[寿敦卿]
2009年6月30日 17:00
数ある江戸絵図の中で、内容が確実な最古のものは「寛永江戸図」とされています。
図の中央下部、やや右寄りに二つの島が並び、その間に「新堀」の書き込みがあります。
新堀は現在の日本橋川の河口部分、左が霊岸島、右が箱崎のある「永久島」ですが、永久島には、駿河大納言様御蔵屋敷、向井将監下屋敷、その左側に「町や」と書き込まれています。
図は[中央区沿革図集・日本橋篇」所載のものを参照しましたが、寛永9(1632)年頃の江戸市街の姿を写したものとみられ、この時期までに、島・町はすでにできていたことは確実です。
一方、「中央区年表」元和6(1620)年の項には、この頃新堀を開削、町家を立てたという意味の記述がありますが、これは「東京府志料」に基づくもので、この時期に、この島には北新堀町と箱崎町がすでにあったことを反映していると見て間違いはないでしょう。
元和年間の創設とあれば、いわゆる「江戸古町300町」に名を連ねていたのは当然のことでしょう。
[うめさん]
2009年6月30日 17:00
うめさんです。
今日は中央区のいいところ2回目@日本橋です。
コレド日本橋の裏手にある「名水白木屋の井戸」です。江戸時代の日本橋
の住民が
良水の確保に苦しんでいたところ、呉服商だった白木屋二代目当主の大村彦太郎が井戸掘りを
し将軍家に献上するほどの清水がわきでできたそうです。現在は東京都指定文化財として石碑が
立っています。(中央区観光j検定公式テキストブック参照)
大通りの裏手にも江戸時代の歴史を感じられる場所がありますのでぜひみなさんも行ってみてくださ
い!
[下町トム]
2009年6月30日 17:00
今年も早いもので半分が過ぎようとしています。1年の折り返し地点です。
古来より六月末には〝夏越の祓〟(なごしのはらえ)として、半年の穢れを落とし、厄病を払うために、各地の神社で神事が行われてきました。平安期の<延喜式>にも記載されているそうです。
この行事においては、<茅の輪くぐり>が営まれることが多いようです。中央区内にも歴史ある神社が多く、いくつかの地域で目にすることができます。
この日は〔築地波除神社〕に参詣してみました。梅雨の滴が静かに落ちる休日の午後、心静かに半年を振り返るひとときになりました。
「今年後半、よいことがありますように」・・・平和で賑わいのある地域の発展を祈るばかりです。
[三日月]
2009年6月30日 17:00
6月20日(土)午後6時から日本橋区民センター内の日本橋劇場で古典芸能鑑賞会を見ました。
幼い頃、両隣のおばあさんが夕方になると三味線で芸者ワルツをひいていて、いつも同じところでどちらかのおばあさんが間違ってとまっていたので、あまり上手ではなかったと思うのですが、三味線の心地よい音色が大好きでした。
人形町の小道を歩いていると三味線の音色を今でもたまに聞くことができます。明治座の公演があると甘酒横丁の三味線屋さんが演奏をされていることもあります。そういう時は、つい立ち止まって三味線の音に耳を傾けてしまいます
三味線の演奏会に行きたいと以前から思っていましたところ、中央区のポスターで古典芸能鑑賞会を知り、初めて鑑賞しました。2時間あまりでしたが、江戸の文化・歴史の講演、常磐津浄瑠璃のお話、舞踊大和楽、義太夫、舞踊清元と盛り沢山で、大好きな三味線の音色や舞踊などに感動しました。一度にいろんな分野の芸能が見られるので、自分のように初心者の方にもお勧めです。
演奏や公演をされている方が中央区民の方々で江戸時代からの伝統を守られ、年に一度素晴らしい芸を披露してくださいます。「芸事を始めるには6歳の6月6日が良い」「直江兼続の屋敷跡は現在の警視庁」など興味深いお話もありました。そして見に来られている方々は着物の方が多く、江戸時代もこんな風に江戸四座の芝居をこのあたりで鑑賞していたと思うと感慨深いです。今から次回が楽しみです
