北海道のラーメンと言えば、札幌のみそラーメン、旭川のしょうゆラーメン、函館のしおラーメンですが、
銀座で「しおラーメン」 と言えば、函館ラーメン船見坂銀座店(中央区銀座2-12-11)がおすすめです。
一押しは塩そばですが、黄金色の濁りのないさっぱりスープとストレート麺の相性は絶妙です
ぜひお試しください。
執筆者一覧最近のブログ記事 |
日本のマンハッタン、佃・月島・勝どき
まずは下の2枚の地図をご覧下さい。なんだか形が似ていると思いませんか? さて、それぞれどこの地図でしょうか。
左は米国ニューヨーク市のマンハッタン地区、右はご中央区佃・月島・勝どきエリアです。 (形と大きさを揃えて比較するために、マンハッタン島の地図を南北逆にして、 サイズを縦横ともに8分の1としました)
4年前、左のマンハッタン島から右の佃島に引越してきた私が感じたのは両者の共通点。 *両側を川に囲まれた島で、先端が湾に面している *縦横のまっすぐな通りで区切られていて、道がわかりやすい *17世紀前半、マンハッタン島にはヨーロッパ人、佃島には攝津国から来た人が住み始めた *水上交通を利用して交易が行われ、商業・文化の発信地となった
人種のるつぼと呼ばれるニューヨーク市マンハッタンにはおよびませんが、 最近は、
佃・月島・勝どきエリアも外国人居住者・旅行者が増えていますし、高層集合住宅のビルも 次々と建てられ、マンハッタンの風景に近づきつつあります。
佃・月島・勝どきがマンハッタンに自慢できるのは、治安とサービスのよさ。 あとは、どこかにセントラルパークのような広い公園ができれば嬉しいなあ・・。 長谷川時雨『旧聞日本橋』を歩く
「明治に一葉あり。昭和に時雨あり。」 その長谷川時雨が、主宰する『女人藝術』の埋草に書いたという名著『旧聞日本橋』。日本橋通油町に生まれた時雨が「アンポンタン」とあだ名された少女時代を回想したこの作品を読むと、明治初年の生家周辺の街の佇まいや周囲の人びとが生き生きと蘇えり、まるでタイムマシンに乗せられたような気がします。。今日は岩波文庫を片手に、ここに描かれたいくつかの舞台の跡を歩いてみました。 【写真上】は大伝馬本町通り。大門通りから緑橋方面を見る。工事中のスカイツリーが見える。
生家・・・日本橋通油町一番地 長谷川時雨は明治12年10月1日、日本橋区通油町一番地(現・中央区日本橋大伝馬町14)で官許代言人(弁護士)長谷川深造の長女として生まれました。通油町の真ん中を貫く本町通りは日本橋から浅草橋へ向かう江戸時代からの幹線。本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町と連なる問屋筋の多い街で、平行する石町通り(現・江戸通り)に比べ、当時街の位はずっと高かった。通油町は大門通りから浜町川緑橋までの本町通りの両側で、生家は本町通りを背中にして一つ小伝馬町寄りの小路に面していた。この小路は「うまや新道」と呼ばれ、向かいの小伝馬町側に馬車を扱う 大きな運送店があった。この店の前身は伝馬町牢屋敷御用、罪人引廻しの馬舎でした。通油町の中央あたりに加賀吉という眼鏡・硝子問屋の大店があり、憲法発布の時は町内演説会の会場になった。弁者は明治十二年官許代言人、12人しかなかった最初の仲間の一人、当時の新智識と目された時雨の父でした。加賀吉は紅葉門下の小説家・書家である山岸荷葉の生家です。 ところで、通油町といえば江戸時代では一流版元の桧舞台だった所。鶴屋喜右衛門らが店をかまえ、蔦屋重三郎も吉原五十間道から進出、為永春水ものち書肆を通油町に持っています。蔦重の店 には馬琴や一九も働いていました。『旧聞日本橋』にはこの辺について何も触れていませんが、この地のDNAが本好きのアンポンタンに遺伝したのではと空想しています。【写真右上】はうまや新道の生家あたり。 【写真右中】は大門通り。人形町方面を望む。 【写真右下】は緑橋跡。マンホールが見える。
