[kimitaku]
2011年11月18日 08:30
隅田川にかかる永代橋は、 元禄6(1693)年に、今の場所より150M上流に架橋されました。
外観はがっしりとしていて、何か男らしい感じがします。
この橋では、はるか昔、悲しい出来事がありました。
当時、橋を修理維持するにも莫大な金がかかり、洪水、焼失の危険もあり、幕府は両国橋を残し
永代橋を廃止すりことになりました。町人たちは自分たちで維持することで、橋を残したものの、
修理補修もままならずでした。
文化4(1807)年 8月19日、富岡八幡神社の祭礼(注)で永代橋は壊れてしまいます。
34年ぶりの祭礼の復活で大いに賑わい、15日の祭礼が雨で延び延び、19日になり、また、
一ツ橋家が橋の下をくぐるまで、橋は通行止めとなり、解除されたとたん、町人たちは一斉に橋を
渡ったため、真ん中が踏み崩されました。そうとは知らない群集が駆け出し、橋は壊れ、多くが、投
げ出され溺死しました。その数440人。
今では偲ぶよすがもありませんが、最近、初老の男性たちに面白い話を聞きました。
昭和20 30年代は、あの橋のアーチを昇り下りし、滑り台代わりに遊んだとのこと。
上から、行き交う車を見下ろしていた、とのこと。大人も、警官も何も怒らなかったそうです。
橋を見ていると、なんとなく、上って見たくなりました。でも危険だからやめましょう。
(注)富岡八幡神社の氏子は、江東区だけでなく、今でも中央区新川、霊岸島にあります。祭礼には
神輿が永代橋をわたり、練り歩きます。 江戸時代は神輿のほか、山車も多く、それに引き屋台、踊
り屋台もでて大いに賑わいました。
[銀造]
2011年11月16日 08:30
今日は、天気が良いので、「銀ブラ」としゃれ込みました。 秋には、シャンソンが聴こえてきそうな街角。 ちょっと、きどって銀巴里跡を懐かしみながら歩いてみました。銀座7丁目の角、MONT BLANCビルから少し東へ入ると銀巴里の碑があります。枯葉よ~、 と、感じたのですが、残念ながら、銀造は小学生。 また、閉店のときは、out of Japan.。 金子由香利さんのヒット・メロデイ「再会」などを、4丁目の山野楽器さんで、買ってこようっと。
お隣の、 銀座 森 前さんは、盆栽の専門店です。
追伸:石碑の片側に建造年月日などを記して残して頂けるのが、本当に嬉しいです。文化功労賞に値すると思います。
[銀造]
2011年11月11日 18:00
平成23年10月30日、見番通りの命名のお披露目の会が開催され、行って来ました。
初めに、挨拶として、銀座西八町会の会長 高坂松次郎様による命名の経緯をご説明いただき、
次に卓話として、講師は新橋 料亭金田中の若主人・東京新橋組合頭取の岡副真吾様による幕末から今につながる銀座の芸者~見番通り命名に寄せての卓話として、軽妙洒脱なお話を頂きました。その内容をちょっと、ご紹介しますと、 新橋芸者のルーツは、
―――金春太夫が賜った居宅地を芸事のお師匠さんに貸し、そのお師匠さんたちは美しい女性が多かったので、大名屋敷の歓送迎などに呼ばれたそうです。 その金春芸能村の常磐津文字和佐(Ms.Tokiwazu Mojiwasa)さんが、当時の江戸幕府の年寄に掛け合って「酌取り御免」という許可を得、芸事を披露することとなり、それが下地となって花柳界が形成されました。―――
幕末、尊皇攘夷を胸にいだき西国から来た若い侍たちは、当時最高級の柳橋では相手にされず、新橋芸者が温かくおもてなしをしたので、ひいきにしたということでした。
それをきっかけに、明治初期には江戸の文化を引き継ぐ柳橋と新興の街 新橋、「新柳二橋(シンリュウニキョウ)」と呼ばれるまでに新橋花柳界は発展したとのことですが、ここでも秘話が紹介されました。―――東海道線が名古屋まで開通の折、明治の元老、外務卿、農商務大臣、内務大臣などを歴任した長州藩出身の井上馨が新橋駅から名古屋駅まで汽車を一輌借りきりで新橋芸者を名古屋の花柳界に招待し、そこで踊りを披露させたそうです。 当時の名古屋は、八代将軍吉宗と争った尾張候の芸能奨励以来、商売・芸事、共に大変盛んであったそうです。
