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楓川・築地川連絡運河跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2019年3月10日 18:00

楓川・築地川が埋め立てられ首都高速になったことは誰もが知っていると思いますが、昭和5年に震災後の帝都復興事業として、楓川と築地川の間に新たに運河が開削され、その30年後の昭和35に埋め立てられ高速道路に生まれ変わったことを知らなかった人も多いと思います。実は私も中央区観光協会の特派員になるまでは、知りませんでした。

今回は、その楓川・築地川連絡跡を歩いてみようという企画です。

現在の銀座一丁目と新富町二丁目の間の運河であり、この運河により日本橋と築地が水路で結ばれたことになります。新金橋、新富橋、三吉橋が架橋されていました。

スタートは楓川の弾正橋付近から南下して、三吉橋を目指すコースとしました。

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左の写真は弾正橋から下流をつまり新金橋方面を撮ったの写真です。楓川跡右岸を新金橋を目指します。

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われ等が聖地、京橋プラザが見えてきました。中央区観光協会事務局は当ビル三階です。京橋プラザの植え込みには木挽町の由来についての説明板があります。案内板の植え込みの囲いの石は地中より掘り出された石を利用しているそうです。

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また、この京橋公園の中には蜊河岸の説明板もあります。この二枚の説明文には楓川より先がカーブして三十間堀へと続いています。江戸時代についての案内板なので間違いはないのですが、昭和5年に三つ橋の先に開削され築地川に分流した運河跡を歩いてみようというのが今回の企画です。それから公園内は白いプラカード等でいっぱいになっていました。何かな~?と思い近づくと、それは明日の東京マラソン用のプラカードどでした。そうかと自分でも合点がいきました。

それでは、白金橋を目指して進みましょう。するともう一枚の案内板を発見しました。

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三つ橋跡の説明文です。

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新金橋に到着しました。新金橋は首都高の京橋入口があります。右の写真は新金橋から新富橋方面を撮影しています。橋名は新富町と金六町を結ぶため新金橋とつけられたそうです。左岸上流部分に小さいながらも児童遊園、そして交差点に新金橋の名前が残されていました。

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それでは新金橋を後に、楓川・築地川連絡運河跡左岸を新富橋方面へ進みます。

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楓川・築地川運河跡の左岸に小さな祠がありました。名前をチェックすると「新富復興稲荷神社」でした。この付近も以前に何回か通ったことがあったのでこの神社の存在は知っていたのですが・・・

復興という言葉から震災あとの創建らしく、以前は数メーター離れた場所に鳥居もありもっと大きな神社だったらしいことぐらいしかわかりませんでした。また、神社の祠の裏手には五重の石塔が建ってました。ここも神社のの敷地内なのでしょうか?相輪部分が折れていたのも、少し気になります。

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そこは新富橋です。新富橋の名前が公園・交差点に残ってました。

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右の写真に写っている日本家屋どっかで見たなと思いましたら、国登録有形文化財の「大野屋總本店店舗」でした。大正時代の町屋建築とのことです。

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右の写真は新富橋より三吉橋を撮影したものです。

新富橋より楓川・築地川連絡運河右岸を三吉橋方面へと進みます。

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そこには、東京都選定歴史的建造物に認定されている「鈴木ビル」がありました。確かに馬蹄型や丸型の窓などバラエティに富んでいるなーと感じました。

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今回の街歩きの終点三吉橋に到着です。三吉橋の後ろにそびえる茶色の建物は中央区役所です。右の写真は三吉橋より新富橋方面を写してます。

そして右岸上流部分に三吉橋の説明板があります。説明板の中には、三島由紀夫の「橋づくし」の一遍が引用されています。私はこの小説を読んだことはないのですが、この三吉橋が三又橋になっている部分がポイントとなるそうです。

私、個人的にはこの三吉橋はもっと注目されてもいいような気がします。

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中央区では平成4‣5年に改修工事を行い照明器具に架設当時の鈴蘭燈などを取り入れています。右の写真には「昭和四年十二月復興局建〇」の文字が確認できます。