大丸呉服店
【写真左上】大丸呉服店の跡。 【写真左下】お竹大日如来の井戸。うまや新道から二丁ばかり行くと、アンポンタンが通った源泉小学校。その少し先にある。 牢屋の原 維新直後には牢屋敷の一角を無償でくれるというのを父が断った話がありました。伝馬町の大牢は明治8年まで存在し、明治15年ごろから寺院が建立されますが、立揃わないうちは努めて土地の不浄を払おうとしたのか、小屋がけ見世物で賑わったそうです。祖母は毎晩のようにアンポンタンをお供に、牢屋の原にできた弘法さま(大安楽寺)にお参りします。
【写真左】大安楽寺。処刑場跡に建立された。 佃島の住まい 父・深造は晩年佃島の相生橋畔に隠遁します。時雨は明治37年、夫と別居し父母の家に同居します。京橋区新佃西町三丁目5番地(現・中央区佃二丁目)。ここで女流作家の第一人者になっていきます。相生橋は木橋で、橋を渡る人は少なかった。永代橋の際から門前に着く渡し船があり、門の柳が渡し場の目印でした。時雨は佃の渡しで築地居留地の女子語学校(現・雙葉学園)に通ったようです。明治43年9月、佃島は津波で大被害を被りますが、父が丹精した松がしっかり根を固めたせいか防波堤は無事でした。 【写真下】相生橋から佃二丁目を見る。門の柳・防波堤の松はもちろん今は無く、見事な桜並木が続いている。 長谷川時雨は昭和16年8月23日に亡くなりました。冒頭の「明治に一葉あり・・・」は吉川英治の弔辞にある称賛です。また、『女人藝術』から多くの女性作家を世に送り出した大功労者で、野上弥生子は「鴎外や漱石のような不世出の人」と追悼しています。現在あまりポピュラーな存在ではありませんが、中央区内には時雨に関する碑や説明板など見当たらないようですね。(そういえば、中央区観光検定のテキストにも彼女の名前は無かったような。) とても残念な気がしてならないのですが。
「夏の下町の風情は大川から夕風が上潮と一緒に押上げてくる」。猛暑の一日でしたが、夕方近くには昔と同じ涼風が感じられました。 十字屋ランチタイムコンサートと十字屋午後のサロン
銀造さんのブログと少し重なりますが毎週十字屋ビル8Fで十字屋ランチタイムコンサートが開かれて居ります。 銀座でショッピングの後、落ち着いた静かな会場でゆっくり寛ぐ事が出来て自分のその日の予定の中で午後への切り替えに最適の時間 です。 私は先週水曜日に参加いたしましたが、会場の片隅にはコーヒーと冷水のフリーサービスがあり、参加の方々には大切な「ひととき」のようでした。 許可を得てフラッシュを消して写真を撮らせて頂きました。 演奏者の池城菜香さんです。 東京芸術大学音楽部附属 音楽高校3年生に在学中で 今年が高校最後の夏休みだそうです。
第18回 日本ハープコンクール ジュニア部門 第3位受賞 第20回日本ハープコクール アドバンス部門 第4位受賞 8階の会場ではレッスンの為の教室も用意されこのような楽器に触れる事が出きるのも銀座ならではの素晴らしさだと思いました。 9月のランチタイムコンサート 毎週水曜日 12:30~13:00 9月 1日 北政 扶美子(アルパ) 9月 8日 徳永泰子(ハープ) 9月15日 新井 沙弥香(ハープ) 斉藤 碧(フルート) 9月22日 片岡 詩乃(ハープ) 近藤 孝憲(フルート) ※ 演奏者は予告なく変更になる場合がございます。
