中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

中央区の歩道っておもしろい!22【明石町緑道】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月13日 12:00

green01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。

今日は、聖路加ガーデン前の緑道を歩きたいと思います。

歩道内の植え込みは緑豊かで、小さな水路が走り、春には桜並木がきれいです。

明治時代、ここ明石町一帯に、築地外国人居留地があったことを物語る、貴重な遺構や記念碑を訪ねてみましょう。

greenmap.png

green02m.JPG♪ トイスラー記念館

昭和8年(1875)、隅田川畔に聖路加国際病院の宣教師館が建設されました。設計は、聖路加国際病院の設計にも携わった、J・バーガミニィ。鉄筋コンクリート造りの、一部木造を用いた2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる、重厚な風格のある建物です。
外部に柱や梁を表現した、ハーフティンバー風の意匠を凝らしており、室内はチューダー・ゴシック風、玄関やリビングなどに、重厚な木の内装が施されています。平成10年に移築復元され、現在、聖路加国際病院の中庭に建っています。


green03m.jpg♪ アメリカ公使館

安政6年(1859)、初代アメリカ公使ハリスは、現在の港区善福寺に、アメリカ公使館を開設します。ついで翌年には、築地外国人居留地に公使館を新築し、ここに形容を整えました。木造2階建て、クリーム色の洋館だったといいます。

明治23年(1890)、現在のアメリカ大使館所在地、赤坂へ移ります。築地外国人居留地内の跡地には、小松石でできた5基の記念碑が残されていました。約1m四方の石材に、アメリカを象徴する文様が刻まれています。
この記念碑は、聖路加ガーデンの中庭に2基、聖路加国際病院の中庭、トイスラー記念館前に3基が保存されています。


green04m.jpg♪ ヘンリー・フォールズ住居跡

スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズは、明治7年(1874)から同19年(1886)までの日本滞在の間、この地に居住しました。
日本で行われていた指印の習慣に興味を持ち、科学的な指紋の研究を行いました。明治13年(1880)、英国の雑誌「ネーチュア」に投稿した論文は、科学的指紋法に関する世界初の論文といわれ、その中で、犯罪者の個人識別の経験を発表し、指紋の遺伝関係にまで言及しました。のち明治44年(1911)、我が国の警察において、はじめて指紋法が採用されました。


♪ 隅田川畔にある記念碑

green55m.jpg


1.築地運上所跡の地碑
江戸幕府は慶応3年(1867)、築地鉄砲洲明石町一帯を、築地外国人居留地と定め、税関業務等を行う運上所を設けました。これが、東京税関の始まりです。

2.電信創業の地碑
明治2年(1869)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた伝信機役所を結ぶ、約32キロメートルの電信線架設工事が始まりました。同年12月に業務を開始。我が国最初の公衆電気通信であり、文明開化に大きな役割を果たしました。


♪ 学校の記念碑
green77m.jpg

1.青山学院記念の地碑 明治10年(1877)
2.明治学院発祥の地碑 明治10年(1877)
3.女子聖学院発祥の地碑 明治38年(1905)


green11m.jpg春になり、きらきらと光る水面に、桜の花びらの浮かぶ様子が、湊っ子は好きです。

水路には、小さな噴水があり、ほんの一歩でまたげるほどの、かわいらしい橋も架かっているんです。

ここは名もない道ですが、歩く人を楽しませてくれる、個性豊かな通りです。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png
第29号 平成30年12月9日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!21【居留地中央通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月 3日 12:00

kyotu01.JPG

こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地六丁目4番から湊一丁目1番までの、「居留地中央通り」を歩きたいと思います。この通りは、平成25年度に愛称のついた、京橋地域で一番新しい通りです。最近、整備の完了した入船・湊地域の歩道には、トキワヤマボウシの木が植えられました。

kyotyumap.png


♪ YEDO HOTEL


晴海通りに面した、築地市場内の駐車場は、その昔軍艦操練所があった場所です。

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)、この地にあった築地講武所内に、軍艦教授所を創設したのが始まりでした。