今回の街歩きの前から、なぜこの運河は開削したのにたった30年で再び埋め戻さなければならなかったのか?が不思議に思ってました。自分なりに調べてみたのですが、関東大震災後の「帝都復興事業」により東京も新しくなりました。道路、橋梁、河川などその大部分が現在でも活用されています。しかし戦後の復興及び東京オリンピック開催のための高速道路建築等ににより再び計画が変更となった事項もあるということです。

今回の楓川・築地川連絡運河は震災後の帝都復興事業として新しく開削された運河であり、震災後築地に移設した中央卸売市場からの物流などに大いに活躍していました。しかし戦後の自動車化を止めることはできなったということでしょうか?

 

参考文献:川の地図辞典(江戸・東京23区編)菅原健二著

     「郷土室だより」152号 156号 中央区立 京橋図書館 編集・発行

 

 

楓川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2019年2月28日 10:00

今回の企画も昔中央区に実在した河川跡を歩いてみようというものです。

楓川は徳川家康が江戸入りした天正18(1590)年当時の海岸線であったと言われています。

その後、江戸城築城のための建設残土等を楓川の沖合に埋め立て八丁堀地区を造成したのです。楓川は昭和35年に埋め立てられ現在では首都高速道路に生まれ変わっています。

楓川には日本橋川から兜橋 海運橋 千代田橋 新場橋 久安橋 宝橋 松幡橋 弾正橋が架かっていました。残念ながら兜橋と開運橋は廃止となりましたが、他の橋は現存しているので比較的に馴染みやすい河川跡と言えるのではないでしょうか?

日本橋川の分流点(兜橋跡)付近からスタートして桜川・京橋川合流地点前の弾正橋を目指します。

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楓川右岸には兜神社があります。社の上には江戸橋ジャンクションとなってました。

有名な兜岩も写真に収めておきました。かつてこの兜神社の右隣には渋沢栄一邸がありました。この付近には、東京証券取引所、郵便発祥の地(日本橋郵便局)などがあり見所ころ満載の地区でした。

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そろそろ下流方面へ、江戸・もみじ通りを進もうかと思い何気なく道路標識を写真に撮った時にその背景に入ってきたビルに見覚えがあることに気付き、ビル名をチェックしてみると「日本橋ダイヤビルディング」となっているのにびっくりした。東京都歴史的建造物に指定されている「日本橋ダイヤビルディング」(旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)だった。考えてみれば江戸橋は目と鼻の先であり当たり前と言えば当たり前なのですが、私的には位置関係がはっきりしたよい発見でありました。

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それでは、江戸・もみじ通りを海運橋方面へ進みましょう。

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海運橋には親柱2本と説明板が立ってました。

「紀元二千五百三十五年六月造」文字が確認できます。

また、海運橋の先には、銀行発祥の地(みずほ銀行兜町支店)があります。

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みずほ銀行の壁面には「兜町歴史地図」なるものがあり、近隣ガイドになっていました。

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そして、永代通りと交差するのは千代田橋です。昭和3年に新たに仮設された千代田橋は側面から見ると橋台、桁が現存しているのが確認できます。親柱、袖柱、袖高欄が残っています。

"ぷぉーん ぷぉーん ぷぉーん"

楓川左岸を下流に進もうした時、雅楽の独特の音色が耳に入ってきたのです。

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なんだー?今日は2月22日初午祭か?いや今年の初午は2月2日だし・・・

大原稲荷神社では初午祭が執り行われていました。旧暦で二午が2月22日となりますが、どうして2月22日なのかは、よくわかりませんでしたが神官による祝詞の奏上などをみて、江戸時代よりこの楓川近隣の町内の安全、家業隆盛などを祈願してきたんだなと思いました。こんな古き良き慣習、しきたりを次世代に、いや未来永劫、大切に伝えていきたいものだなと感じました。

