[お江戸のマーシャ・堀内]
2016年8月18日 09:00
日本橋三越本店6階で、「~超絶技巧~ 明治期の工芸展」が開催されています。
明治時代以前の平和な江戸時代に育まれた日本独自の芸術が、
今、世界各国から評価を受けています。
欧州・仏蘭西のジャポニズムの浮世絵、陶磁器などが頭に浮かぶかと思いますが、
茲では、金属での工芸品が8/22まで展示されています(無料)。
精緻に創られた鳥、龍などが香炉の蓋にある、
人間の感性に訴えかける空間芸術である、
今の人を以っても同じものは創れないのではないかと思わせる。
今まで自分たちでも気づいていなかった日本人らしさの凄さに一つではないかと思う。
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[銀造]
2016年8月17日 16:00
明石町の聖路加国際病院は、1900年に米国聖公会宣教医師として来日したルドルフ・トイスラー博士によって、1902年に開設されました。ルドルフ・トイスラー博士が初代院長に就任されました。
聖路加国際看護大学の構内に、トイスラー記念館と創設者の顕彰碑があるので、ご存じの方も多いかと思います。
聖路加国際病院の病院内にも創設者の説明碑があります。
その近くに、 歴史を詳しく説明したパネルがあります。
1900年から1936年まで、
1945年から1957年まで
そして、1964年から近年までの歴史が紹介されています。
近代的病院への変革と新病院の建設。そして、1995年には、あのサリン事件が。
国際的な大病院というだけでなく、地域の方々の医療にも貢献している立派な病院を誇りに思います。 お時間のあるときに、聖路加国際病院の歴史を改めてご確認下さい。聖路加国際病院の歴史についての発表は、こちらでご覧下さい。http://hospital.luke.ac.jp/about/history/
[CAM]
2016年8月14日 14:00
野口富士男著『私のなかの東京』(昭和53年6月、文藝春秋)の中で、築地小劇場跡の記念碑設置の際の「東京新聞」夕刊記事(昭和52年8月16日付)が紹介されている。
>大正末から昭和にかけ、新劇のメッカとなった築地小劇場(昭和20年戦災で焼失)をしのぶ記念碑が東京都中央区築地の同劇場跡地に完成、15日、演出家千田是也氏、女優岸輝子さんら演劇人や地元関係者ら約百人が集まり除幕式が行われた。
完成した記念碑は、同劇場跡地に建設された電電公社ビルの壁面に埋め込まれており、縦横1メートルの小松石製のレリーフ。焼失前の劇場像が彫り込まれ、作家里見弴氏の碑文が添えられている。
「焼失前の劇場像が彫り込まれ」というのは厳密には誤りである。レリーフに彫刻されているのは大正13年創設当時のもので、昭和8年にいったん新築し直されている。なお、『ものしり百科』69頁でも述べられているように、電電公社ビルはNTTデータ築地ビルに変わっている。
野口氏は、「築地といえば、すぐ明石町の居留地が連想されるが、私たちがただ『築地』といった場合、それは私が中学1年生であった大正13年6月13日に開場されたといわれる築地小劇場をさしていた。」と書き、「学生時代に私は築地小劇場の帰途、何度となく築地川にかかっている亀井橋をわたって銀座へ出た。橋のたもとには小林多喜二が虐殺された築地署があった。川の正面は新橋演舞場で、その左手が東劇である。」という昭和42年に書いたという自らの文章を紹介している。
[みのり]
2016年8月13日 09:00
こんにちは、みのりです。
8月は八重洲通りの中央分離帯に行ってきました。
この八重洲通り(中央分離帯)にある「ヤン・ヨーステン記念碑」は、日蘭修好380年を記念して1989年(平成元)に設置されたものです。
オランダ船リーフデ号の船員であるヤン・ヨーステンは、同船の航海長であるウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに豊後(大分県)に1600年(慶長5)に漂着し、ウィリアム・アダムスは、徳川家康と会見する(リーフデ号の代表者として招かれた)。この年に関ヶ原の戦いで徳川勢が石田光成らが率いる西軍を破る。
