[与太朗]
2010年9月29日 08:36
「パン(牧羊神)の会」は明治四十年代、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・高村光太郎・石井柏亭・倉田白羊らが中心となって、新しい芸術を追求する青年文学者・美術家を集めた交遊会です。セーヌに見立てた隅田川に近い店が会場となりましたが、明治43年11月20日には大伝馬町二丁目瓢箪新道の西洋料理「三州屋」で盛大に開催されました。・・・ということで今日は「瓢箪新道」を歩いてみました。
江戸の切絵図を見ると、「ヒヤウタンシンミチ」は本町通りの南の裏通りでした。東に行くと大丸呉服店の裏通り「大丸シンミチ」になります。現在の地図でも道路がそのままの位置に残っています。人形町通りの西側、現住居表示では日本橋大伝馬町6と日本橋堀留町1-11の間、50mたらずの道が「瓢箪新道」でした。 [写真上] それでは「三州屋」はどのあたりにあったのか? 六十年以上前にこのあたりを尋ねた野田宇太郎『文学散歩』によると、「三州屋のあったところは、その瓢箪新道がまもなく左右にのびた裏通りの問屋街と交叉した手前右角で・・・」とあるので、 [写真右]のあたりだったようです。
会の当日、店の前にはメンバーが作った提灯が下げられました。「瓢箪新道というと私は暗い横丁の土蔵に面した入口のところに、牧羊神の顔を大きく描いた白張の提灯が、ふらふらと風に動きながら、ぶら下っていたのを思い出すのである。」(吉井勇「大川端」) この時の「パンの会」は中心となるスバル、方寸に加え、白樺、三田文学、新思潮同人らも参加。あまり広くないこの店に数十名の芸術家が一堂に会し、大盛会・大酒宴となりました。
谷崎潤一郎はここで初めて永井荷風に会います。「先生! 僕は実に先生が好きなんです! 僕は先生を崇拝しております! 先生のお書きになるものはみな読んでおります! 」酔った勢いでこう言ってお辞儀をすると、酒を飲まない荷風は「ありがとうございます。ありがとうございます。」とうるさそうに応えた、と谷崎の『青春物語』にあります。翌明治44年11月、荷風は「三田文学」に『谷崎潤一郎氏の作品』を発表、谷崎を激賞し、彼は一躍文壇の寵児となります。
木村荘八の有名な油絵『パンの会』(昭和3年)は兄の荘太も出席したこの日の会の情景を想像しながら描いた作品といわれています。
[巻渕彰/写楽さい]
2010年9月24日 11:20
京橋川と三十間堀そして八丁堀(のちの桜川)と楓川(もみじがわ)の4つの堀川が交わる場所に3つの橋が架かっていたので、通称「三ツ橋」と呼ばれた。現在地は、高速道路の京橋出入口付近で、銀座ラフィナート(旧京橋会館)前に「三ツ橋跡」の説明板(写真上左)が、弾正橋東詰南側に橋の由来碑が建っている。
江戸期の情景は『江戸名所図会』に「三ツ橋」として描かれていることでもよく知られているところである。同書には「北八丁堀(現八丁堀3、4丁目)から本材木町八丁目(現京橋2、3丁目)へ渡るを『弾正橋』(松屋町の角に島田弾正小弼の屋敷があった)と呼び、本材木町から白魚屋敷(現銀座1丁目)へ渡るのを『牛の草橋』という。また、白魚屋敷から南八丁堀(現新富1丁目)へ架かるのを『真福寺橋』と名付けた」とある。
図会を見て興味深いのは、4つの川の交差点であったが、橋が3つしかないことである。つまり楓川には弾正橋、京橋川には牛の草橋、三十間堀には真福寺橋が架かっていたが、八丁堀には架かっていなかったのだ。でも3橋だけでも4つの地点にも行けることがわかる。北八丁堀から南八丁堀へは3つ全部の橋を渡ることになるのだが。当時は対角線に架かる橋は見当たらないので、これでよかったかもしれない。現代ならば4点を結んだ橋梁を架けるのだろうか。
