅籠】で働く番頭の善六さん、ソロバン占いで成功した。一回目は善六さん自身がしまい忘れた家宝の御神酒徳利を見つけたことにして礼金をせしめた。・・・3回目は、苦しい時には神頼みで、水垢離を続けた。大阪鴻池主人の娘の病気も治って、金を出してもらい【馬喰町に立派な旅籠屋】を建てた。ソロバン占いで、生活が桁違いに良くなった!のだという。(笑い)・・・大阪から入った噺です。
おわり!
[達磨]
2017年10月22日 14:00
龍閑町(現・内神田)と旧本銀町(現・本石町)を結ぶ「龍閑橋」は大正12年に造られた日本初の鉄筋コンクリートトラフト橋の大変珍しい橋で、龍閑町の名は、近くに旧幕府坊主「井上龍閑」の家があったことに由来するという(説明板)。
落語「藁人形」神田龍閑町の糠屋の娘おくまは、食うに困って女郎屋に身を売ったが、身請けしたいという西念という坊主から、金をだまし取った。恨んだ西念は藁人形を油で煮立てておくまを呪った。"藁人形なら釘を打たなきゃ"『だめだ、おくまは糠屋の娘だ』...落とし噺の一席です。
いま修復工事の常盤橋から江戸通りを行くと斜角、室町3丁目「本石町十軒店跡」です。現在は超高層オフィスビル建設中、交差点の新日本橋駅4番出口には「長崎屋跡」の説明板です。
落語「長崎の赤飯」は、隣地「金吹町」(現・本石町)金田屋の親父が息子を勘当して噺が始まる。母親の息子への愛情、伯父の世話で長崎の大店に婿入り、親父は赤紙つきで帰省させて八丁堀与力の娘と嫁取り算段、長崎の嫁は乞食に身を隠して400里の距離を江戸に無事到着、与力は貞女に感激して、関所破りの罪を見過ごす裁き、輿入れ予定の与力の娘は尼に、江戸でもとの鞘に収まった夫婦、最初の子供は長崎に渡して、『初節句には十間店の武者人形を送り、お返しには長﨑からお返しに赤飯が届いた』と...江戸の真ん中を舞台に、空想と現実がごちゃごちゃの人情噺の長編です。
十軒店から浮世絵小路、コレド室町、寶田恵比寿神社、椙森神社を歩いて、15分ほどで日本橋堀留の三光新道、三光神社です。
明治初年まで日本橋浮世小路にあった会席料理屋百川舞台の一席です。
落語「百川」 田舎出の百兵衛、葭町の口入屋「桂庵」千束屋の紹介でに奉公に来た。新入り百兵衛は気が荒い河岸の連中だからと、釘を差されて二階に。訛のひどい百兵衛に客にはチンプンカンプン。客から使いに出された百兵衛、「常磐津の歌女文字(カメモジ)」と間違えて「外科医の鴨池(カメジ)玄林先生」を連れてきた。両先生とも三光稲荷の小道近 くに住んでいた。お前抜け作だよ、「どのくらいだ」、どのくらいじゃない。みんな抜けてらぁ~『カメモジ、カモジ、たんとではねぇ、たった一文字だけだ』と、オチも地方訛で笑える。百川の宣伝用に創られた噺とか。
[達磨]
2017年9月 5日 09:00
異常気象が毎日の夏休み、歴史好きの6年生の孫と日本橋川~隅田川~神田川の船旅です。家康の開拓した足跡を巡ります。
日本橋魚河岸跡のトイレを使い、架橋100周年(2011年)を機に造られた「日本橋船着場 双十郎河岸」から出航です。
【日本橋川】・・・天井に手が届きそうな距離で迫ってくる「江戸橋」―1872年創架「兜橋」―「茅場橋」―日本橋水門―「湊橋」 ~墨田川に注ぐ河口部に架かる1698年創架「豊海橋」をくぐると、下流近くに創架1698年筋骨隆々「永代橋」です。
【隅田川】・・・スカイツリーを水面正面に水辺の景観を愉しみながら運河船が進みます。
上流の1979年架橋「隅田川大橋」-1928年竣工「清澄橋」-右手小名木川-1693年創架「新大橋」-1659年架橋当時大橋の呼び名の「両国橋」・・・
1698年創架「柳橋」をくぐって【神田川】に入りました。屋形船が並び、江戸の舟遊びの賑やかさに触れました。
旧平川水路の【神田川】を名橋「聖橋」「万世橋」「御茶ノ水橋」・・・と千代田区、文京区の街中を進みます。
後楽園先を折れて、-明治期には掘り直しで外濠川と呼ばれた日本橋川を進むと「雉橋」「一ツ橋」「錦橋」、この間の城側岸には江戸城の藩の刻印がある石垣が残っていました。
下流中央区、都内最古の石橋・・・
「常磐橋」は、老朽化と東日本大震災により、落橋の危険性があるために、改修工事中。「一石橋」-「西河岸橋」を進んで、飾灯柱にライトが灯る日本橋船着場に戻ってきました。
日本橋には橋(8×4)にちなんで、
32頭の獅子像が配置されているとか・・・
橋上からは見えない獅子のお迎えでした。
[達磨]
2017年6月28日 18:00
梅雨の晴れ間、カレッタ汐留の東側46階展望スペースから、築地・月島・晴海方面が見渡せました。 眼下には東京ドーム5っ分、約23ヘクタールの広さ「築地市場」(1935年に開設)と国の特別名勝・特別史跡に指定されている「浜離宮恩賜庭園」(約25ヘクタール)です。先には、2020年の東京五輪に合わせて開通予定の築地大橋が、その横には1940年竣工した「勝鬨橋」、この上流に1964年東京五輪の年に建造された「佃大橋」が見えます。
↓ 築地市場
浜離宮恩賜庭園 ↓ 中島のお茶屋も見えます
展望帰り、築地市場内を素通り...「築地・波除稲荷神社」では夏越の祓が行われていました。茅の輪をくぐって、お参りしてきました。 (大祓式6月30日)
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[達磨]
2017年5月12日 14:00
中央区まちかど展示館「小津和紙」の2階ギャラリーでは
「和紙と綿棒が織りなす 百人一首 八センチの世界」が開催されている。
会期:2017年05月02日~05月13日(土)
時間:10:00~17:00(最終日:14:00迄)
↓ 百人一首 平安おりんぴっく
顔や体は綿棒で、衣装は色とりどりの和紙で作られた8センチの人形たち、一体一体にやさしさと美しさ、生命力を感じます。
つくり人の「伊藤壽子さん」は筋ジストロフィーの長男と次男との闘病生活の中で障害ある人形と出会ったことが、和紙人形作りの出発点だった。と、百人一首の歌の場面を8センチの和紙人形で再現した作品群には、伊藤さんの亡くなった二人のご子息への思いが込められています。
「和紙が織りなす日本」実行委員会代表のお話でした。