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稲荷堀(とうかんぼり)跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年8月 4日 18:00


前回の箱崎川跡を歩くの終点であった、箱崎川第一公園の手前に行徳河岸の案内板があります。

先日この案内板を見つけた際、次は稲荷堀跡を歩こうと決めてました。

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箱崎川が日本橋川に交わる手前、上の地図では上に伸びる水路が確認できます。

これが、今回歩いてみた稲荷堀(とうかんぼり)です。まずはじめに稲荷の読みですが

音読みして「とうか」、俗に「とうかん」と呼ばれたそうです。私も仕事の関係で

このあたりをよく通るのでとうかん堀通りの名前は知ってましたが「とうかん」が

「稲荷」と書くと知ったのは中央区の観光検定を受験するために勉強している時の

ことでした。

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こちらのとうかん堀通りがこの水路跡にできた道路です。

右の写真は箱崎川跡を背にして蛎殻町交差点方面を撮ったものです。

つまり写真の右側が現在の日本橋蛎殻町、左側が日本橋小網町となります。

つまり、このとうかん堀通りが境界線となっております。

とうかん堀通りをしばらく進むと小網町側(左側)の歩道に稲荷堀跡の案内板があります。

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案内板の地図を見ると箱崎川から東堀留川まで通じていて、途中東方面に

分流して酒井雅楽頭邸や土井甲斐守邸などの大名の屋敷地の間を流れていました。

 

大体、蛎殻町の交差点で東に折れ再び北西へ進みます。

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この道を人形町方面に進むと左手には日本橋小学校が見えてきます。この日本橋小学校の前身が中央区立東華小学校です。この東華「とうか」の名も稲荷堀の「とうか」から名付けられたそうです。

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江戸末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初期には西郷隆盛の屋敷がありました。

左の写真は日本橋小学校の裏側、小網町側からの撮った写真です。

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ところで、先ほどの「稲荷堀跡」の案内板によると

「『稲荷堀』の俗称は、堀の西側にあった安藤家屋敷の北西に稲荷神社が祀られていたことに由来します。」とあり、この稲荷神社とは?どこの稲荷神社のことだろうか自分なりに調べてみました。

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まず、最初に考えられるのが、明星稲荷神社です。現在の位置も日本橋小網4丁目にあり、安藤家屋敷跡内になります。しかし安藤家屋敷跡地の北西には立っていない。

明星稲荷神社は「失せ物」探して預ける神社としても有名だそうで、遠くは京都・大阪方面からのご参拝者もいるそうです。

 

第二に小網神社であろうか?

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"稲荷堀の名は、安藤邸の西方に稲荷(江戸図によっては明星稲荷、小網稲荷とも

記載)あったので、稲荷の音読「とうかぼり」、俗に「とうかんぼり」と呼ばれていた"

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』菅原健二著より

とうかん堀通りの延長線上に小網神社が建ってます。そう考えるとこの稲荷神社とは?

 

それとも、銀杏稲荷であろうか?

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"その時分銀杏八幡は、まだ小高い山の上に祀られてあった。その山がちょうど私の家の北側の塀の外に見えて、その名の拠っててくるところの大銀杏が空に高く聳え立っていたものである。溝とも川ともつかぬ一すぢの小さな流れが、東から進んで来て、それがの塀に沿うて鍵なりに曲がって流れ込んでいた。これが稲荷堀で、まだ朝霧の晴れやぬ夏の朝など、この石垣のあひだへ鰻籠を仕掛けている人の姿を見たことを子供心にぼんやり憶えている"

「『郷土室だより』 第21号 ありなしやーわが幼児の記 岡倉由三郎著より」

結局のところ、答えは出ませんでした。

  

今回の街歩きでは、稲荷堀に関係するものの発見はありませんでしたが、「とうか」からいろいろと考え調べることがありました。

 

それから実際に歩いて感じたことは江戸時代の藩邸無駄に大きすぎでした。これが現代だったら、固定資産税でもかなり額になってしまうのではないでしょうか?