「牛の草橋」(のち白魚橋)も「真福寺橋」も埋め立てられた。現在、「弾正橋」(写真上右)は下の楓川は埋め立てられ、高速道路となったが、その上の鍛冶橋通りに架かっている。
旧弾正橋は明治11年(1878)にわが国ではじめて国産の鉄鋼を使った橋として有名である。その雄姿が今も現役の橋として、深川の富岡八幡宮の東、八幡堀跡に架かっている「八幡橋(はちまんばし)」(写真下左)である。鉄材は工部省赤羽製作所で製造されたもので、橋の一部に菊の紋章(写真下右)が残っている。長さ15.2m、幅2m、単径間アーチ橋で、米国人スクワイアー・ウイップルのウイップル形トラス構造。昭和4年(1929)移設、改称された。平成元年(1989)米国土木学会から栄誉賞が贈られた。現在、国指定重要文化財(建造物)になっている。
[坂の上のねこ]
2010年9月24日 10:10
今年最後の残暑となった9月22日、まち歩きツアー「日本橋老舗めぐりコース」のお手伝いをしてきました。
このコースでは、「にんべん」「山本海苔店」「榮太楼總本店」という3つの有名老舗店を訪問して、お店の歴史や商品の裏話を伺います。今回は特派員のケンさんと一緒にお手伝い。ケンさんは京都出身ながら江戸の歴史・地理に造詣が深く、お話上手なので心強い限りです。
一軒目はにんべんさん。元禄12年(1699年)に戸板を並べて鰹節と塩干類の商いを始めたのがここ日本橋のお店とのこと。時代と共にその姿を変えてきた店舗は、日本橋室町東地区開発のため10月21日に一時休業し10月28日からはcoredo室町で営業を始めるそうです。
店内の神棚が老舗の風格を感じさせます。
左:お店の歴史と鰹節の製造工程を説明してもらいます(鰹の模型がかわいい!)
右:削りたての鰹節の香りと味を体験(どちらもブログではお届けできず残念!!)
その後、店内で楽しいお買い物。試飲したお吸い物がおいしくてびっくり。しかも、瓶入りの白だしをお湯で伸ばしただけというので2度びっくり。鰹節・だし関連商品はもちろんですが、炊き込みご飯の素もおすすめです。
次に向かったのは山本海苔店さん。創業は嘉永2年(1849年)。店内は、船底のように大きく湾曲した天井、風をはらんだ帆を思わせる壁、海苔の雄性細胞を図案化した信楽焼タイルと、海苔船をイメージした造りとなっています。
左:創業当時から明治初期まで使われていた、海苔を保存する「囲い甕」
中:海苔の缶や、そろばん、台帳など昔の道具
右:山本陽子さんがモデルを務めた広告を並べた写真(昭和51年~現在)。山本さんは、昭和42年(1967年)から山本海苔店のイメージキャラクターとして広告やCMに登場していますが、これはギネスにも登録された世界最長記録なのだそうです。
お店の歴史について学んだ後、試食とお買い物。焼きたて海苔の味と香りをブログに貼付する方法があればいいのに・・。
左:海苔を焼く実演
中:その焼きたての海苔を買うことができます
右:キティちゃんの海苔はお土産に人気
そして最後は榮太楼總本舗さん。創業は安政4年(1857年)。お店の前で説明を受けましたが、入る前からすでに見所がいろいろあって、さすが老舗店。
左:お店の印半纏には創業時の屋号「井筒屋」の名残が
中:名石「榮太楼の赤玉石」
右:創業時、店の入り口にあった「御影敷石」
左:きんつば。四角いものをよく見かけますが、「つば」は刀の鍔なので本来は円形
中:今の季節にぴったりのかhttp://www.chuo-kanko.or.jp/blog/assets_c/2010/09/km37-3122.htmlわいい「月見うさぎ」
右:店内でゆっくりお食事もできます。4半世紀前、日本橋OLだった私は、ここでお昼を食べるのが楽しみでした。
