[達磨]
2016年7月28日 09:00
有楽町線・新富町6番出口(海抜2.4m)を隅田川向って歩くと、昭和39年に架橋した「佃大橋」(現在は周囲耐震補強工事中)の上り口、「佃島渡船の石碑」があって、傍にある児童公園の棚にはキュウイが可愛い実を付けている。表通りには、「都立築地産院」跡地に平成15年新築の「国際紙パルプ商事」がある。覗くと!エントランスに同社仙台の子会社が制作した仙台七夕飾り、8月19日まで一般者にも展示されている。因みに、今年の仙台七夕は8/6~8/9です。
国際紙パルプ商事
このビル右脇に1905年創立「女子聖学院」発祥の碑があって、玄関斜め前の植え込みには、青山学院の楚である「海岸女学院」の記念碑が建つ。
ここから聖路加タワー(高さ/ 220.63m)に向って手前、居留地通りに660年の歴史を誇る饅頭発祥の「塩瀬総本家」...京都で饅頭屋を開業し時に掲げた「日本第一番饅頭所」の文字。
ここ塩瀬総本家の会社概要による、創業は南北朝時代の貞和5年(1349)で、初めて薯蕷饅頭、奈良饅頭をもたらした林浄因が中国から来日した年。同社のHPと大百科事典(マンジュウ)等での饅頭の歴史!!!
『塩瀬総本家』万治2年(1659年)、京都より日本橋に出店。昭和25年に現在地明石町に設立(HP)。今は2階喫茶室がなく寂しいが、変わらず格式を重んじる店内。戦後時代の七代目創案(へぇ-)の本饅頭と庶民派にうれしい和菓子「どらやき」「大福」...名店の上品な口あたりをいただいた。
塩瀬総本家
江戸時代は江戸湊で栄えたという湊・入船の町に向う。外人慰留地の一角でということで、大戦の被害から逃れたのだろうか、今でも古い家の商店や飲食店が混在している町。中央区でも開発が遅れている地区のようだ。今も印刷業やこの関連業が多くあって、入船2丁目には「ミズノプリンティングミュージアム」がある。この地域はバブル期に地上げと崩壊後の虫食い状態だったと記憶している。湊2丁目では、ここで高層複合ビル建設の再開発が進んでいる。近くの「鉄砲洲稲荷神社」は鎮座1180年記念事業の工事中で、鳥居が閉鎖されている(参拝は通常通りHP)。
ところで中央区の真ん中は?入船3丁目付近かなぁ...「中央区はじめて物語マップ」で検証してみました。
和菓子屋は、靴業発祥の地・新富町7番出口に近い入船3丁目『三陽』さんと八丁堀駅から直ぐの入船1丁目『入船青柳』さん。
『三陽』・・・昭和8年の創業以来、流行に惑わされることなく、和菓子本来の味を守り続けてきました...(HP)。「水饅頭」は熊笹に包まれ、とろっとした皮に上品な粒餡、香りも楽しめる品。また季節感ある和菓子をいただきたい!
三陽
『入船青柳』・・・明治24年10月現在地(当初南八丁堀)で開業。店内に明治期の振子時計が老舗の時を刻んでいる。初代から受け継がれた「菊最中」は、サクサクの薄皮に上質の餡...お勧めに納得!桜の皮の香り「道明寺」!丁寧な技に和菓子を感じた。
入船青柳
以上。
[達磨]
2016年7月13日 09:00
人形町2、3丁目は明治座の浜町、水天宮の蛎殻町と全体化して、江戸時代から明治大正の遊興の歴史を残す町。昭和20年空襲から逃れた家屋も残り、「人形町通り」「甘酒横丁」この路地には、「人気商店」「老舗飲食店」「匠のお店」「甘味店」があって、昔を思わせます。「長谷川時雨の旧聞日本橋」に書かれている明治初めの江戸風景が、"今"に再現されたのでは...錯覚を覚える町並みです。
日本橋7福神の、建替えられた「水天宮」と茅の輪が残る2丁目「末広神社」にお参りしました。
人形町2丁目(明治座側人形町通り)には生和菓子の老舗がいっぱいですが、蛎殻町は見当たらず、浜町には『銀座あけぼの浜町店』と『茂ち月』があります。今回は2丁目『玉英堂彦九郎』『板倉屋』『縫月堂』の味記録です。
人形町通りの和菓子『玉英堂彦九郎』さんは24代目が暖簾を守ります。天成4年(1576年)頃に京都で創業して戦後、人形町に出店との事。人気「虎家喜(とらやき)」は虎柄のふんわりした皮と餡の食感が良い銘菓、お奨めの「玉饅」は5色の層の餡で、お姫様のような姿と風味の名品です。京都では夏越祓に食べるという「水無月」が店頭にありました。↓
玉英堂
