[阿舒庵亭主]
2013年1月24日 08:30
手元にある文久元年(1861年)の地図を見ると現在の勝鬨橋のたもとに「御軍艦操練所」があります。安政4年(1857年)に軍艦教授所(のちに軍艦操練所となる)が築地講武所内に創設され万延元年(1860年)には専用地となりました。その後、火災で浜離宮に移っているが長崎の海軍伝所に続く海軍の歴史遺跡です。
軍艦操練所のあった勝鬨橋のたもとに「海軍経理学校の碑」があります。明治7年(1874年)に創設された海軍会計学舎は明治40年に海軍経理学校となり昭和7年から昭和20年の終戦時まで築地にありました。この学校が生んだ多くの経理マンが戦後日本の復興に寄与したと云われています。
築地市場場内にある「魚河岸水神社」の前には「旗山」の碑があります。明治5年にこの地に海軍省がおかれ海軍卿旗が掲揚された「浴恩園」の築山を人々が旗山と呼んだことを記念する碑です。ここはいわば我が国の海軍発祥の地です。
銀座方面に向かい、采女橋の手前、国立がん研究センターの裏には「海軍兵学寮跡」と「海軍医学校跡」の碑が並んでいます。明治2年に築地に創設された海軍操練所は翌3年には海軍兵学寮と改名されました。明治9年には海軍兵学校と改称され明治22年に広島県の江田島に移転するまで海軍の教育はここで行われました。江田島に移転した後、この建物は関東大震災で焼失するまで海軍大学校として利用されました。
海軍軍医の教育は明治6年に海軍病院付属学舎として築地で始まりました。幾多の変遷はありましたが昭和4年に新校舎ができるまで海軍医学校としてこの地で幾多の医療関係者を育てました。
現在、国立がん研究センターでは新しい建物を建設中で通常は出入り口が閉鎖されていてこの碑は見られませんが、警備員に声を掛ければ見学は可能です。
今は築地の前面は隅田川となっていますが、明治初期においては海岸であり海軍の多くの施設がこの地にあったのは当然のことと思われます。隅田川に向かって往時の情景を思い浮かべるのも一興です。
[阿舒庵亭主]
2012年12月 4日 16:23
三月にサラリーマン稼業から足を洗うまで毎日、銀座一丁目で地下鉄を乗り降りして職場まで30分ほど歩いた。地下鉄の駅の出口に気になる店がある。「お仏壇のはせがわ」である。可愛い少女が出てきて、「おててのしわとしわをあわせて、しあわせ。なぁ〜むぅ〜」というCMの店である。店を覗くと、お人形が展示してあったり、着物が展示してあったりして普通の仏壇屋さんとは少し違う。
散歩の途中で立ち止まってみると、お仏壇が一つも見えない。人形と着物しか展示してない。変だなと思って見ていると、男性社員が声を掛けてくれたので、店内に入ることにした。今回は人形作家の作品を展示しているとの事であった。「仏壇屋さんなのに何でこう云うものを展示しているのですか?」と前々からの疑問を質問してみた。
簡単に言えば「お仏壇と云うのは日本工芸の粋を集めたものであり、展示品はお仏壇製作に関係する工芸作家の作品です。」という返事だった。仏壇屋さんでも、はせがわさんクラスになるとお仏壇以外にも大寺院の内装等もするとのことだ。
「よろしければ当社のギャラリーをご覧になりませんか?」と誘われて六階に「ハセガワ・ミュージアム」があることを初めて知った。上がってみるとお仏壇だけでなく彫刻、塗物、金箔、絵画等の日本工芸美術品が色々と展示されている。お仏壇の製作にはこのような各種の工芸技術が不可欠との話を伺った。そういった関係から、はせがわさんでは東京芸術大学との関係も深いとのことである。
若い工芸作家を育てるために「東京芸術大学お仏壇のはせがわ賞」を提供され入賞した作品の展示会も開催されているとのことだ。展示品の中には東京芸術大学の院生の卒業制作の作品も何点か展示されている。将来はこういった作品の中から平成の文化財が生まれてくるかもしれないと思って見ると興味津々である。
当然、立派な仏壇も展示されている。明治時代のお仏壇が処分されそうになったものをはせがわさんが求めて維持管理されているものもある。現代ではなかなか出来そうもない立派なお仏壇である。下世話な話だが一番高い仏壇の値段を聞いてみると私のマンションよりはかなり高い。しかし、すべてが超高価な訳ではない。これくらいなら私にも手が出そうと思われるものもある。
素晴らしい工芸作品をみて、これからも新しい企画があれば覗かせてもらおうと思っている。ひょっとしたら自分の終の棲家も見つかるかも知れない。
