[ムーミン]
2011年12月20日 08:30
歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』 お富、与三郎の舞台となりました玄冶店(げんやだな)跡地の一角に 、大正元年創業で 数寄屋造り、ミシュランガイドでも有名な 老舗料亭「濱田家」のランチにいってきました。
玄冶店とは 御典医 岡本玄冶(1587~1645)が 将軍家光の病気を快癒させた褒美に拝領した土地に借家を建てて 庶民に貸したことにその名が由来しました。
この料亭に 足を一歩踏み入れると 人形町の喧騒とは 別世界の静寂な世界に浸る事ができました。
一階の待合室には お茶室も整い 手入れの行き届いた お庭も観賞できます。今年の大震災では 庭の石灯篭だけが 横倒しになったそうです。
私達は 二階の二十畳もあるお座敷に案内されました。ちょつとしたお庭もあり 床の間には 花が活けられ 日本画の後藤純男の雪の風景の作品が飾られていました。
座敷の四畳~六畳程の場所は 芸者さんが日本舞踊を舞うことができるようになっています。
人形町界隈の芸者さんは 芳町芸者と呼ばれ 日本の女優一号のマダム貞奴も ここからでています。現在登録されている芸者さんは15人位で 実際活動されている人は 10人位だそうです。
そのうちに お料理が運ばれてきました。献立は 前菜、椀盛、造り、箸休め、焼物、蒸し物、食事、水菓子、甘味 どのお料理も 見た目も艶やかで 味もさすがの美味しさ。 器も素敵で お腹も満腹。 優雅で気持ちの良いひと時を過ごすことができました。
はじめは 高級老舗料亭の敷居が高くて 躊躇していましたが 中央区のハッピー食事券を入手してその食事券が濱田家さんにも使用できるので 思い切って出かけました。
仲居さんは とても親切で 気さくに接待してくれました。女将さんもご挨拶にこられ嬉しいやらの驚きです。
一度は いかれたら良い おすすめの料亭です。 私も何かの機会がありましたら 又 いきたいと思っています。
[illy-ship燦壱朗]
2011年12月20日 08:30
10月、八重洲二丁目の八重洲ダイビル前に尾台榕堂のモニュメントができました。患者の子供がかわいらしく、口を開けています。
越後出身の幕末の漢方医尾台榕堂。このあたりに居を構えていたそうです。
来年の中央区観光ガイドに掲載され、検定試験に登場しますでしょうか?!
[巻渕彰/写楽さい]
2011年12月17日 18:41
武者絵や美人画、風景画、妖怪画、戯画、動物画など幅広いジャンルにわたり、その画風に異彩を放った浮世絵師・歌川国芳〔うたがわ・くによし=寛政9年(1797)-文久元年(1861)〕。本銀町(ほんしろがねちょう)に生まれ、晩年は玄冶店(げんやだな)に住み、終焉の地となった。現在、「没後150年 歌川国芳展」(2月12日まで、六本木・森アーツセンターギャラリー)が開かれている(写真上左)。日本橋で傑作を生み出した江戸っ子・歌川国芳がいま甦ってくる。
国芳は寛政9年(1797)、本銀町一丁目で生まれる。現在の日本橋室町四丁目で神田に近いところである。本名井草孫三郎。文化5年(1806)、12歳のとき歌川豊国に認められて弟子入りしたという。初代歌川広重は同い年で、やはり、当時隆盛の歌川派豊広門人。文政10年(1827)31歳のとき「通俗水滸伝豪傑八百人之一個」シリーズが大当たりして、武者絵で地盤を固める。画面いっぱいに登場人物を描いたダイナミックな構図が人々を魅了したようだ。天保13年(1842)には天保の改革で風俗取締りから役者絵・遊女・芸者などを描けなくなり、そこから戯画や風刺画などに奇才を発揮していったといわれる。
一見、落書き風に見える絵も、実は役者衆を描いたことを見る人は分かってしまう、という滑稽な反骨魂を表している。人の姿を寄せ集めて人物画を作り出すなど、奇想天外な画風で、笑いと遊び心の世界を天真爛漫に描き込んでいった。猫を題材にした作品も多い。国芳の絵は、タウン誌月刊『日本橋』の表紙になっているのでお馴染みかもしれない。近ごろ話題なのが「東都三ツ股の図」(国芳展では後期展示)で、中洲から深川方面を望み、高くそびえ立っている櫓が江戸のスカイツリーか、と思わせる情景だ。
女流劇作家の長谷川時雨は著書『旧聞日本橋』で、国芳について、父(深造)の昔語りとして書いている。
「玄冶店にいた国芳が、豊国との合作で大黒と恵比須が角力(すもう)をとっているところを書いてくれたが、(父は)6歳か7歳だったので、何時の間にかなくなってしまった」「国芳の家は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮らしかただった。(以下略)」(岩波文庫版から)。父深造の挿絵「浮世絵師国芳の住居」(部分=写真上右)も載っている。