  

最後になりましたが、稲荷堀沿いの蛎殻町周辺は、明治から昭和初期にかけて陶磁器問屋が集中した場所でもありました。その名残りで人形町では毎年「せともの市」が開催されます。

因みに本年度の予定は8月6日(月)~8月8日(水)となっております。

もしかしたら、貴重な瀬戸物がリーズナブルな価格で手に入るかもしれません。

どうぞ皆さんお誘いの上、足をお運びください。

 

 

箱崎川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年7月29日 14:00

箱崎川は、日本橋中洲から日本橋川までの本流1.06kmと日本橋中洲と日本橋箱崎町の間に流れる支川0.12kmからなりたっていました。そして昭和46年に本流が昭和47年に支川が埋め立てられ消滅しました。この際に日本橋箱崎町と日本橋中洲が日本橋蛎殻町、日本橋浜町と初めて陸続きとなりました。因みに日本橋中洲には「丁目」の設定がない単独町名となっています。その埋め立て地には首都高速道路と東京シティーエアーターミナルが建てられています。

その箱崎川跡を歩いてみようというのが今回の企画です。

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スタート地点は、清洲橋の少し上流地点となります。現在でも水門が残されていました。

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隅田川テラスから降りると、そこはあやめ第二公園でした。あやめの名前も、箱崎川の菖蒲橋からきています。右の写真は箱崎川の護岸跡だと思われます。護岸が右にカーブしていますが、この地が中洲の先端だった地です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

手前の橋から男橋、菖蒲橋 女橋となっています。つまり中洲先端地区から浜町・蛎殻町方面を撮影したものです。

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あやめ公園を歩いていると、いくつもの箱崎川の護岸跡を確認することができます。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は昭和30年代の菖蒲橋の写真 下は現在の菖蒲橋跡の写真です。箱崎川の上は首都高速道路となっています。上下写真の右側の木々の部分の後側が金刀比羅宮となっています。菖蒲橋のたもとには、現在でも金刀比羅宮が立っています。

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左上の写真は金刀比羅宮の正面からの写真となります。玉垣奉納者をみると『中州 割烹 弥生』『中州 割烹 三田』『中州 割烹 中州』と割烹・料亭が多かったことに気がつきます。現在の中洲はマンションだらけで中洲にこんなに割烹・料亭があったとは想像できません。それから、中洲で忘れてならないのが真砂座です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は大正時代の真砂座です。下の写真はマンションの植え込み部分に申し訳なさそうに残る真砂座跡の石碑です。

「真砂座は明治二十六年(1893)一月、日本橋区中州町に建設され、明治後半から大正時代の演劇史上にその名をとめた劇場で、やがて自由劇場を結び、後に築地小劇場へと発展していった・・・略

・・・二十六年以降中州といえば真砂座であり、真砂座といえば中州の代名詞でもあった」

                     『中央区史より』

しかし、立地の不便さから客足も遠のき大正六年には廃業となってしまった。

  

そして、首都高速浜町入口へと歩いてくるとそこはかつて箱崎川と浜町川の合流地点となります。

写真は右側が女橋、正面が川口橋、これより先は浜町川となります。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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現在は、浜町緑道公園の入口となっています。

そして、東京シティーエアーターミナルを越えて箱崎方面へ進みます。今まで何百回と通ってきた歩道横にも箱崎川の護岸跡を発見しました。ボーと歩いていると何も気が付かないだなあと少し反省しました。

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左下の写真は新永久橋から蛎殻町方面を撮った写真です。右下の写真が現在の写真となります。左の写真はおそらく昭和40年代と思われます。写真左側の建物の窓枠と窓下の〇歯科の看板が一致しています。

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「写真提供:中央区京橋図書館」

そして、箱崎川第二公園,箱崎川第一公園へやってきました。

今回の街歩きもここが終点となります。亀島川の水門が見えてきました。

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箱崎川、今でも護岸跡はいたるところに残っています。日本橋中洲には今では当たり前のように行き来しているのに、つい46,47年前までは陸続きではなかったことが不思議に思いました。また、日本橋中洲の歴史を再確認する良い機会となりました。