中央警察署を左手に楓川跡を下流に進みます。この中央警察署の片隅に「東京都立紅葉川高等学校 跡地」説明石碑があります。日本橋消防署、坂本町公園、坂本小学校を左手に楓川跡を下流に進みます。

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次の新場橋は工事中で車両通行止めとなってましたが、人は歩道部分を自由に往来できます。この河岸に新しい魚市場が設立され、新肴場から新場となったそうです。

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そして、八重洲通りと交差するのは、久安橋です。もともと松平越中守邸宅の前に位置していたため、それにちなんで越中橋とも呼ばれいたそうです。明治維新後、東京府によって久安橋と改められました。橋詰広場は楓川久安橋公園として整備されています。近隣サラリーマンらしき人達が休憩したり、喫煙スペースにて一服している光景が目に入ってきます。

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次の橋は宝橋です。宝橋上流右岸には、宝地蔵尊があります。この地蔵尊は戦後楓川に落ちて亡くなった児童の供養のために立てられたとのことです。橋名の由来は「京橋区宝町」からきています。

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そして松幡橋です。宝橋、松幡橋、弾正橋は上も下も高速道路が走ってます。

松幡橋は、なんか圧迫感がありますよね。それから橋名の由来ですが、高代町(八丁堀側)と本木材町(京橋川)へ架かる橋でしたが隣町の松屋町(八丁堀側)と隣町の因幡町(京橋川)から一文字ずつ取って松幡橋としたそうです。古くは松屋橋とも言われてました。

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そして、この街歩き終点弾正橋を目指します。左の写真は松幡橋から弾正橋を撮った写真です。鍜治橋通りと交差するのが弾正橋です。弾正橋の橋詰広場も楓川弾正橋公園として整備されていました。

現在の弾正橋は元の弾正橋より、やや上流に大正15年に架橋されました。そのため、暫くの間弾正橋が2つ実在し、この橋に対して下流の橋を元弾正橋と呼びました。

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なんと、そこに元弾正橋のミニチュアのレプリカが展示してありました。

弾正橋は過去に何回も来てましたが、お恥ずかしことにこのレプリカの存在を今日まで知りませんでした。菊の御紋までも忠実に再現されていました。

こんなことでは、いけない・・・

それでは、やはり本物を見に行こうと思い江東区まで遠征することにしました。

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江東区の富岡八幡宮の裏手にあり、公園として整備されていました。

元弾正橋は日本最古の鉄を主材料とした鉄橋であり、国の重要文化財にも、指定されています。現在の橋名を八幡橋と言います。

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天気も良かったのですが、見学しているのは私一人だけでした。

今回の街歩きを一言で言うと江戸時代、楓川は日本橋川と桜川・京橋川を結ぶ物流の要として発達し、河川の周りには人々が住み町ができて、商家、神社ができ発展し、明治時代になっても、銀行、郵便局などがいち早く建ち、経済の中心地区であったが、戦後の自動車の発達によりやがて水路も高速道路建設のため姿を消してしまったということであろうか。そんな現代でも、古き良き慣習を再発見できたのはとてもよかった。

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それでは、最後に新場橋から撮った写真でこの街歩きを終了することにします。

左:楓川の護岸跡らしき石積

右:新場橋から見た日本橋ダイヤビルディング



 

 

京橋川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年12月28日 12:00

今回も中央区にかつて存在した河川の跡を歩いてみようという企画です。そして今回の対象は京橋川です。京橋川は外濠川と同じく慶長年間に開削された水路と言われています。外濠川より現在の八重洲二丁目と銀座一丁目の境界線を東に、向かい白魚橋先で楓川・桜川(八町堀)三十間堀と合流していました。白魚橋と言えば三つ橋のひとつとしても有名ですね。