人形町通りを歩くと香ばしい匂い!創業110年人形焼き『板倉屋』さん、お客様の笑顔を入れて七福神の「人形焼」は皮の焼き具合としっとりこし餡の江戸風味です。
板倉屋
末廣神社に近い表通りの『縫月堂』さんは、昭和8年人形町2丁目に開店。代表銘菓「一粒栗まん」は、粒の栗が白餡にやさしく包み込まれた美味しい品。「どら焼き」は、しっかりした餡ですが、後味が残らない江戸風です。
縫月堂
今回、おわり。
[達磨]
2016年7月 8日 12:00
和菓子屋さんとの出会いは「昔が残る商店会」「お寺・神社」「お祭り」...がキーワード。和菓子は祝事、仏事や季節折々の贈り物、色々な会食/会合に登場します。この「人の和を創る」江戸和菓子を探して、まちを歩きます。
江戸・明治大正・昭和とそれぞれの時代に町の形を変えて、歴史を刻んできた『小網町と蛎殻町』ですが、和菓子屋さんに出会いません。(?_?)です。
現在の小網町、人形町1丁目あたりの人々の支えになってきたと言われ、今年ご鎮座550年の『小網神社』で『茅の輪くぐり』をしてきました。(夏越の祓6月20日)ミニチュア版の『茅の輪』をいただきました。今年は猛暑のようす京都では夏越祓に和菓子『水無月』を食べる習慣があるようです。
人形町1丁目(旧芳町)はむかし花柳街で栄えたとか..人形町通りには明治13年当地創建の『大観音寺』があり、甘味『初音』、親子丼発祥『玉ひで』、ふぐ『かねまん』、玉子焼『鳥忠』・・・の老舗と横道裏道に入れば、人気の割烹や名店の数々、和菓子屋さんは『東海』と『三原堂本店』があります。人形町通りをはさんんで2丁目の『つくし』『壽堂』にも寄りました。
日本橋7福神『茶ノ木神社』に近い裏道にある和菓子『東海』さんは大正元年創業、昭和になって人形町に移転した老舗。人気「茶通」は皮の焼き方、餡の甘さに手技を感じます。お彼岸の時には「おはぎ」が楽しみ!
水天宮交差点の『三原堂本店』さんは、明治10年創業の和菓子の老舗。 店内で、どら焼きの実演販売が行われていました。
三原堂本店
ドア越しに水天宮新社殿が見える和菓子『つくし』さんは、水天宮の茶店だったとのことで、現在地で明治10年創業の匠の技がある老舗。「どら焼」はしっとり感ある皮、後に残らない上品な甘味の品。老舗和菓子屋の定番「お稲荷さん」は江戸っ子お婆ちゃんの懐かしい味です。次はお赤飯です。
明治初期に蛎殻町で創業した『壽堂』さんは、現在の水天宮前交差点近くに移って100年以上の老舗店。大人気の看板商品「黄金芋」は、黄身餅の和菓子で、ほどよいニッキを香りが、何か懐かしさを感じます。8月1日~3日は人形町せともの市・・・夏季商品の「氷ようかん」も手にしたい!!
今回、おわり!
[達磨]
2016年6月28日 14:00
「八丁堀」は寛永年間に埋めたれられ、8町(約873m)の八丁堀と称した水路が開削された地域で、慶長16年(1611)から30年ほどの寺町時代を経て「与力同心の組屋敷」に変わった下町、明治維新後に京橋区と日本橋区に分割されて、京橋区に八丁堀地区が残る。 大正12年の大震災では焼け野原になった八丁堀、昭和20年の米焼夷弾では西八丁堀3・4丁目全滅だったという・・・・現在は商店、オフィスビル、マンションがきれいに並ぶ街。 ◆町会設立50年記念誌「わが町・八丁堀」Web版
(余談)私の先祖は西八丁堀4丁目で江戸時代から江戸小紋・刺繍を家業としていましたが、大震災によって廃業、史料など一切ありません。
<スタート>八丁堀駅A2→「八丁堀(桜川)跡・桜川公園」→「日比谷稲荷」→「堀部安兵衛武庸の碑」→「亀島橋」
江戸時代には、船見番所が置かれた「亀島橋」・・・橋上より亀島川・日本橋水門・スカイツリーを望む。
八丁堀3丁目を歩く(平成通り)→注目!ロースカツカレー「ロダン」→神仏具店・神輿師「秋山三五郎商店」→八丁堀スズラン通り→和菓子西八丁堀「青柳」→和菓子「八丁堀伊勢屋」→「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」<ゴール>
↓「青柳」は大正九年の創業、三代目のおすすめは全国菓子観光大博覧会名誉大金賞牌の「味かく」と「菊最中」・・・美しく、男性的な味わいの生和菓子!です。