  

それから暑い日が続いています。街歩きをする際は必ず帽子とこまめな給水を忘れずに実践するようにしてください。



 

 

東堀留川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年5月 1日 14:00

皆さんも東堀留川を知っていると思いますが、もともと石神井川の河口部であったそうです。

「上流からの流れを失った旧石神井河口部は、あらためて伊勢町堀(西堀留川)と堀江町入堀(東堀留川)に整備されて日本橋川につながる河岸地として、舟運の中心的役割を果たすことになります。」『中央区立京橋図書館 郷土室だより 第156号より』

私はてっきり日本橋川から江戸の荷上場として堀り進められた堀だと思っていました。

今回はそんな東堀留川跡を歩いてみようという企画です。

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こちらの案内板は小舟町町1丁目にある西堀留川跡の案内板です。東堀留川は案内板の右の川となります。東堀留川には日本橋川から思案橋・親父橋・萬橋と三つの橋がありました。残念ながら昭和24年に埋め立てられ,今はこれらの橋を見ることはできません。思案橋と言えば江戸時代初期に遊郭に行くか劇場に行くか迷って思案したことから思案橋と呼ばれるようになったと言われています。下の写真は大正初期の思案橋の写真です。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

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日本橋川の接続地には現在でも水門が残っていました。この部分は小網町児童遊園になっていてこの公園の中に公衆便所があるのだが、この辺が思案橋のあった所となる。右の写真の路地の曲がり具合は上記の地図の東堀留川の屈曲具合にピッタリマッチします。

 

この路地に面した建物には、現代風にアレンジされた「倉庫建築」が今でも見受けられます。

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かつて東堀留川があったころ、この付近にはたくさんの倉庫群があったことでしょう。

私的には「江戸名所図会」の"堀留"の図会が頭に浮かんできました。

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そして、親父付近となります。東堀留川は写真手前から交差点の赤信号の方角に伸びていたことになります。そしてこちらの写真も大正初期の親父橋の写真となります。当たり前ですが2階建ての建物しか、確認できません。

「庄司甚右衛門 略 甚右衛門が町奉行所に召出された折々、本多佐渡守はじめ列席の面々皆親父・親父と呼んだので、人々もまた聞き伝えて親父と呼び、寛永五年十一月のころ、甚右衛門の発議で江戸方面から吉原へ渡る橋を架けた際、人これを呼んで親父橋と称した」『中央区史』より

思案橋、親父橋共に、橋に名称が元吉原に関係していたのですね。現在でも中央区日本橋として人の往来は見受けられますが、江戸初期はたくさんの人の往来があった橋だったことでしょう。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

そして、赤信号の交差点を直進すると堀留児童公園へと繋がります。

東堀留川の川幅はこの公園とほぼ一緒ぐらいあったと言われています。

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現在この公園の地下には災害対策用応急給水槽が埋められているようです。そして公園の先には日本橋保健センターがあります。日本橋保健センターは、東堀留川跡の上に建てられているのですが、建物の一部分がピロティになっていて、まるで川の流れを残したような構造となっていました。また、ピロティの壁面には3枚のタイル壁画がありました。

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これは、もしかして東堀留川にあった思案橋、親父橋、萬橋かなと思い、図書館で調べたり、日本橋保健センターに電話してお伺いしたりしたのですが結局はっきりしたことはわかりませんでした。(日本橋保健センターのスタッフの方にはお仕事中にいろいろ調べて頂きありがとうございました。)