     弾正橋⇒楓川 白魚橋⇒京橋川 真福寺橋⇒三十間堀

今回はこの白魚橋跡付近から外堀通り付近までを歩くことになります。

この京橋川には東(桜川)から 白魚橋、新京橋、炭谷橋、京橋、紺屋橋、城辺橋の橋がありました。そして川岸には竹河岸、大根河岸が続いていました。しかしながら昭和29年から昭和34年に埋め立てられ現在は東京高速道路の一部となっています。この高速道路は首都高速道路 都市環状線と八重洲線に接続しています。この東京高速道路は無料で高速道路を屋上部分とするビルの不動産賃貸業を行っている民間企業となっています。よくKK線などと記載されている地図などもあると思います。

 

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上の写真は銀座一丁目の駐車場の写真ですがこちらの管轄は首都高速道路株式会社となっていました。この先に東京高速道路の新京橋出口と東銀座出口がありましたのでこれより先の高速下の不動産賃貸業は東京高速道路株式会社の管轄だと思います。

そして、目の前の通りは「木挽町仲通り」となります。銀座の東側にかつてあった木挽町は三十間堀が埋め立てられた際に、西銀座に対して東銀座と改称したそうです。このようにかつての旧町名が通り名に残されているとなんだかホットしますね。そして京橋川跡を外堀通りに向かって進むと昭和通りに交差します。ちょうど新京橋跡付近となります。

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そして昭和通りから少し入ったところに銭湯「銀座湯」を発見しました。

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銀座一丁目に銭湯があることにびっくりしました。でも安心してください銀座にあっても入浴料金は都内共通大人460円だそうです。私は今回入浴はできませんでしたが男湯の壁画は銀座四丁目交差点 女湯の壁画は隅田川花火だそうです。一度は入浴してみたいですね!

 

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そして、京橋川跡の左岸を外濠川跡に向かって進みます。「主婦と生活社」のビルそして、竹河岸ビルの看板が目に入ってきました。そうですこのあたりが"竹河岸"として栄えてあたりとなります。江戸時代、この地に竹商人が集まったことから「竹河岸」と呼ばれていたそうです。

さらに、その先には有名な、警察博物館があります。入館料は無料です。是非、皆さん足を運んでください。パトカーが出迎えてくれます。

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もう、目の前は京橋となります。京橋は日本橋と同年の1603年の架橋ととされています。その京橋周辺にはいくつもの名所旧跡が残されています。

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まず、煉瓦銀座の碑です。明治5年の銀座大火により、銀座煉瓦街がより推進されることとなり銀座通り沿い煉瓦街は明治6年に完成します。碑の後ろ側には煉瓦街を照らしたガス灯も復元されています。

また、京橋には現在3基の親柱が残されています。左下の写真が明治8年の石造アーチ橋の擬宝珠のある親柱が2基、そして煉瓦銀座の碑の隣に大正11年のアールデコ様式の橋の親柱が1基残されています。

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京橋横の交番は大正11年のアールデコ調の橋の親柱が模倣されています。

交番写真の右側は京橋大根河岸青物市場跡の記念碑となります。

京橋には江戸時代より大根などを中心とする野菜の荷上場があり、大正12年の関東大震災前まで青物市場があったのです。そして1935年に旧築地市場へと移転することとなります。そして今年2018年に豊洲市場へと移転することとなるのです。

 

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こちらの記念碑は江戸歌舞伎発祥の地の記念碑です。

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そして、京橋大根河岸青物市場跡の記念碑の裏に「京橋川の護岸」が残っています。写真の銅板には次のように記載されていました。

『京橋川の護岸』

 「天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入った後に開削された京橋川は、両岸に河岸があり城下町の物流に重要な河川でした。その後、現代に入りその役目を終え、昭和38年~40年に埋め立てられました。

 護岸の一部は近代以降に積み直されたもので、埋め立て当時の形状のまま地中に残されています。」    "中央区環境土木部水とみどりの課"