↓「八丁堀伊勢屋」・・・明治40年創業以来、餅と豆にこだわり『質を落とすな』・・・先々代から守り続け、気取らず普段使いのお茶菓子を心掛けております。「HPより」
[達磨]
2016年6月22日 14:00
今回は八重洲1丁目、弓矢師の住居と魚市場があった「日本橋(1)・2・3丁目」、今は寂しく感じる「兜町」、葦の茂る水辺と与力・同心の敷地だった「茅場町」・・・外堀通り、八重洲通り、新大橋通り、日本橋川、亀島川に囲まれたエリアを歩きました。
和菓子店は明治23年組合結成以来120年を迎える「中央区和生菓子組合」の案内図により、この地区の銘菓を賞味記録として、ご紹介します。因みに6月16日は後醍醐天皇の時代から受け継がれる「嘉祥の祝」を現代に甦らせた「菓子の日」でした。
【スタート】銀座線日本橋B1出口(海抜3.8m)国重文「高島屋日本橋店」→中央通りを渡って「桜通り」を歩くと和菓子『長門』
享保年間(1716~1735年)創業で、徳川家に菓子を献上していた老舗「長門」、人気の[久寿もち][切羊かん]は江戸の風を感じる味わいです。
東京駅を背にして桜並木を歩く→昭和通りを越えると兜町~茅場町の街並み→坂本小学校「明治6年第一番官立小学の説明版」→3丁目茅場町商店会和菓子[茅場町伊勢屋】
いつも餅をつく音が聞こえる『茅場町伊勢屋』は昭和の創業。八丁堀伊勢屋と親戚筋で、伝統の技が光るお店です。売れ筋は豆大福、重みのある「栗どら」。
人気焼き鳥屋もある茅場町商店街を後にします。新大橋通り→「智泉院(区文化財)」→山王祭の余韻「日枝神社日本橋摂社」→「兜の渡し跡」→「東京証券取引所」→「NHK・とと姉ちゃんのロケ地(山二証券)」→みずほ兜町支店の壁に「銀行発祥の地説明板」「海運橋親注」「日本橋」まで近い、日本橋1丁目和菓子『ときわ木』
『ときわ木』は明治43年に創業の老舗。ケース上に置かれた三段重箱に商品見本を披露していただける。写真は評判の「黒糖まんじゅう」、「もなか」は香りと上品な甘さ。三代目が手技で作る生和菓子には、やさしさと美しさがあります。
【ゴール】東西線・銀座線・都営浅草線D2口「日本橋駅」(海抜3.1m)
[達磨]
2016年5月30日 09:00
江戸落語・・・・・通説では寛政末期(1798年~1800年)、江戸浅草柳稲荷神社で三遊亭可楽が初めての寄席興行を催したのが、江戸の寄席での職業落語家の始まりとされ、可楽一門の有力者には初代圓生、初代馬生、初代正蔵、初代扇橋など一流の祖となる人がいたようだ。文政末(1829年)には125件の寄席を数えて、この時代に江戸落語が定着、安政期(1854年~60年)には400件近くの席に達したという。明治大正時代の寄席も100件を超して、興行上大いに活況を呈し、戦後になっての寄席は減少したものの「ラジオ中継」「テレビ放映」「ホール落語」「CD化」・・・の中で、聴くスタイルも変化して、落語が地位向上した昭和の時代であった。(山本進編・落語ハンドブック、落語の黄金時代から)
現在、都内には4席の落語定席のみですが、ホール・区民館・企業貸席・飲食店など『明日もどこかで誰かの落語会』落語ブームが続いています。人形町商店街「からくり櫓」【3】からは今日も落語が流れます。
中央区でもホール落語を中心に、どこもいっぱいで、談志さんが称している「江戸の風.」(志らく落語進化論)が吹いています。
聴きに行った落語会場のご紹介です。
- 三越日本橋本店【1】三越劇場「三越落語会他特別企画落語会」・・・・昭和28年4月スタート、当時のスタイルを崩さず、591回を迎えるとのこと。この5月26日2階席、豪華重厚感の内装の中で、舞台はトリの「さん喬」、〈死神〉でした"大喝采"
- 本町「江戸日本橋亭-永谷」(落語芸術協会定席、立川流日本橋亭、若手落語会)【2】
- 蠣殻町「日本橋公会堂(日本橋劇場)」 ●人形町「日本橋社会教育会館ホール」
- 銀座「博品館劇場」 ●銀座「銀座ブロッサム中央会館ホール」
- 築地本願寺【4】ブディストホール(本願寺落語会、こども寄席)・・・・5月17日の41回らく朝独演会【5】(医学博士なのに昨年真打)健康落語と椙森神社を舞台にした「宿屋の富」の口演でした。
1 日本橋三越本店・三越劇場
2 お江戸日本橋亭
3 人形町商店街「からくり櫓
4 築地本願寺 5 ブディストホール