[阿舒庵亭主]
2012年11月27日 08:05
本屋さんはチョッと考えると知的な職業のようだが、私的な経験ではモノを売る商売の中で本屋さんだけが特別に知的とは思えない。しかし、今まで知り合った限られた経験から言うと古本屋さんというのは結構趣味人が多くて面白い人が多い。新刊書だけを扱う本屋さんは当然ながら趣味というより商売に集中されている。
銀座から日本橋に向かうと、京橋のたもとにLIXILブックギャラリーという小さな本屋さんがある。
新刊書を扱っているから私の仕分けでは普通の商売屋さんだ。ところが、この本屋さんには何か主張があり、古本屋さんのように知的かつ趣味的だ。ザッと眺めてみると建築関係、ガーデニング関係、美術関係、民俗学関係など、一定のカテゴリーの本だけを扱っていて独特の雰囲気がある。
前から気になっていたことを、お店の方に聞いてみた。「この品揃えは誰が考えているのですか?」と。対応してくれた二人の女性が決めて販売しているとのことであった。「お二人は司書とか学芸員とかの資格をお持ちなんですか?」と立ち入った質問をすると「とくにありません。美術を勉強したりはしていますが。この店を10年ほど前からやっていますから先輩方もいらっしゃるし。」との返事であった。要するにこのお二人の感性で品揃えをしているのだ。
この書店はもともとはINAXという製陶会社の文化推進部が始めたものらしい。現在ではINAX以外に、トステム、新日軽、サンウエーブ工業、東洋エクステリア等の建築関連の各社が昨年統合して作ったLIXILグループの文化企画グループが経営しているとのことであった。この本屋さんの品揃えは基本的には会社業務に沿ったものではあるが、その域を超えた文化活動であり、メセナとしての成功例ではないかと思っている。
更に、この書店の二階にはLIXILギャラリーがあって各種の展示会を常時開催している。私が訪問した時は、白磁の「大谷祐里枝展」、布の芸術「酒井稚恵展」と「建築を彩るテキスタイル展」が開催されていた。余談ながら「建築を彩るテキスタイル展」は京都の川島織物の美と技の副題であるが、明治初期からの川島織物の歴史が見られて非常に驚くとともに感心した。
銀座通りは本屋さんも一味違う。散歩の途中にチョッと寄り道してみたい店である。
[阿舒庵亭主]
2012年10月24日 08:30
銀座を歩くとビルの一階だけでなく、ビルの上層階にも沢山の画廊があります。しかし何となく入りづらい印象を持っていました。今回、中央区観光協会特派員の仕事の一つである「まち歩きツアー」の引率を依頼されて、たまたま銀座の画廊に足を踏み入れました。
約10人のツアー参加者の皆さんと最初に行ったのはビルの七階にある「東京画廊」さん。ここでは「初沢亜利写真展」が行われていました。「Modernism 2011-2012 東北-東京-北朝鮮」とのテーマでの写真が沢山展示されていました。写真は大人が立ってみる視線の位置と床に壁に沿ってと二段に展示されていました。「作品は自由に位置を変えて見てくださっても構いません。」との説明があり意外な印象を受けました。東京画廊さんは現代美術を中心に扱われており、「美術品は見る人の感性」で理解するという考えがあるように思われました。この機会に画廊のビジネスモデルについても伺うことができ大変参考になりました。
次に訪問したのは「小林画廊」さん。銀座らしい立派なビルの一階にあるコンパクトな画廊でした。今回は日本画家の福井爽人さんの作品が展示されていました。日本画とは言うものの扱われる風景は必ずしも日本のものでなくヨーロッパをテーマにした幻想的な絵画でした。日本画のイメージが変わったような気がしました。また絵画にはつきものの額縁についての話もしていただき画商の仕事の一端を理解することができました。参加者には福井爽人さんの随想録「紫の雨」を頂き、これを読むことにより見せて頂いた絵画をもう一度別の角度から味わうことが出来ました。
最後に訪れたのは「ギャルリーためなが」さん。東京、大阪、パリに画廊を経営しており、子供のころの美術の教科書に出てくるような欧米の画家の作品も扱う画廊でした。今回の画廊めぐりでは一番広いスペースで、三つの部屋には別々のテーマの作品群が展示されていました。ここが私にとっては一番敷居の高そうな画廊でしたが入ってみれば安心して作品を鑑賞することが出来ました。