今回のテーマ京橋川の遺構も見ることができました。

このように京橋付近は名所旧跡の宝庫となっています。記念碑の文言にしっかり目を通していると小一時間などすぐに過ぎてしまいます。

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京橋を過ぎ外堀通り方面へ進むと柳通りと交差します。この付近が紺屋橋跡となります。左岸上流部には「紺屋橋」の名が残った紺屋橋児童遊園がありました。もちろん紺屋橋の橋詰広場跡を利用した公園となっていました。

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上の写真が東京高速道路の西銀座入口の写真なのだが首都高のような緑色の西銀座との案内板もないのでわかりにくいし入りにくいと感じるのは私だけでしょうか?みなさん運転の際は、くれぐれもお気をつけください。

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この先、京橋川跡右岸の銀座桜通りを外堀通り方面に進みます。京橋川跡地はたくさんの商業施設、飲食施設などで賑わっていました。

そして目の前には有楽町の信号がそうです外堀通りに到着です。

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今回の街歩きも終点に到着しました。京橋川は東京高速道路株式会社の自動車道路建設のために埋め立てられました。そしてその高速道路の下には駐車場、商業施設、飲料施設ができていました。かつてそこに河川が存在したことを実感させるものは京橋にあった「京橋川の護岸」だけでした。しかしながら、竹河岸ビルや紺屋橋児童遊園などの名前から京橋川の存在を推測した街歩きとなりました。

 

 

桜川(八町堀)跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月30日 18:00

今回の企画も中央区に実在した川跡を歩いてみようという企画です。

そしてその川は桜川です。

桜川は江戸期には「八町堀」と呼ばれていました。(それは河口からの長さが約八町の堀であったことに由来すると言われています。そして現在の表記は「八丁堀」に変わりました。)その後明治13年(1880)に東京府達で桜川と改められました。「楓川」に対して「桜川」にしたと言われています。新桜橋、桜橋、中ノ橋、八丁堀橋、稲荷橋の橋が架けられていました。桜川は楓川と京橋川との合流地点、弾正橋際(新富一丁目)より亀島川(湊一丁目)へ合流していました。この桜川は昭和35年(1960)に埋め立て工事が始まり、昭和47年に八丁堀橋下流部までの工事は終了しました。そして最後まで残されていた河口部分も昭和61年(1986)に埋め立てられ桜川は姿を消すこととなります。

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弾正橋からのスタートとなります。弾正橋の下はもともと楓川が流れていて、この橋の際で桜川がスタートします。現在では楓川は首都高速になっており、水の代わりに自動車が流れていました。それから弾正橋と言えば「三ツ橋」のひとつとして有名ですね。来年の第11回中央区観光検定に出るかもしれません。忘れていた方は要復習です。

現在、桜川と楓川の合流地点には、首都高速道路株式会社 新富分室と警視庁高速道路交通高速警察隊の建物が建っています。

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新桜橋より八丁堀方面へ進み桜橋付近です。左下は桜橋ポンプ場の写真です。そして右下は労働スクエア東京跡地となります。いずれも桜川の跡地にありました。

労働スクエア東京跡地には図書館を中心とした生涯学習の拠点施設の建設の計画があるらしいです。

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そして、桜橋付近より鍜治橋通りを八丁堀方面へ向かいます。

右手に見えてきたのが京華スクエアが見えてきます。もともと京華小学校があったところで、角を大きくカーブした曲線を使うなど趣きのある建物が残っています。

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この京華スクエアの前に「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」の説明板が立っています。

八丁堀と言えば、町奉行配下の与力・同心たちの代名詞であり、私も幼い頃テレビで時代劇を観ていると"八町堀の旦那"などのセリフが使われていたのを思い出します。

この「八町堀」の北岸から茅場町付近に与力・同心組屋敷が集中していたということです。

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そして、新大橋通りまで歩いてくると、そこはもう八丁堀駅となります。

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すぐ隣接したところに、「中ノ橋北東児童遊園 中央区」「中央区立 桜川公園」の表札がありました。ちょっと不思議に思いましたが今回の桜川跡を歩く!にはもってこいの表札なので