旗本や御家人、諸藩士から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転の練習などが行われ、向将監(むかいしょうげん)や、勝海舟などが頭取を務めました。

慶応元年(1865)には、海軍所と改称されましたが、類焼により、現在の旧浜離宮庭園の地に移ります。

明治元年(1868)、新政府により「東京開市」が各国に通告され、今の明石町一帯に、築地外国人居留地が設けられました。海軍所跡地に建設された「築地ホテル館」は、「外国人旅館」「YEDO HOTEL(江戸ホテル)」などとも称され、交易で訪れた外国人のための逗留施設として開業しました。

kyotu10.png設計・施工は、清水喜助と考えられており、木造2階建、客室は102室もある大きなホテルでした。

外壁はなまこ壁、各室には暖炉が備え付けられて、海岸側にはベランダがあり、東京湾を一望できました。

また、印象的なのは、建物の中央には塔屋が設けられており、そこに鐘が吊るされて、さらに塔屋を中心に、左右対称の造りになっているところです。

これは、明治20年代まで各地に見られた、「擬洋風(開化式)建築」の典型的な特徴であり、外観は洋風でありながら、建築資材や技法は和式となっています。

しかしながら、明治5年(1872)、銀座の大火により、築地ホテル館は全焼してしまいました。


kyotu08.jpg♪ 築地外国人居留地への玄関口


さぁ、あかつき公園にさしかかりました。今のあかつき公園一帯は、かつて「明石堀」と呼ばれる大きなお堀でした。その中央に架かっていたのが、外国人居留地への玄関口とされた、「新栄橋」です。

居留地中央通りは、かつての新栄橋を渡る格好になっています。新橋から来た多くの外国人は、この橋を馬車で渡って、築地外国人居留地に入りました。

kyotu02.JPG♪ カトリック築地教会

聖ルカ通りを横切り、居留地通りと交差する地点、かつての居留地「36番」には、樹木に囲まれた小さな教会が、ひっそりとたたずんでいます。カトリック築地教会です。

カトリック築地教会は、明治7年(1874)、東京で最初の教会として、築地外国人居留地に建てられました。当初の名前は、築地聖ヨゼフ天主堂。東京で最初のカテドラル(司教座聖堂)でもありました。

kyotyu12.png明治11年(1878)、ゴシック様式赤レンガ造りの聖堂が建てられます。明治21年(1888)には、神学校内に暁星学園が発祥しました。ところが、関東大震災により焼失。現在の聖堂は、昭和2年(1927)、ジロジアス神父のもと再建されたものです。

レイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、ドリス式オーダー列柱、ペディメント(破風)には、チューリップとバラの彫刻が施されています。

明石町一帯は空襲を免れ、カトリック築地教会は、東京で最も古い教会のひとつとして、壮麗な姿を今に伝えています。

kyotu11.png聖堂の中に保存されているのは、「江戸のジャンヌ・ルイーズ」の愛称で親しまれた、アンジェラスの鐘です。明治9年(1876)にフランスのレンヌより贈られたもので、大小ふたつの鐘の対でした。ルイーズは小さいほう。大きいジョセフィーヌは、大正9年(1920)、大司教座と共に、関口教会へ移りました。


♪ 居留地中央通りに建つ記念碑

kyotu33.jpg


1.明治14年(1881)雙葉学園発祥の地碑

2.明治15年(1882)立教女学校発祥の地碑

3.明治21年(1888)暁星学園発祥の地碑

4.明治28年(1895)関東学院大学発祥の地碑


また、居留地の外には、外国人に家を貸すことの許された「相対借地地域(雑居地)」というものがありました。居留地内には住まわず、この地区に住む外国人も多かったそうです。

相対借地地域は、居留地中央通りを沿うようにして、現在の築地六丁目・七丁目、入船・湊地域と、新富町がそれにあたりました。

今も入船地域では、聖路加国際病院の十字架がまっすぐに見える路地があります。地域のみなさんには、"十字架通り"の愛称で親しまれています。
kyotyu13m.png