残念ながら、この時の新橋芸者衆の踊りは名古屋では評判が良くなく、名古屋の芸妓に、「東京から離れ遠くから聞いていたときは、さぞや綺麗なことだろうと思っていたけれど、近くで見ると大したことがない。 まるで、「岐阜提燈」と罵られ、恥をかき、大変悔しい思いをしたそうです。 肩を落として新橋へ帰ると、土地の重鎮が一年発起。全国から宗家家元と呼ばれる一流の師匠を迎えました。 稽古に稽古を重ね、もっと上手に踊りたいとの思いが、大正14年の新橋演舞場の建設に繋がっていったとか。
最後に、素敵な舞踊が披露されました。 踊りは、長唄「雛鶴三番叟」
立方(踊り)は、喜美弥、秀千代、地方(三味線などの演奏)は、絹子・照代・由良子・晶子・史恵さんでした。 素敵な踊り、お許しを得て、1枚ご披露します。
来年の「東をどり」が楽しみだなぁ。 今年の「東をどり」のレポートは、こちらです。http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2011/05/87.html
[浜太郎]
2011年11月10日 08:30
浜松市出身で江戸の町作りの功労者の一人に馬込勘解由の名が浮かんで来る。
馬込勘解由にまつわる資料は少なく、一部は「江戸東京博物館」に保管され、その全貌は未だ調査、研究中の部分も多いと言う。家康の江戸入府以来、道中伝馬役として又、町名主として家康を陰で支え、荒涼とした江戸の地を整備、発展に腐心した人物の一人であることは間違いないと思う。
浜松市の、ほぼ中央を南北に流れる川が馬込川である。史実によると、この川に架かる馬込橋で、大阪の陣から戻る家康を、500人の人足を引き連れ、お迎えに参上したことに由来し、以後、馬込の苗字を名乗るよう申し渡された。
同時に、宝田村(現在の呉服橋より東京駅近辺)の広大な空き地を与えられたが、その後、江戸城拡張の為、大伝馬町に移転を命じられた。今でこそ、中央区の繁華街と言えば、銀座、日本橋界隈であるが、当時は馬込勘解由率いる、その名の通り、伝馬町が盛り場となり、旅籠屋だけではなく、江戸の交通、物流の中心となり、又三河、伊勢より木綿問屋が進出し、商業の町としても活況を帯び、その賑わいは、今日の大伝馬町とは比較にならないと言う。
馬込勘解由の名は、家康の時代より明治初頭まで、ほぼ代々世襲として継承され、どの時代の馬込勘解由なのか不明な点もあるが、江戸の歴史、文化の基礎を作った中心人物として、脚光を浴びる日は必ず来ると思う。
(右下の写真は「於竹大日如来井戸跡」の石碑。これにはお竹は馬込家の下女とある。
馬込家の屋敷の広さをうかがい知る。)
[滅紫]
2011年11月10日 08:30
9月から始まった早稲田のエクステンションセンターとのタイアップ講座「江戸しぐさの実際を学ぶ」を受講中。この講座は昨今注目度の高い「江戸しぐさ」が生まれた背景とそれを理解するための江戸のビジネスの実際を学んでいくものです。講師の該博な知識と洒脱な語り口、お人柄で人気の講座。今までに「江戸のリサイクルビジネス」「江戸のコンビニ」「江戸のウオータービジネス」と学んで「江戸のファストフード」の時「復元された江戸前鮨」のお話を伺い「行って見たい」と受講者の希望が多く、講義終了後体験ツアーを実施していただくこととなった次第。
今回お邪魔したのは「大川握早漬(にぎり)」として当時の「江戸の握りずし」を再現している3店のうちのひとつ。こちらでは幻の米「関取米」、酢はミツカン「三ツ判山吹」(当時、半田の中埜酢店が酒粕を使った酢(赤酢)、三ツ判山吹を発売)を使用。ネタは「守貞漫稿」と川端玉章が描いた絵に示されたものを再現。ではご覧ください。江戸の握り鮨です。
当時のシャリの大きさは一貫45gだったそうで、現代は平均15g、従ってそのままでは全種類をいただくのは難しい。というわけでこの45gサイズのままの再現は鮪のヅケのみ。他は15gです。