恐らく、日本橋今昔の壁画だろうと思います。詳細をご存じ方はご教授頂ければ幸いです。

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そして、日本橋保健センターの隣にスーパーホテルというホテルが建っています。そのホテルのエントランスの植え込み部分にホテル建設中に見つかった東堀留川の船着石積の一部がありました。私の個人的な意見ですが、もうちょっと目立つところにもっと大きな案内板をつけてもらいたいと切に感じました。普通に歩いていたら、まず気付く人はいないでしょう。このホテルと日本橋保健センターの前あたりが萬橋のあったところとなります。そしてこの先の日本橋消防署堀留出張所前で"堀留め"となります。もちろん住所も中央区日本橋堀留町となります。

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小網児童遊園から日本橋消防署堀留出張所手前までが東堀留川跡になります。

あっという間の短い距離でしたが、旧東堀留川跡にはかつてそこに間違いなく川があったことを感じさせてくれる街歩きとなりました。

 

 

千社札スタンプラリーにチャレンジしてきました!

[株式会社 彦晴] 2018年3月 8日 09:00

先日、中央区観光協会特派員の意見交換会に参加してスタンプ台帳を

もらったので千社札スタンプラリーにチャレンジしてきました。

私は人形町、銀座、築地、月島、日本橋、京橋の順で回ってきました。

これがスタンプが全部を押した台帳です。

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【人形町】

人形町は大観音寺からのスタートです。

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大観音寺横の路地は芸者新道と呼ばれていたそうです。花街だったころの

芳町の面影を今に伝えています。右手はねぎま鍋で有名な「よし梅」です。

 

【銀座】

G Info の前は数寄屋橋公園です。

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その奥には、ただいま制服問題で何かと話題になっている泰明小学校が

あります。手前のオブジェは岡本太郎氏の"若い時計台"です。

 

【築地】

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寄り道して、築地本願寺で1枚パチリ!

築地場外市場は平日なのに混んでました。

 

【月島】

月島もんじゃ振興会協同組合は月島西仲通りの入り口にあります。

西仲通地域安全センターです。大正期の巡査派出所です。

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看板建築群が美しいですね!

 

【日本橋】

守護を表す獅子像と繁栄を表す麒麟像です。

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お約束の「日本国道路元標」のプレートもパチリ!

 

【京橋】

「京橋エドグラン」に初めて入りました。本当に京橋のランドマークと

なるでしょう。

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3月に入り、寒暖差が激しい日が続いてますがもう春はすぐそこまで来て

います。花粉症でない方は「千社札スタンプラリー」是非チャレンジして

みてください。(ちなみに私は極度の花粉症です。今日帰宅してから

鼻水はじゅるじゅる、目はウサギの目になってしまいました)

 

 

 

箱崎川、浜町川&龍閑川を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年3月 6日 12:00

今回は、今は埋め立てられてしまった箱崎川、浜町川&龍閑川を歩いてみようという企画です。

コースとしては、隅田川の箱崎ポンプ所をスタートして箱崎川、浜町川&龍閑川を通って

外堀通りの龍閑橋を目指します。

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まず、左の写真は清洲橋から見た箱崎ポンプ所です。隅田川と箱崎川支流の

合流地点からのスタートとなります。その先の箱崎川支流の跡地には

首都高速道路株式会社東京東局があります。

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そして、東京シティエアーターミナルを過ぎると右手に有馬小学校が見えてきます。

ここから浜町緑道へと入っていきます。ここが箱崎川と浜町川の合流地点となり、

浜町川のスタートとなります。

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浜町緑道は新大橋通を渡って続きます。

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浜町緑道ではかわいらしい花が迎えてくれます。

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そして、甘酒横丁との交差点では弁慶も私たちを歓迎してくれています。

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左の写真は日本橋消防署人形町出張所となります。

そして久松警察署前の交差点を過ぎると浜町緑道も終わりとなります。

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久松町区民館を過ぎると戦後すぐに建てられた連鎖式の店舗が今でも残っています。

東京都は戦後のがれきの処理対策として昭和23年に龍閑川を昭和25年に浜町川を

埋め立てています。

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そして鞍掛橋を過ぎると竹森神社が見えてきます。

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そして中央区側から入ると龍閑児童遊園で千代田区側から入ると龍閑児童公園のこの地点で