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png

第28号 平成30年12月2日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!20【聖ルカ通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年11月26日 14:00

lukes01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地三丁目8番から、明石町9番までの「聖ルカ通り」を歩きたいと思います。

聖ルカ通りに木漏れ日を降らすのは、アメリカより友好の印として贈られたハナミズキです。

明治元年(1868)から同32年(1899)まで、現在の明石町一帯には、築地外国人居留地が置かれ、宣教師や医師などが多く居住し、日本における布教活動の拠点となりました。明治8年(1875)にはアメリカ公使館が設けられるなど、アメリカとの関わりが深い地域です。

lukesmap.png


lukes03m.jpg♪ 明石町のシンボル聖路加

明治33年(1900)、宣教医師R・Bトイスラーが来日、同34年に築地病院を聖路加病院と改称し発足します。同37年には聖路加看護学校を開設し、ここにトイスラーの目指した、信仰・医療・看護教育という、3つの基本構造が整い、聖路加病院はその後大きく発展を遂げました。そして大正6年(1917)、聖路加国際病院と名を改めたのです。
聖路加国際病院の建築は、当初A.レイモンドが設計にあたりました。その後、J・バーガミニィにゆだねられ、昭和11年(1936)、ネオ・ゴシック様式の聖ルカ礼拝堂が建造されます。今も礼拝堂からは、毎日定刻に鐘の音が響き渡り、現在の明石町とその周辺地域に、かつての外国人居留地時代を思い起こさせてくれます。
 

♪ 聖ルカ通りに建つ記念碑

lukes04m.JPG

蘭学事始地碑
豊前国(現在の大分県)中津藩奥平家の藩医で、蘭学者でもあった前野良沢は、杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らとともに、オランダ語の医書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、安永3年(1774)、「解体新書」を出版しました。

lukes05m.jpg

慶応義塾発祥の地碑
中津藩出身である福沢諭吉(1835-1901)は、安政5年(1858)この地に蘭学塾をひらき、現在の慶応義塾大学へと発展します。

lukes06m.JPG

女子学院発祥の地碑
明治3年(1870)、宣教師ジュリア・カロゾルスにより女子学院の前身であるA6番女学校が創設されます。築地外国人居留地に初めて建った洋館で、人々の注目を集めました。(実際の旧所在地とは異なります)

lukes07m.JPG

立教学院発祥の地碑
明治7年(1874)、C・Mウィリアムズ主教により立教学院のルーツである私塾、立教学校が開設されました。

lukes08m.JPG

トイスラー記念館
聖路加国際病院の宣教師館として、昭和8年(1933)に建設されました。外観には、柱や梁などの骨組みを表現した、西洋風の建築意匠が見られます。現在は、病院内中庭に移築復元されています。

lukes09m.JPG

浅野内匠頭邸跡碑
忠臣蔵で名高い、赤穂藩主 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の屋敷跡です。元禄14年(1701)江戸城中で起こった刀傷事件により、無念の切腹を命ぜられ、お家断絶となりました。

lukes10m.jpg

芥川龍之介生誕の地案内板
芥川龍之介(1892―1927)は、明治25年、耕牧舎という牛乳牧場の長男として、ここに生まれました。夏目漱石の門下に入り、「河童」「羅生門」「或阿呆の一生」など、多くの作品を残しました。

 

♪ 歩道美術館へようこそ!

lukes11m.jpg

かつての築地外国人居留地を物語る、ガス灯の絵や居留地の番地を配すところなど、お洒落ですね。(写真は、平成30年4月撮影)
 

lukes12m.jpg

旧暁橋の歩道には、舗装ブロックで形作られた「区の花つつじ」の文字と、つつじの絵がありまます。
lukes13m.jpg橋の上のカラフルなオブジェは、風をイメージしているとか。今年度から、「花咲くまち角」の花壇も新しく設けられ、人々の賑やかな往来と相まって、活気あふれる通りです。
 