どちらも使わせていただきました。そうです、この八丁堀駅前こそ新大橋通りに架かっていた中ノ橋付近となります。

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桜川公園の入口の橋に入一地蔵菩薩と入一観音菩薩があります。こちらのお地蔵様と観音様についても少し調べてみました。

桜川を埋め立てる前からあったそうなのですが、いつ頃建てられたものなのか、はっきりした資料は残っていないとのことでした。現在でも中央区ではなく、入船の町内会で管理しているとのことでした。また、お地蔵と観音様の隣には虫歯祈祷石なるものがあり、歯が痛くなった人たちが、治癒を願いお祈りをしていたのですね。日本の民間信仰を垣間見ることができました。

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桜川公園内には、八丁堀(桜川)跡の説明板もあります。

そして公園を通過しますと、「東京都中央区立 桜川保育園」「東京都中央区立 桜川敬老館」「中央区立女性センター ブーケ21」「中央区立桜川屋上公園」などが建てられ、桜川跡は中央区の公園・施設に有効利用されています。

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そして桜川保育園、桜川敬老館と中央区立女性センター、桜川屋上公園の間の道路は「居留地中央通り」となります。この居留地中央通りを南に進むと明治元年に設置された築地外国人居留地跡(現在の明石町地区)へと続いています。「居留地中央通り」今はなき外国人居留地を思い出させる素敵なネーミングですね。

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それから、この「桜川屋上公園」侮れません。屋上には庭園があり、水が流れており都会の喧騒を忘れさせてくれる癒しのスポットとなっていました。また大きな広場もあり魅力的な公園となっていました。

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そして桜川屋上公園を降りてきますと、前の通りは「鉄砲洲通り」となります。

こちら南に進むと、もちろん鉄砲洲稲荷神社へと続きます。そこには桜川河口の橋稲荷橋の橋名板が残っていました。もう目の前は亀島川です。

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左の写真は稲荷橋跡より南高橋を臨む写真です。

右の写真は桜川跡の河口付近となります。そろそろ今回の街歩きも終点となりました。

そして今回の街歩きを通じて、桜川は中央区の他の埋め立てられた河川のような震災復興、戦災復興や東京オリンピックの開催のために埋められたのではなく、中央区立公園・施設が建てられ有効利用されているがよくわかりました。また、桜川という名称もその区立の公園、施設に残されていました。

それにしても、労働スクエア東京跡地には、いったいいったい何が建つのでしょうか?


 

 

越前堀跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月11日 14:00


越前堀は福井藩松平越前守中屋敷を取り囲んでいた堀で、廻漕橋、栄橋などの橋が架かっていた。今回はこの越前堀跡を歩いてみようという企画です。現在の住所では隅田川沿いの新川1丁目からスタートして越前堀児童公園横切りを通り明正小学校を斜めに横断し、新川2丁目付近で八重洲通りを佃方面に進み再び隅田川に合流するコースとなります。

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前回の企画の新川右岸付近からのスタートとなります。今でも越前堀の地名が残されているマンションがありました。おそらくこのマンションの敷地内を越前堀は通っていたみたいです。

 

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そして、鍜治橋通りを横断すると、左手に越前堀児童公園が見えてきます。

 

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越前堀はこの公園で方向を南に変え、明正小学校へと向かいます。

越前堀児童公園の中には、越前堀跡の案内板や実際に出土した石垣

 

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及び霊岸島ノ石碑、霊岸島の由来についての説明板などがあります。

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そして、明正小学校校庭内を斜めに折れて進み、八重洲通を佃方面に進みます。

 

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新川2丁目の交差点には『越前堀』を名乗っている越前堀薬局がありました。

こちらの越前堀薬局は大正12年(1923)から売薬店を始めた歴史のある薬局です。

そのお店の前の植え込みには「越前堀の間知石」の説明板がありました。

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前方には中央大橋とリバーシティ21のマンション群が見えてきました。