さて、そろそろお開きの時間。3つのお店を回ってお話を伺い、買い物を楽しんでいるうちに、あっという間に2時間が経ってしまいました。 知識もお腹もいっぱいです。お店の歴史・裏話は、とてもブログには書ききれませんので、ぜひそれぞれのサイトをご覧下さいね(記事中のお店の名前をクリックすると各サイトが表示されます)。
[銀造]
2010年9月22日 08:30
9月16日に妻と二人で、明治座に行ってきました。
中村梅雀さん、菊川怜さん主演の「「女は遊べ物語」。梅雀さんのお芝居は言う事なし。
菊川怜さんが、こんなにお芝居が上手とは! 美しく、可愛い女房役でした。
予約席は、1列目の17,18番。 お芝居は、小谷城攻めで、梅雀さんが演じる「伊藤七蔵政国」役と守りの城兵との太刀、槍のチャンバラで始まります。
殺陣のリアルな事!槍が飛んで来そうで、刀が当たりそうで、何度も仰け反りました。
さて、予約した観劇券を入手。
インターネットで、一番前の席を予約しました。
一歩、中へ入ると、劇場内のシャンデリア。
隅田川の川の流れを表現している様です。
ちょっと劇場内を探検。車椅子の観客にも配慮しています。角で、車椅子を停めて観劇できます。
ここは団体客が予約したお弁当を召し上がる「藤の間、桜の間」
それでは、席に着きましょう。 開演前、期待で胸が高鳴ります。
幕間にちょっと、お買い物と咽喉の渇きを癒しましょう。
おっつ、幕が替わっています。緞帳です。(どんちょう。ダンチョウではないのですね。)
姑役の、音無美紀子さんの演技が光りました。また、行きたいな。
感激で興奮が冷めない中、
甘酒横丁のお店で、また
観劇談義に花を咲かせました。
明治座さんのHPは、こちら。http://www.meijiza.co.jp/
[サム]
2010年9月17日 12:00
9月15日実施の「2010まち歩きツアー」 産業コース <"重要文化財"日本橋高島屋コース>のご報告。
今回は全10名の参加で、観光協会特派員でもあるコンシェルジュの敷田さんの案内により10時に出発。
玄関先での概要説明に続き、正面からぐるっと建物外観を見て廻った後、1F、2F、ついで屋上見学。
創建時の建物は「東洋趣味ヲ基調トスル現代建築」で昭和8年竣工(設計:高橋貞太郎)。以後4期の増改築(設計:村野藤吾)を重ねて1街区を占める店舗となった。
平成18年に都選定歴史的建造物に指定。平成21年 "約30年増築を重ね乍ら意匠的に一体不可分のものとして完成度が高い" との評価でデパートとして初めて「重要文化財」に指定。
① ② ③
①正面口の鉄扉:和洋のデザインモチーフが融合した、重厚な鉄扉。
②正面口の天井:和風の伝統様式、格天井。漆喰彫刻も創建時のまま。
③正面口の水飲み場跡:花をモチーフにした装飾が施されたアーチ型形状。
④ ⑤ ⑥
④正面上部:重厚な西欧様式と和風建築意匠。(アーチ窓と庇の垂木)
⑤南側5階バルコニーの塑像:笠置季男の作品。
⑥南側の外壁:左側は創建時部分。増築部分は2階~6階までガラスブロック使用。
⑦ ⑧ ⑨
⑦東京メトロのサインも"高島屋仕様"。
⑧シャンデリアは戦時中の金属類回収令で供出。現在は村野藤吾デザインのもの。
⑨柱頭飾りに施された石膏彫刻は和洋のデザインモチーフが融合。
⑩ ⑪ ⑫
⑩木目調の大理石。米オーチス社エレベーターは創建時のカゴを改修しながら使用。
⑪13号機1階エレベーター扉:東郷青児のデザイン。
⑫大理石貼りの壁:アンモナイトの化石。
⑬ ⑭ ⑮
⑬大理石貼りの壁:べレムナイトの化石。
⑭屋上噴水:小森忍の作品。
⑮屋上塔屋:昭和25年から4年間屋上で飼われていた子象の"高子"をモチーフ。
尚「高島屋」は創業者の飯田新七の婿養子先である米穀商の店名「高嶋屋」に由来。