浜町川と龍閑川は合流していました。真中の写真は直角に交差する龍閑川をあらわしている

と思われる。

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そしてここを左折します。こんな細い路地が中央区と千代田区の境界線となっていました。

隣にあるもっと交通量の多い道路でもと思いますが、昭和22年までは龍閑川があったから

なんですね。

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真中の写真は福田稲荷神社です。創建711年と非常に古い神社です。

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昭和通りを越えると龍閑川の埋め立て記念碑がありました。

真中の写真は両社稲荷神社です。

そして今川橋跡の記念碑です。

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店の看板が道路中央まで出てきています。大型車は通行できないでしょう。

そしてJRの高架下を抜けていきます。

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龍閑橋の親柱(日本最初の鉄筋コンクリート橋)が残されていました。

真中の写真は日本橋川と龍閑川の合流地点ゴールとなります。

東京にはいくつもの〇〇橋という地名が残っていますが、実際には川も橋も

ありませんが、今でも地名となって私たちに歴史を伝えてくれているのだなと感じた

今回の街歩きでした。

 

 

 

晴海に行ってきました!

[株式会社 彦晴] 2018年1月10日 09:00

明けましておめでとうございます。今年も中央区のレアな情報を発信していきたいと思っております。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

 

というわけで新年早々、晴海に行ってきました。中央区晴海、以前は東京国際見本市会場があったことで有名でした。私も学生だった頃、東京モーターショーに何回か行った思い出があります。それ以来となりますのでもう何十年ぶりということになります。まずは中央区の最南端晴海埠頭からスタートしました。

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写真は晴海埠頭より東京港を臨む写真です。東京港とてもきれいで静かでした。

晴海埠頭を背にして勝どき駅方面に歩きますとすぐ右手に高い煙突をもった建物が目に入ってきます。

 

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東京国際見本市会場跡地に建てられた中央清掃工場です。なんと煙突の長さは177.5メートルもあるそうです。工場の余熱を隣接するほっとプラザはるみに供熱しています。

 

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敷地内には「晴海見本市会場」の記念碑が設置されています。そして月島警察署を過ぎたところには日本万国博覧会事務局棟跡の説明版があります。

 

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晴海では2020年開催の東京オリンピックに向け、選手村の建設が始まっています。

 

豊洲大橋、黎明大橋そして築地大橋すでに架橋されています。しかし豊洲への築地市場移転の延期でいまだに使用されていません。

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ですのでちょっと変わった写真が撮れるのです。

左の写真は晴海5丁目交差点から築地方面を臨む写真

中央写真は朝潮小橋より黎明大橋を臨む写真

晴海5丁目交差点より豊洲方面を臨む写真

いずれの道路も使用されていないので車一台写っておりません。

 

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地名が消された案内板及び何も書かれていない案内板です。

 

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左の写真は築地大橋です。もちろん対面側は築地市場となります。ここから先はまだ道路がありません。

右の写真は勝鬨橋です。今は開きませんが双葉跳開橋として有名です。隅田川の最も下流にかかる橋は築地大橋となったのです。

 

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そして東海道膝栗毛を書いた十返舎一九の墓のある真円山東陽院によってきました。

 

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東陽院のすぐ近くに神社らしき建物を発見しました。そこは住吉神社の御旅所(遥拝所)でした。月島地区の埋め立てが進み、氏子区域の拡大に伴い遥拝所として御旅所が設置されたそうです。

 

今回の晴海・勝どきの街歩きはとても興味深いものとなりました。江戸時代佃島から始まり月島、晴海と埋め立てが進み、2020年には東京オリンピックを迎えようとしている今、この地区はまた変貌しようといています。今でしか見ることのできない景色などたくさんあります。まだまだ寒い日が続きますが、是非この晴海・勝どきに足を運んでもらいご自身の目で変わりゆく街並み・景色を実感してもらいたい。