今回の画廊めぐりで分かったことは、外から見ているほど画廊は入りにくいところではない。気に入った画廊には立ち寄って作品を見せてもらえばいい。何か聞きたいことがあれば係りの方に聞けば色々と教えていただける。画廊側の皆さんはたとえ冷やかしでもお客様に入っていただくことからビジネスチャンスが始まるので、今まで気おくれして入らなかった画廊にも気軽に入ってみることは歓迎されると思いました。なんか人生の幅が広がったような気分です。
[阿舒庵亭主]
2012年9月19日 09:00
ときどき立ち寄る築地本願寺の境内には親鸞聖人像のほかに色々な碑や塔がある。本願寺のパンフレットによれば芭蕉句碑、土生玄碩墓、間新六供養塔、森孫右衛門供養塔、酒井抱一墓、九条武子夫人歌碑、そして親鸞聖人像がある。
本願寺のパンフレットにはないが、片隅には日清戦争、日露戦争の戦没者の供養塔や台湾での物故者遺骨安置所などもある。児玉源太郎が寄進した凱旋釜の碑がある。と云っても釜らしきものは見当たらない。これらの碑には中央区の説明板もなく来歴は詳らかではないが、是非、説明板を検討してもらいたいと常日頃思っている。
さて九条武子は柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された歌人であるが、何故、ここに歌碑があるのかに興味を持って調べてみた。
武子は西本願寺第21代法主大谷光尊の次女として1887年に京都に生まれている。1909年には公爵家出身で正金銀行に勤務する九条良致と結婚し夫の勤務先兼留学先であるロンドンに渡るが翌年、単身で帰国する。そのころから佐々木信綱に和歌を学ぶようになる。1911年義姉・大谷籌子裏方の早世に伴い、30歳の若さで仏教婦人会本部長に就任する。その頃、仏教に基づく教育との視点から、現在の京都女子学園・京都女子大の設立にも参画する。
1920年には夫が帰国し現在の新宿区下落合に居を構え、夫婦同居が実現される。1923年の関東大震災により崩壊した築地本願寺の再建に努めるとともに、同地に臨時救済事務所出張所をおいて救済事業の陣頭指揮をした。また、上野公園に託児所、日比谷公園には臨時の診療所を造った。これが現在の「あそか病院」の基礎となった。
九条武子は西本願寺の大谷伯爵家の出であり、大正時代の代表的麗人であるだけでなく、女流歌人であり社会事業家であった。築地本願寺の九条武子夫人歌碑の和歌は
おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや(築地本願寺歌碑)
1928年震災復興事業での奔走の無理がたたのか、敗血症発症により42歳の若さで世を去っている。
[阿舒庵亭主]
2012年8月10日 15:00
江戸の街歩きをするようになって気づいたのだが、町々に多くの稲荷のお社が見られる。そんな稲荷の一つが中央区日本橋三丁目の「於満稲荷」だ。愛称「養珠院通り」の中華料理店「八重洲大飯店」と「酒席いづみや」の間にある小さなお社で気を付けていないと通り過ぎてしまう。
徳川家康には二人の正室と二十人近くの側室がいたと云われている。その中で、徳川御三家の内、紀伊徳川家の初代、徳川頼宣と水戸徳川家の初代、徳川頼房の二人の大物の生母が「お万」の方である。江戸詰の武士階級の必需品を供給するために日本橋界隈には商家が軒を連ねた。中でも徳川御三家に出入りが許される商家は商いの規模も大きく繁栄した。
お万の方は家康亡き後は落飾して養珠院として紀伊徳川家に暮し家康の菩提を弔ったと云われている。日蓮宗の信仰の篤かったお万の方は池上本門寺等にも各種の寄進をしたと云われ日本橋の商家にとっては大切なお客様であった。
お万の方亡きあとに、その遺徳を偲ぶべく稲荷を勧請した。本来なら「於万稲荷」であったであろうが、紀伊、水戸徳川家を憚り「於満稲荷」としたと云われている。
平成の御世になっても、「於満稲荷世話人」の皆さんが手厚く尊崇され信 仰が続いている。私は稲荷信仰とは縁遠いが、日々、於満稲荷のお世話をする世話人の一人、「酒席いづみや」の女将さんから時に於満稲荷の来歴を聞いている。
「いづみや」は当地に開業して60年余とのことであるが、元々ご先祖は鉄砲洲で酒問屋を営み「下り酒」を扱っていたとのことである。今は日本全国の銘酒を楽しむことが出来る。サラリーマンを引退した年金世代も安心して出入りできる品ぞろえの居酒屋で日本酒愛好家の私は重宝している。