十字屋午後のサロン ~銀座で素敵なトークと音楽を~2010 ご案内役 十字屋 マダム中村 9月21日(火) 午後2時~4時 (1時半会場) 青島 広志さん 「オペラ410年を90分で」 ~ テノールのアリアにみる変遷~ テノール 小野 勉 & ピアノ・構成 青島 広志 10月7日(木) 午後2時~4時 ペギー葉山さん(歌手) 「夜明けのメロディー」 ~歌で元気を御届けします~ 11月初旬 午後2時~4時 中村江里子さん(フリーアナウンサー) ※ 開催日時等が決まり次第HPにて御案内します
「十字屋午後のサロン」は会費¥5000.(茶菓付)ですが魅力的な素晴らしい方々との出会いがあり楽しい会になる事と思います。 会場 : 十字屋ホール 中央区銀座3-5-4 十字屋ビル9F 会費 : 5000円(茶菓付) 申し込み : 十字屋ホール 03-3561-5250
◆中央区 ここに歴史あり<23> ~八丁堀地蔵橋 今も信仰の「おしろい地蔵」~
町奉行所・八丁堀与力同心組屋敷のランドマーク的な場所が「八丁堀地蔵橋」であった。拝領地のほぼ中央に位置し、亀島川から西に向かっての堀割り(大下水)は地蔵橋(図上左=切絵図赤丸部)で南へ直角に曲がっていた。現在地は日本橋茅場町二丁目と三丁目の丁界でさくら通りとすずらん通りの交差点辺りである。 幕末の与力・佐久間長敬(おさひろ=1839-1923、原胤昭の実兄)は『嘉永日記抄』で次のように記している。「組屋敷内に石の橋があった。旧与力・多賀仁蔵の門前に、すべて自分普請で架けた石橋で、『仁蔵橋』と称していたが、その家が潰れたあと、与力の共有にして「地蔵橋」と改称した。また昔、橋の際に小さな石地蔵があったが、大火のために焼き崩れた、ともいう」。 明治40年(1907)の地図には暗渠らしい形跡になっているので、すでに橋は撤去されていたようだ。永井荷風『断腸亭日乗』昭和10年(1935)の条に「近年埋立られし市中の溝渠・・・八丁堀地蔵橋の辺」とある。 この地蔵橋とゆかりの寺が 同寺は慶長4年(1599)に八丁堀に開創された寺院で、江戸城拡張工事に伴い三田が寺町として指定されたため、寛永12年(1635)に移転した。山門左手にある地蔵堂に安置されたこの地蔵は、寺伝では、寺が移転する前の寛永年間に八丁堀の地蔵橋畔に捨てられたものを、当時の住職格翁宗逸和尚が修復し、白粉を塗って祀ったところ、和尚の顔面の痣(あざ)がきれいに消えたので、人々が自分の体で病気のあるところと同じ部分に、白粉を塗って祈願するようになった、といわれる。今も病気平癒の祈願のために白粉を塗る参詣者があり、信仰が続いている。 第21回中央区大江戸まつり盆おどり大会 ~老いも若きも盆ダンス~
今年も「大江戸まつり盆おどり大会」が8月27日(金)、28日(土)の二日間、区立浜町公園で盛大に開催されました。夕方といってもまだ暑さが残る中、初日に行ってきましたのでご紹介します。
【会場の様子】 「大江戸まつり盆おどり大会」の江戸風大門をくぐってまっすぐ公園を進むと「友好・交流都市コーナー」の広場があり、それぞれの都市のテントでは物産・食品などの特産品を販売していました。 友好・交流都市は、石川町、桧原村、富士河口湖町、東根市、玉野市、栃木市です。 「大江戸まつり盆踊り大会」の門をくぐってすぐ左手には、「大江戸切り絵図」のパネルが目に飛び込んできました。「御曲輪内 大名小路絵図」、「神田浜町 日本橋北の図」、「本所絵図」、「内藤新宿 千駄ヶ谷辺の図」、「東都下谷絵図」など幕末の嘉永年間に作成した貴重な尾張屋版の切り絵11枚(「歳の市保存会」会長 渡辺氏寄贈)が展示してあり、江戸の昔を思い起こさせてくれます。