寿司はご存知の通り、ナレズシ→ナマナレ→早寿司(江戸中期)→握り寿司(文化・文政)と進化し、握り寿司を創案したのは花屋与兵衛というのが通説となっています。「手っ取り早く美味しいものが食べられる」と江戸っ子にピッタリで握りずしは江戸に根付いたものとなっていったようです。ご主人のお話によると、当時の人気のネタは鯛、ヒラメ、コハダ、玉子、穴子などだったそうですが、今回は干瓢巻き(わさび入り)、炙り鮪、蛤も入っています。当時と同じく、ネタはすべて火が通っておりしっかりと味がついているのでお醤油は不要とのこと。現代の握りに慣らされている私たちには最初シャリの酢と塩が少しきつく感じられますが 目の前の寿司を300年近く前の江戸の市井の人々も楽しんでいたのだと思うと気分はすっかり「江戸人」です。銭湯の帰りなど小腹が空いた時、1-2貫つまむというのが多かったそうです。
区民カレッジの講座はジャンルも多岐にわたり魅力的なものが多く、まだ受講されていない方には是非お勧めです。ご興味を惹くものがきっと見つかると思います。
www.city.chuo.lg.jp/kurasi/bunka/syogaigakusyu/
TEL3546-5524(中央区文化生涯学習課)
再現しているおすし屋さん:やよい鮨:江東区森下3-2-10 TEL3631-0591(大川にぎりはTELで要予約)
[北遊人]
2011年11月 5日 08:30
東日本橋2丁目ちょうど薬研堀不動院の後ろに、矢ノ庫稲荷神社があります。
此の度の"薬研堀不動院開創420年"にあわせ、新社殿が奉納されました。
奉納碑がたてられています。
縁起は前のままです。
ご紹介します。
縁起
今の隣接する東日本橋1丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃、正保2年(1645)幕府が米蔵を建て
谷野蔵、矢之倉と称されていました。その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社を
まつりました。三社は中央に谷野蔵稲荷、左に福富稲荷、右には新左衛門稲荷からなりたっておりましたが、50年ほど経て元禄11年(1698)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に三社稲荷を一緒に移されました。御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんでそこに三社稲荷を残し今も尚東日本橋一丁目に「矢ノ庫三社稲荷」として祭られております。後年明治6年(1873)に「新左衛門稲荷」が、
昭和7年(1932)には「福富稲荷」が当町にある「初音森神社」に遷座合祀されたと伝えられ、残る
「谷野蔵稲荷」は、幾多の変遷、場所を変え現存地にその社を構えるに至りました。その名称に使われている文字もいつの頃から「矢ノ庫稲荷」と特に「庫」の字を強調した呼称に改められました。
祭神は三社稲荷神社と同様「宇賀魂命」と考えられ御神体は勿論現存しないわけですが「翁の形で
手に鎌と稲穂を持つ」と伝えられております。
昭和53年2月 矢ノ庫稲荷世話人
(現在地の地番は東日本橋2丁目です)
米蔵の件については、日本橋中学校舎の西南角に「矢ノ倉」の碑が建てられています。
右側には建てた趣旨が書かれています。
趣旨
由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しむの余り旧跡として後の世の人々の語り草ともなればと、町内有志が相寄って町会記念事業として、この碑を建立したものである。
東日本橋1丁目矢ノ倉町会有志一同
左側には由来が書かれている。
由来
江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之
御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末まで
この地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。昭和46年4月1日住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。
江戸時代からの旧町名の保存を記念としてこの碑を建立する。
昭和50年11月3日
( この辺りは、町会はみな旧町名です。またお米屋さんも多く存在しています。)