 

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png

第27号 平成30年11月23日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!19【居留地通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年11月 8日 14:00

kyo01.JPGこんにちは、湊っ子ちゃんです。

今日は、明石町1番から、明石町8番までの「居留地通り」を歩きたいと思います。明治時代、現在の明石町一帯には、築地外国人居留地がありました。

♪ 江戸幕府と開国

安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、これまでの鎖国を停止し、実質的な開国へと歩み始めたのです。同年、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結し、これを「安政五カ国条約」といいます。
この条約に基づき、箱館(函館)・神奈川(横浜)・新潟・長崎・兵庫(神戸)の五港を開港し、江戸・大坂(大阪)を開市しました。

さて、開港と開市(かいし)の違いですが、開港は外国船の出入りが許されていたのに対し、開市は外国船の出入りはできない点にあります。そのため、商取引の利便上から、開市場は開港場に近いところに設けられる必要がありました。

また、日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や、商取引のための専用特別区として、開港場と開市場に設けられました。

明治3年(1870)、ようやく整備された「築地外国人居留地」でしたが、すでに開港場として発展していた横浜に出遅れたばかりか、明治5年(1872)、新橋と横浜間に鉄道が開通されると、外国の商人たちは築地に住まわず、横浜から日帰りで取引を済ませるようになりました。

そのため、築地外国人居留地にはあまり人が集まりませんでした。しかしそのことが、築地外国人居留地に独特の文化をもたらし、日本の近代化に多大な影響を与える一地区を形成することになるのです。


kyomap200.png♪ 築地外国人居留地の特色

横浜や神戸が、貿易の町として発展する一方で、築地外国人居留地には、次第に宣教師や教師、医師などが住み始め、日本における布教活動の拠点となり、宣教師館や教会などが建ち並ぶなど、文化的な色を濃くしてゆきました。

明治6年(1873)に、キリスト教禁制の高札が撤去されたことも、このような布教活動を後押ししたと言えるでしょう。

kyo05.png宣教師たちは、それぞれに教会を建て、神学校やミッションスクールを創って布教活動に活躍しながら、医療事業や慈善活動にも貢献しました。築地外国人居留地で生まれた教派は13にものぼり、同じく13校がここで発祥しました。今日でも名高い学校の多くが、ここ築地外国人居留地で発祥しているのです。また、教会は10棟を数え、異国情緒漂う町並みが造られていったのです。

kyo02.jpg♪ 今も残るレンガ塀とガス灯

築地外国人居留地内の番地は、1番から52番までありました。そのうち、隣り合った「52番」と「42番」の間に築かれていたレンガ塀が、今も残っています。現在、消防署と明石小学校の校庭がある並びです。


明治11年(1878)から32年(1899)まで、「52番」には聖パウロ教会がありました。「42番」には、明治9年(1876)から22年(1889)まで新栄女学校、同28年(1895)から32年まで東京中学院があったのです。このkyo04png.pngレンガ塀は、「イギリス式」と呼ばれる積み方をされているのが特徴です。


kyo03.jpg明治末年のものと思われるガス灯も残っています。
コリント式の鋳鉄製で、左右に広がった腕金や、その下に見られる帯状の繰り形など、特徴的な装飾が施されています。照明部分は、後に電気灯として使用された経緯が伺えます。今も、日が暮れると灯りがともり、往年の居留地時代を思わせてくれます。


