こんにちは。新人特派員の(ハネス)です
3月が近づき、「小さな春」が見つかる季節になってきましたね。
中央区ゆかりの俳人宝井其角は、江戸の春(正月)についてこう詠みました。
「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」
普段売れそうもないお寺の鐘さえ売れるほど、江戸は繁栄していたと伝えています。
今でこそそのような光景は見られなくなりましたが、
中央区内には、長いこと時の経過を見てきた鐘がいくつも残っています。
今回は、そのような鐘のいくつかを見に行ってみました
■銅鐘・石町時の鐘(日本橋小伝馬町5-2)/日本製
2代将軍秀忠の頃に本石町に設置され、江戸城下の人々に時刻を知らせたこの鐘は、
長崎屋の近くにあったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」という川柳が詠まれたほど。
鐘は高さ約170cmと成人男性の平均身長くらいあります
(中央区の約170cmと言えば...大観音寺の鉄造菩薩頭も同じサイズ感です。)
大晦日には特別にこの鐘を撞くことができるので、いつか撞いてみたいと思います
■カトリック築地教会(明石町5-26)/フランス製
こちらには、通称「江戸のジャンヌ・ルイーズ(JEANNE LOUISE DE YEDO)」と呼ばれる銅製洋鐘(区民有形文化財)があります。
こちらの鐘が鋳造・寄贈されたのは1876年。
当時は明治時代で、既に「江戸」から「東京」に改称されていました。
では、なぜ鐘銘にある通り「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたのでしょう...
その理由として、レンヌへの鐘の発注当時は、まだ「東京」という呼称が徹底されていなかったからと考察されています
隅田川花火大会の起源とも言える出来事は1732年にありましたが、
その呼称も時代とともに変化し、今の呼称が定着したのは予想以上に新しいようです。
呼称の変遷を見ると、時代背景や意図が垣間見られて面白いですよね
かつてこの鐘とともにデュエットをした鐘「アデレード・ジョゼフィーヌ」は、
マダムはるみさんが昨年ご紹介していた通りです
どちらの鐘も太平洋戦争時の金属供出は免れ、大砲にならずに済みました。
余談ですが、ジャンヌ・ルイーズが今日まで無傷で残っているのに対し、
アデレード・ジョゼフィーヌの方は、時代の荒波を乗り越えてきました
鐘銘にフランス人法学者ボアソナード氏の名前が刻まれていたため、
太平洋戦争時の金属供出は逃れられましたが、
一度割れてしまったことがあり、関口教会の信者の寄付で1957年に改鋳されています
■平和の鐘(日本橋3-4・京橋1-1間中央分離帯内)/オランダ製
こちらの鐘は、1989年に日蘭修好380年を記念し、
国際都市の一員として世界平和を願い、中央区が設置したものです。
26個の鐘は、カリヨン・スウィングベル製造で世界一の規模を誇り、
100年以上の歴史と優れた技術・実績を持つことからオランダ王室より「ロイヤル」の称号が与えられた
オランダのロイヤル・アイスバウツ社が製造しました
その鐘は、毎時0分になると中央区の歌「わがまち」に代表される曲を奏でます。
そのメロディーが気になる方、遠方にお住まいの方は、
中央区平和祈念バーチャルミュージアムからどうぞ
■銀座の鐘(銀座教会:銀座4-2-1)/英国製
こちらは上記3つの鐘と比べてそれほど知られてはいませんが、
銀座教会の階段の中腹右手側にあり、
第3次会堂ができた1928年以降、約90年銀座の移り変わりを目撃してきた歴史ある鐘なのです
しかし、鋳造されたのは1878年と古く、カトリック築地教会の鐘と同年代!
バーミンガム市のブリュウス・アンド・サン社(Blews & Son)が手がけ、なんと227kgもあります
オーナーのウィリアム・ブリュウスは、真鍮燭台を作る職人として記録が残りますが、
教会の鐘も鋳造していたようで、本拠地のバーミンガムにも当時の鐘が残っています。
この教会の鐘は一体どういう経緯で海を渡ってきたのか...気になりませんか?
ということで鐘銘を見てみると、鋳造社や教会に関する単語が見られますが、3~4行目をよく見てください
なんと、NAGASAKI JAPANと刻まれているではないですか!
これは、鐘が銀座に来るまでの大きな手がかりとなります。
英国好きの私としてはここで引き下がれないので、さらに調べたところ、次のようなことが分かりました。
1873年(明治11年)、後に出島聖公会神学校となる我が国最古プロテスタントの神学校が長崎に設立されました。
(赤い矢印で示した建物です。昨年訪れた際は、銀座教会と関係があるなんて知るよしもありませんでした。)
その際、あのトマス・グラバーが特注したこの鐘が取り付けられました。
しかし、1922年に発生した地震で鐘が落下...
その後、宣教師スコットが買い取っています。
その翌年、今度は関東大震災が起こり、銀座教会が焼失...
再興したのは、前述の第3次会堂が完成した1928年でした。
この際にスコットから入手した鐘が取り付けられたということです。
ようやくこの鐘に見る長崎と銀座の関係性が浮かび上がってきましたが、
なぜグラバーがブリュウス・アンド・サン社に特注したのか、
宣教師スコットとはどのような人物で、銀座教会とはどのような関係があったのかという点は、まだ明らかにしきれていません
詳細が分かった際には、改めてブログでご紹介します!
■おわりに
今回は区内で見られる鐘をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
鐘の製造国が全て異なり、今も昔も中央区は国際的だと改めて感じるとともに、
思いがけないところに長崎との関係性も見つかりました
ご紹介した通り、中には引退した鐘もありますが、
このように現役時代の歴史を読み解くと、当時の時代背景等が少しずつ見えてきます。
中央区では、「鐘ひとつ」をとっても面白いと思っていただけたら幸いです
【参考文献・ウェブサイト】
国立大学法人九州大学大学院理学研究院附属地震火山観測研究センター「長崎県の地震活動概況(2003年8月)」(2019年2月16日閲覧)
築地カトリック教会百周年記念誌編集委員会『つきじ―献堂百周年記念号―』(築地カトリック教会、1978年)※非売品(教会で見せていただけます。)
長崎バプテスト教会「お薦め散策コース - Bコース:眼鏡橋から出島・大浦方面③」(2019年2月16日閲覧)