徳川家康の側近として仕えるようになったヤン・ヨーステンは、ウィリアム・アダムスとともに徳川家康の外交顧問や通訳として活躍、アジアでの朱印船貿易に従事した。八重洲という地名は、彼の拝領屋敷があったことにちなんだものといわれる。
ヤン・ヨーステンの像は、オランダ人L・P・プラートの作です。
また、この中央分離帯には、「平和の鐘(中央区平和都市宣言記念)」もあります。
中央区は、1988年(昭和63)3月15日に政界の恒久平和と人類の永遠の反映を祈念し「平和都市宣言」をしました。
段上の三角形のアーチは、この宣言を記念するモニュメントとして設置されたものです。
この平和の鐘は、オランダ製で26個のベルによって四季折々のメロディを奏でます。
(設置 1989年(平成元)3月15日 東京都中央区)
●ヤン・ヨーステン(1556?~1623)
耶揚子とも。オランダ人船員。アダムスらとともに、1600年(慶長5)豊後に漂着。徳川家康の外交顧問となる。江戸に拝領屋敷を与えられ、日本女性と結婚し子女をもうけた。オランダの通商に寄与。
●ウィリアム・アダムス(1564~1620)
1600年(慶長5)に、ヤン・ヨーステン等とともに豊後に漂着したオランダ船のイギリス人航海長。徳川家康の外交顧問となり、三浦按針と名のる。相模国三浦郡に領地を与えられ、オランダ・イギリスとの通商に尽力。日本人妻との間に二人の子があった。
<参照>
ヤン・ヨーステン記念碑と平和の鐘の説明
江戸文化歴検定公式テキスト【上級編】江戸博覧強記 編者江戸文化歴史検定協会 発行所(株)小学館
図説江戸ものしり事典 発行所(株)新人物往来社
歩いてわかる中央区ものしり百科 監修中央区観光検定委員会
[銀造]
2016年8月11日 14:00
今日は、東京メトロ築地駅で地図をにらんでいる女性を築地市場にご案内しました。
道々、お聞きしたところでは、彼女はノルウエーの港町トロムソというところから来られたそうです。東京には3日間の滞在だとのこと。
Boyfriendは時差(jetlag)のため、新宿のホテルで寝ているとか。 彼女からの質問で、「日本は異性の友達とは一緒に旅行したりはしないのか?」には、困りました。
「日本は、厳格だから、結婚するまでは、異性との旅行はしない」と言いましたが、「今も、そうなのか? チェンジイングしてないのか?」と、かなり興味があったようです。
まずは、本願寺様にお祈りをして、
門跡通りから場外市場をご案内。
寿司の形をした消しゴム、マグロの加工品をお気に入りで、お買い上げ頂きました。
場外市場のインフォメーション・センター「ぷらっと築地」では、地図を頂いた上に、記念写真のシャッター押して頂き、スタッフが大変親切でした。
波除稲荷神社に参拝し、築地市場の大卸、仲卸への入り方を伝授して、「Enjoy Tokyo and have a nice day.!」と挨拶してお別れしました。
[CAM]
2016年8月10日 09:00
「築地小劇場」は、『ものしり百科』68頁でも紹介されているように、日本で最初の新劇の専門劇場で、1924年(大正13) 6月、東京市京橋区(現,中央区) 築地2丁目に新築開場した。
永井荷風は、1924年(大正13) 6月23日の『断腸亭日乗』で次のように記している(岩波文庫の『摘録』には収録されていない)。
>夜お栄を携へ銀座を歩み築地に出づ。籾山氏邸址の一隅に築地小劇場なるもの建てられたり。土方輿志小山内薫二氏の経営する所なり。之に隣接して活動写真館の如きものあれど夜中にて判明せず。震災後籾山氏の屋敷には樹木鬱然たりしが今は倉庫の如きもの建連りて見るかげもなき處となれり。庭後君曾てこゝに住せし時その庭を眺めて、枝かはすなつめざくろや庭の秋。また枇杷に木によき小禽来る冬日哉など吟じられたり。子が令閨もいまは亡し。庭後子が遅日鶯など題したる著作は皆この築地の邸にて筆執られしなり。其等の事を思へば倉(氵偏)桑の感に堪えず。
以下は、現在の姿。 大正13年当時をしのばせるものは全くない。