大通り(明石町緑道)に出たところに、かつては浦堀橋が架かっていました。下を流れていたのは鉄砲洲川です。この橋を渡ると、左手には明治学院大学の前身である東京一致神学校があり、隅田川に向かいB6番女学校、A6番女学校と続きました。kyo06.png
A6番女学校があったのは、居留地「6番」、隅田川畔に位置します。明治3年(1870)、宣教師ジュリア・カロゾルスにより創設された、のちの女子学院です。築地外国人居留地に初めて建った洋館で、人々の注目を集めました。

henry100.png♪ ヘンリー・フォールズと医療活動

浦堀橋を渡って右手には、指紋研究で名を馳せた、スコットランド一致長老教会の宣教医師、ヘンリー・フォールズ(1843-1930)の住居がありました。居留地「18番」にあたります。
ヘンリー・フォールズは、明治7年(1874)から同19年(1886)まで日本に滞在し、布教や医療活動、医学生の指導にあたり、築地病院を開いたほか、貧民救済のために謝礼なしで診察を行うこともありました。

また、日本における視覚障害者教育の必要性を感じ、明治13年(1880)、「訓盲院(くんもういん)」を創設しました。
訓盲院は、、ロマネスク風二階建て、総レンガ造りの校舎で、築地三丁目(現在の築地四丁目)に建設されました。設計は、ジョサイア・コンドルによるものでした。その後、明治20年(1887)、東京盲唖学校と改称し、同23年(1890)、小石川へ移転しています。


明治32年(1899)、条約改正により居留地制度が解かれたあとも、築地外国人居留地に漂う雰囲気や町並みは、すぐには変わらなかったそうです。しかし残念ながら、大正12年(1923)の関東大震災において、その面影はすべて失われてしまいました。

白川晃は「ちよろぎ」(昭和48年刊)のなかで、

― 赤煉瓦の異人館は外壁に蔦を這はせて、青葉や紅葉の時が見事だった。家々の窓は大抵上げ下げ窓で、外側には一様に古風な鎧扉がついており、それは永い間に塗り重ねられた暗緑のペンキの色で、彫刻のやうに重厚な落付きを示していた。―

と、築地外国人居留地の様子を懐かしく振り返っています。

現在、レンガ塀とガス灯は、居留地通りと居留地中央通りとの交差点に保存されています。かつて築地外国人居留地がこの地にあったことを物語る、数少ない遺構として、たいへん貴重な存在です。



中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png

第26号 平成30年11月6日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!18【大伝馬本町通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年10月25日 18:00

den01.JPGこんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、日本橋本町三丁目6番から、日本橋大伝馬町16番までの「大伝馬本町通り」を歩きたいと思います。

♪ 出版の町としての大伝馬町
江戸時代、「通油町(とおりあぶらちょう)」という町がありました。現在の、大伝馬町13番地域です。この辺りは、芝居町が近かったことから、書肆(しょし)が多くありました。
元禄年間(1688-1704)に、浄瑠璃本を扱う「鱗形屋」、天明年間(1781-89)には、紅絵(浮世絵の一種)で名を馳せた町なのです。

そんな通油町に、江戸時代中期の人気出版人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう 1750-1797)の書肆「耕書堂(こうしょどう)」がありました。
耕書堂は、天明3年(1783)、この地に店を構え、黄表紙(きびょうし)・洒落本(しゃれぼん)・狂歌本・錦絵などを刊行し、なかでも、大田南畝(おおたなんぼ)や山東京伝(さんとうきょうでん)などの戯作者、葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの絵師の作品を多く出版するなど、江戸一流の版元として多くの実績を残しました。

den02.JPG 「画本東都遊」葛飾北斎 画

耕書堂の案内板は、大伝馬本町通り沿い、大伝馬町13番地域にあります。

また、中央区にお墓のある、十返舎一九(じっぺんしゃいっく 1765-1831)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」を出版した版元のひとつに、おなじく通油町の、村田屋治郎兵衛をあげることができます。

ほかに、江戸暦や千代絵を売った仙鶴堂鶴屋喜右衛門や、群玉堂松本善兵衛、松茂堂浜松屋幸助などの刷物(すりもの)屋も有名でした。和紙は軽く丈夫なうえ、かさばることもないので、こういった刷物は、江戸土産にはもってこいでした。


den03.png♪ 木綿問屋街としての大伝馬町

もうひとつ、とくに大伝馬町を特徴づけていたのは、旧一・二丁目の木綿問屋街です。

旧大伝馬町二丁目の北側一帯には、三河国(現在の愛知県東部)の出身で、大伝馬町の名主である、道中伝馬役 馬込勘解由(まごめかげゆ)が屋敷を構えていました。その配下の町人が、町内で三河木綿の問屋を開いたのが、始まりとされています。