グランドは盆踊り会場です。 中央に櫓(やぐら)があり、午後4時から「日本の音頭」と題して民謡歌手の皆さん(藤山進さん、志摩ゆり子さん、福田昭三さん)による音頭が櫓の上から披露されて、民謡連盟の人たちがすでに踊りを始めていました。 周辺には、チケット販売所、各町会(月島連合、新川二丁目越一・越二、新富、日本橋三・五・七の部連合、京橋七の部八丁堀山王、勝どき豊海地区)のテント、 このほか、グランドには、久松交通母の会、着くずれ御直しコーナー、ゲームコーナー(有馬小学校、日本橋小学校PTA)、救護所などが設けられていました。 さらに、先日、人形町で開催されました「せともの市」、そしてこれから開催されます「べったら市」、薬研堀(やげんぼり)の納めの「歳の市(としのいち)」のテントも小規模ながらありました。 【オープニング・パレード】 午後5時30分、お囃子の車(浜町囃子山車)と2台の白バイに先導されて、パレードが始まりました。 横断幕は日本橋中学の女子生徒がもち、つづいて江戸消防記念会第一区のメンバーによる木遣り(きやり)と纏(まとい)振りの集団、そして中央区観光大使ミス中央の3人。 その後に元気な掛け声の子供神輿(みこし)・子供風船組(日本橋小、有馬小、久松小、常盤小)が続きます。神輿はそれぞれの小学校の手作りです。
パレードは人形町通りと甘酒横丁交差点を出発して甘酒横丁を通り、清洲通りを渡って浜町公園の会場に入りました。
【オープニング・セレモニー】 (江戸消防記念会の演技)
午後6時過ぎ、ご祝儀にと、江戸消防記念会第一区(主に 梯子乗りの技(わざ)では、「遠見(とおみ)」、「八艘(はっそう)」、「邯鄲(かんたん)」、「腹亀(はらがめ)」、「背亀(せがめ)」、「鯱(しゃち)」「肝潰し(きもつぶし)」そして途中技(とちゅうわざ)で「麻の葉」、「象鼻(ぞうばな)」、「腕溜め(うでだめ)」、「吹き流し」などを見せてくれました。観客から「かっこいい」、「うぉーすごい」のことばと惜しみない拍手が送られていました。 写真は腹亀です。
最後に、江戸消防記念会会長 鹿島靖幸氏による「一本締め(いっぽんじめ)」の手締めが行われました。 (主催者の挨拶) 最初に大江戸まつり実行委員会会長の小堀章三氏(日本橋5の部連合会会長)の挨拶がありました。お子様からお年寄りまで大いに踊って楽しんでください・・・とのご挨拶がありました。つづいて、中央区長の矢田美英氏と区議会議長の中嶋ひろあき氏からご挨拶がありました。 (下の写真は、左から小堀会長、矢田区長、中嶋議長の順)
お招きした来賓は中央区選出の都議 岡田まりこ氏、久松警察署所長 阿部氏、日本橋消防署 原氏で、町会出身の大江戸まつり実行委員会副会長も一緒にずらりと櫓の上に並びました。
オープニングセレモニーに同席した第28代中央区観光大使・ミス中央の澤田知美(さわだ ともみ)さん、三上真奈(みかみ まな)さん、高城あずさ(たき あずさ)さんにグランドでお会いしました。(写真は、左から三上さん、澤田さん、高城さんの順) 1年間、ご苦労さまでした。これからもよろしくお願いします。 【盆おどり大会】
オープニング・セレモニーが終わり、午後6時40分頃からいよいよ盆おどり大会です。 東京音頭などおなじみの盆おどりの曲、そして中央区オリジナル音頭「これがお江戸の盆ダンス」に合わせて櫓(やぐら)の周りに、民謡連盟や町会などのおどりチームを中心に踊りの輪ができました。 ご存知の方も多いと思いますが、ご参考までに「これがお江戸の盆ダンス」の歌詞を載せます。(「東京中央ネット」のサイトから引用しました。)
大人から子供まで皆さん良く盆踊りをご存じで、身振り手振りよろしく、夜が更けていくに従い、大勢の人で盆踊り会場が一杯になり、次第に大きな渦になって踊っていました。 恒例になった「大江戸まつり盆おどり大会」、中央区の人口も増えていますので、「ふれあい」と「絆(きづな)」を深める故郷(ふるさと)中央区の大切なイベントの一つとして、これからもますます発展していくでしょう。 来年も楽しみですね。 |
メニューアーカイブリンク集 |