[ケン]
2009年6月24日 09:00
日本でもっとも有名な繁華街の一つ、銀座。江戸時代から続く老舗や、流行最先端の高級ブランドショップなどが軒を連ね、賑わいのなかにも、そこはかとない品格を感じさせる大人の街です。
四丁目交差点
さて、皆さんは銀座で道に迷ってしまったご経験はないでしょうか。銀座はほとんどの通りが直角に交わる碁盤の目状の街です。どの交差点も四つ角という点では同じに見え、銀座に慣れないうちは自分がどこにいるのか分からなくなてしまう時があるように思います。
ではどうして銀座はこのような碁盤の目状の街になったのか―。その理由はおよそ400年前、家康が江戸という街を造った時期にさかのぼります。銀座が家康によって、"町人地"として整備されたのは江戸時代初期の1612年。家康は、ほとんど人が住んでいなかったこの土地を、碁盤の目状に区画整理し、町人に与えたのです。その際に作られた通りである東海道(=現銀座通り)とその裏通り(=現並木通り)、またそれらと直角に交わる通り(当時は横丁と言いました)である銀座柳通り、マロニエ通り、晴海通りなどの位置関係は、なんと400年前とほとんど変わっていないのです。ちなみに現在の銀座のメインストリート、銀座通り(この通りが旧東海道に当たることを知らない人も意外に多いのでは...)の車道の道幅約16メートルは、江戸時代の道幅とほぼ同じです。江戸時代は、江戸城へ登城する参勤交代の大名や、絢爛豪華で知られた朝鮮通信使たちの通り道でした。歩行者天国の折に、400年前に思いを馳せながら、銀ブラしてみるのも楽しいと思います。現代の流行の最先端と、400年の歴史の重みが、ごく自然な形で溶け合っている銀座。そんなところにもこの街が人を惹きつける秘密があるのかもしれません。
銀座(中央)通り
[巻渕彰/写楽さい]
2009年6月19日 10:00
「一番高いところ」といっても「地価」「建物高さ」にあらず、「標高」の話。
中央区の地形は山なし谷なし坂もなく平坦で、自転車走行やまち歩きには比較的楽なところである。
千代田区や港区を歩くと坂道が多いのがよく分かる。中央区の大半が埋立地であったことが実感できるのだ。
そもそも、全国の標高をはかる基準になった場所が
中央区で、霊岸島量水標であった。ここで明治初期に潮位観測して零位(A.P.)を決め、これをもとに東京湾平均海面(T.P.=標高0m)が定められて、「水準標石」が設置された。
この歴史的な水準点から国会議事堂前の憲政記念公園内にある現在の日本水準原点(24.4140m)が測量決定されたのだった。
区民史跡の霊岸島検潮所・量水標跡はよく知られたところであるが、見逃せないのが、そこからやや離れた位置に存在する「一等水準点『交無号』」(写真上)である。平成18年(2006)、現在地に移転したもので、平成21年(2009)2月に説明板が設置された。ここの標高は3.24mとある。
ところで、
中央区で標高の一番高いところはどこだろうか。
資料(「水準基標測量成果表」平成20年(2008)7月、東京都土木技術センター)によると、中央区には20地点の標高(東京湾平均海面(T.P.))が載っている。
標高の高い地点は日本橋本石町三丁目で4.7619m。つぎは銀座五丁目4.7562m、銀座八丁目3.8337m(写真下=銀座八丁目の水準基標)とつづく。やはり、銀座は「地価」も高いが、「地盤」も高いようだ。
一方、低い地点の標高は0.7360m。よって区内標高の高低差は約4mで、ビルの1階分ほどの高さだ。
標高の高い地点をたどっていくと、古来の本郷台地延長線から江戸前島と呼ばれた稜線に沿っているように思える。かつての東海道筋もここに通されたようで、地形を生かした都市づくりがあったのだろうか。
■「中央区 ここに歴史あり」シリーズ
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>