また、かつて大伝馬町の東側に開削された浜町川は、この町が問屋街として繁栄する礎を築きました。江戸後期の「江戸買物独案内」では、木綿問屋だけで22店と述べています。

大伝馬本町通りの南側、かつての通旅籠町(とおりはたごちょう)には、「大丸新道(だいまるじんみち)」と呼ばれる通りがありました。その名のとおり、寛保3年(1743)、下村正右衛門の経営する呉服店、大丸屋がここに開業したのです。

その後大伝馬町は、「大伝馬町の木綿店(もめんだな)」と称されるほどの木綿問屋街を形成し、今日までその繁栄を誇っています。

今回歩いた大伝馬本町通りからは、スカイツリーがまっすぐ先に見えました。振り返れば、通りの反対側は、べったら市の賑やかさです。江戸時代のその昔も、大伝馬町の大店は、正月20日と10月20日、恵比寿講を盛大に執り行ったそうです。
den04.png

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png
第25号 平成30年10月22日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!17【日銀通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年10月 9日 18:00

niti01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、日本橋本石町四丁目6番から日本橋室町一丁目1番までの、「日銀通り」を歩きたいと思います。日銀通りはその名のとおり、日本銀行本店本館に続く道です。

niti03m.png明治15年(1882)に公布された日本銀行条例により、日本銀行本店本館は、わが国の中央銀行としての業務を開始しました。
当初は、旧永代橋のたもとにあった、北海道開拓使物産売捌所の建物を使用してのはじまりでした。

ここは、北海道の特産品を陳列して販売する建物で、竣工は明治14年(1881)、設計は鹿鳴館でおなじみ、工部省のお雇い英国人ジョサイア・コンドルです。

「ベネチアン・ゴシック様式」の重厚で美しい外観を持った建物で、人々の注目を集めていたといいます。

niti02m.JPG日本銀行が現在の場所に移ったのは、明治29年(1896)のこと。コンドルに師事した辰野金吾の設計です。

「将来を展望し、堅固・宏壮なものを作る」それが、当時の日銀総裁 川田小一郎(かわだこいちろう)が掲げたスローガンでした。

石積みレンガ造りによる「ネオ・バロック様式」の建物は、ベルギーの中央銀行をモデルにしたといわれており、明治時代における洋風建築の2大傑作とされます。昭和49年(1974)、国の重要文化財に指定されました。

niti04m.pngまた現在、日本銀行本店本館の建つこの場所は、江戸時代の「金座(きんざ)」跡地です。金座とは、小判の鋳造を行うところで、勘定奉行が取り仕切っていました。

それ以前は、「手前吹(てまえぶき)」といって、鋳造所というものはなく、御金改役(ごきんあらためやく)後藤庄三郎光次の指示により、小判師が原判金を各自作り、合格したものに後藤家の極印(ごくいん)を打つという仕組みでした。

このような経緯をもつ金座も、明治2年(1869)、造幣局の設立によって、その歴史に幕を閉じたのです。

日本銀行は、明治20年代から、全国に支店が設置されはじめ、その多くは本店同様、既存の建物を利用しての営業開始でした。本店の新しい店舗が完成し、各店の業務が拡大するなかで、辰野金吾により順次新しい店舗が造られていったのです。

♪ 歩道美術館へようこそ!
日銀通りの歩道でみつけた、素敵な模様をご紹介します。

niti08m.jpg

今回みつけた歩道の絵は、町への誇りと愛着が感じられる、石造りの渋いものでした。これからも、地域の顔が見える、素敵な歩道との出会いを大切に、中央区を歩きたいと思います。


中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

sign200.png
第24号 平成30年10月7日