もう、佃は目の前です。

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前回同様、越前堀の痕跡は発見できませんでした。

そして現在「越前堀」という住所表示はなくなってしまいましたが公園名、マンション名、店名でかろうじて残っていてそれを発見できました。

それにしても、江戸時代の大名屋敷は大きかったんだな!と感じた街歩きでした。

 

 

新川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月10日 14:00

今回の企画は、1659年に河村瑞賢によって開削された新川跡を歩いてみようという企画です。

亀島川と新川の合流地点(新川一丁目3番付近)より隅田川と新川の合流地点の新川公園の「新川之跡」の石碑までを歩いてみました。

新川は現在の新川一丁目内を流れていました。新川には西より一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と三つの橋が架けられていました。江戸期より、両岸には酒屋や酒蔵が並び、明治・大正期まで下り酒問屋、地廻酒問屋、回船問屋などが多く集まっていました。しかし関東大震災、さらに東京大空襲で東京の酒類卸業の中心地、新川は全滅してしまいました。

そして、新川は昭和23年(1948)に埋め立て工事がはじまり翌24年に工事が完了しました。

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スタートは霊岸橋からです。霊岸橋のたもとにある自転車置き場から対岸を見ると緑の濃い場所が確認できます。こちらが新川と亀島川の合流地点です。護岸を注視してみましたがそれらしき痕跡は発見できませんでした。

 

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上の写真は一ノ橋付近です。そして永代通りに少し戻ると河村瑞賢屋敷跡の説明板があります。

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そして新川左岸には新川大神宮があります。

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新川大神宮については少し調べてみました。

"新川大神宮 霊岸島四日市町にあって、この地産土神である。大神宮とも神明宮ともいった寛永年間、伊勢内宮の社僧慶光院比丘尼が江戸に参府した際、ここに屋敷を拝領して旅亭とし、伊勢内外両皇太神宮を勧請し、遥拝所としたのがその草創とされている。文政・天保の間、江戸市中でも最も盛んに富突の行われた場所の一つである。"

『中央区史』より

 

奉納板をみてみましょう。今でも酒類に関係する企業名が確認できます。

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2018年の例大祭10月17日に執り行われた後だったので、境内北西部には清酒積樽が飾られていました。

 

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現在でも新川大神宮の隣には酒フーズ健康保険組合のビルが建っていました。新川跡付近に酒類の企業名が若干ではありますが、今でも確認できます。

そしてこの先が、新川公園となります。新川公園内に「新川の跡」の石碑及び新川の跡の説明板が立っています。

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そして、蔦に覆われた水門も確認できました。

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この隅田川との合流地点、左岸に以前から気になっていた渡海稲荷神社があります。

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この渡海稲荷神社の表示はあるものの中はどうなっているのかわかりません。

このシャッターの中には鳥居や祠があるのでしょうか?まずは『渡海』稲荷神社の名前が海を渡ると書き、また場所が新川入口というのが個人的にすごく興味があり少し調べてみました。

「渡海稲荷神社 祭神 宇賀魂命 創建宝永元年 明治初年上地、市部共有地となり改め二二坪を無料借地。戦後連合軍に接収され、解除後再建に着手した。崇敬者二千人。」

『中央区史』より

 

宝永元年は西暦1704年であるから新川が開削された後の創建となる。また、昭和20年代の火保図をチェックするとその付近は『 U.S.N.COMMANDER NAVAL FORCES FAR EASTMOTOR POOL 』と記載されており、進駐軍の集中配車場として利用されていたみたいです。今現在、この渡海稲荷神社の中はどうなっているのか気になりますね。

そして最後に、隅田川テラスへ出てみました。なんと、そこには「鷺」らしい鳥が出迎えてくれました。これには『びっくり』しました。

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今回この新川跡を歩いてみて、戦災復興のため埋め立てられてしまった新川の直接的な痕跡は発見できなかったが、新川に酒類業者が集まり繁栄していたこと、敗戦国として一時期占領されていたことなど多くのことを再認識する街歩きとなりました。