「高嶋屋」は、義父に当たる儀兵衛が近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の出身であったことに因んで付けられたと云う。
[O傘]
2010年9月14日 11:10
新大橋通りと晴海通りの交差点に、築地場外市場のランドマーク的存在の「築地KYビル」がありますが、その2階に築地文化発信のための展示・イベントスペース「築地よりみち館」が今年(2010年)の初めに誕生しました。
現在、江戸時代末期~明治初期の築地が描かれた錦絵22点と、現在の築地に関する写真(モノクローム)20点が展示してあります。
最近見てきましたので、ご紹介します。
(左の写真は、築地交差点にある「築地KYビル」)
「築地よりみち館」のある「築地KYビル」2階の床はウッド・フローリングがなされており、
1階の食料品売り場「築地おもしろ市場」に比べると2階は静かで落ち着きがある空間を醸し出しています。
「築地よりみち館」と言いましても、展示のための部屋があるわけでもなく、通路からだれでも自由に出入りできるオープン・スペースです。
錦絵が展示してある展示スペースには、江戸末期の「江戸図」(安政2年(1819年))や「大江戸俯瞰図」(弘化4年(1847年))はじめ、外人居留地として賑わう「東京築地鉄炮洲景」、幻のホテル「東京築地ホテル館之図」、「東京名所築地御門跡」(築地本願寺)(左の錦絵)などの錦絵が22点ほど展示してあります。
その中でも、幻のホテルと言われる「築地ホテル館」に興味がありました。
「築地ホテル館」 日本最初の本格的洋風ホテル
慶応3年(1867年)、築地海軍操練所(現在の中央卸売市場駐車所あたり)の跡地に建設を開始し、明治元年(1868年)に完成。
当時は、洋風ホテル(和様折衷様式)が大変珍しく、東京の新名所として大勢の人が見物に訪れ、絵師たちにより錦絵もたくさん描かれたそうです。
建物は3階建て(一部4階、塔屋付き)。
設計はアメリカ人建築家ブリジェンス、
施工は清水組(現 清水建設)二代目の清水喜助が幕府に願い出て請け負いました。
ところで築地ホテル館の建設計画自体は、幕末期に勘定奉行などをつとめた小栗上野介(おぐり こうずけのすけ)(忠順(ただまさ))が発案し、
実際には小栗の主導のもとで、清水喜助らが建設・運営したと言われています。
なお、小栗上野介ですが、幕末の歴史上の人物にしては知名度が低いように思いますが、
司馬遼太郎(作家)は小栗上野介を「明治の父」と讃えており、
大隈重信に「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」
とまで言わしめたほどの幕末歴史上、注目すべき人物の一人です。
築地ホテル館は、残念なことに、完成から4年足らずで大火により消失し、その後再建されませんでした。
それで後世の人は「幻のホテル」と呼んで、当時の築地ホテル館の雄姿と賑わいを偲んでいるそうです。
「現在の築地」の写真展示コナーもあります。
これは錦絵展示スペースの向かいの壁に、
20枚ほどモノクロの写真が横一列に展示してあります。
写真には、
「マグロの競り」、
「マグロの解体」、
「築地中央卸売市場の俯瞰写真」や
「築地波除神社の獅子頭」
などがあり、現在の築地中央卸売市場の活気を伝えています。
これらの展示期限ですが、同じフロアのインフォメーションに聞いてみましたら、期限が決まっていないそうで、新しい企画がでてくるとその時点で展示が終了することになるそうです。
無料です。ご興味のある方は、是非お早目に「築地よりみち館」を訪れて、幕末・明治初期の築地の賑わい描いた錦絵などをご覧ください。寄り道して見てみましょう。
(なお、このブログに展示作品の撮影・ブログ掲載につきましては、インフォーメーションの方のご了解をいただきました。ありがとうございます。)