嘉永6年(1853)、57歳のときに新和泉町玄冶店(現・日本橋人形町三丁目)に居住し、文久元年(1861)この地で65歳の生涯を閉じた。現在、玄冶店跡には中央区教育委員会説明板が立っているが、国芳の記述はない(写真下左)。墓は小平市上水南町の日蓮宗中将山大仙寺にあり、一勇斎国芳の名が刻まれている(写真下右)。同寺は文禄4年(1595)八丁堀で創建され、正保元年(1644)浅草に移転し、のち戦災に遭い、昭和23年(1948)現在地に再建されたという。●巻渕彰
[滅紫]
2011年12月17日 08:30
「元禄忠臣蔵」を観た翌日、平成中村座で「松浦の太鼓」を観ることに。「義士外伝」の中でも「四谷怪談」と並んで上演回数の多い人気演目。本所の吉良上野介の隣屋敷に住む松浦の殿様が中々討入しない大石内蔵助にいらだっていたが、聞こえてきた太鼓の音に「山鹿流の陣太鼓じゃ!」と言って指を折って太鼓の数を数える場面や「助太刀だ」と興奮して家臣に止められる場面で知られている。浅草の中村座で上演されると本所が近いので「ご当地物」といった気分になれるのも嬉しい。
この芝居の中で大きな役割を果たすのが「俳句」。発端の「両国橋の場」で雪の降る師走、俳諧師匠の宝井其角が笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾に偶然出会う。哀れな姿を気の毒に思った其角は松浦侯から拝領の羽織を与え、「年の瀬や水の流れと人の身は」という発句を向けると源吾が「明日待たるるその宝船」という付句を返して立ち去る。松浦侯は意味がすぐにわかり、その時陣太鼓の音が聞こえてくる。
「江戸名所図会」にも記されている三囲神社の雨乞いの折に作ったといわれる「夕立や田をみめぐりの神ならば」や「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」などの句を残し、蕉門十哲のひとりとして名高い宝井其角は寛文元年(1661年)近江国膳所藩の御殿医、竹下東順の長男として江戸に生まれた。初め母方の姓、榎本を名乗り、後に宝井と称した。延宝初年(1673年)芭蕉の門人となり句集「田舎句合」「虚栗」「枯尾花」などを編む。芭蕉没後、派手さのある洒落風俳諧を推進し「江戸座」と呼ばれた。其角の住まいは南茅場町の薬師堂(智泉院)の近くにあり、ここで没した(1707年)
「梅の香や隣は荻生惣右衛門」という句も「江戸名所図会」に記されていて「・・・その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ」とある。荻生惣右衛門は荻生徂徠として知られている赤穂事件の沙汰を決める際柳沢吉保に進言したといわれている。
日比谷線茅場町駅のみずほ銀行入り口脇に「其角住居跡」の石碑がある。墓は江東区森下の長慶寺にあるそうです。生誕350年なので何かイベントがあったのでは?と検索してみたところ、昨年記念俳句の募集などがあったようです。
余談ですが「松浦の太鼓」(まつうらのたいこ)のモデルとされている松浦鎮信(まつらしげのぶ、こちらはまつらと読みます)は肥前平戸藩6万3000石の第四代藩主。芝居の中にも出てくるように山鹿素行との交流も深く、茶道石州流の一派鎮信流を始めた文化人。因みに隠居後278巻もの「甲子夜話」(大名旗本の逸話、市井の風俗等を書き綴った)を著した松浦静山(1760年~1841年)は九代目藩主。大名にしては稀な剣の達人で野村監督の名言として有名になった「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに・・」はこの静山の「剣談」にある言葉だそうです。
[滅紫]
2011年12月16日 10:00
師走は歌舞伎の「忠臣蔵」物の季節。「忠臣蔵」のSTORYほど長らく日本人に愛され語り継がれてきたものはないだろう。
「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748年)人形浄瑠璃、少し遅れての歌舞伎での上演以来「独参湯」(気付薬)と呼ばれ最もよく知られた歌舞伎狂言である。この12月も京都南座「仙石屋敷」、平成中村座は忠臣蔵外伝のひとつ「松浦の太鼓」が上演中、そして私は12月14日討入の日に国立で「元禄忠臣蔵」三部を観る事になった。(勿論、元禄15年(1702年)12月14日は旧暦ですが)。真山青果の「元禄忠臣蔵」全10作は「仮名手本忠臣蔵」の大ヒット以来数多生まれた忠臣蔵ものの中でも、綿密な時代考証でほぼ史実に忠実な作品としてまた息詰まるような名セリフの応酬で名作としての評価が高い。
今日の演目は「江戸城の刃傷」「御浜御殿綱豊卿」「大石最後の一日」の三部。このうち「御浜御殿綱豊卿」は中村吉右衛門さんの綱豊と又五郎さんの富森助右衛門、梅玉さんの新井勘解由、お喜世の方、芝雀、御祐筆江島、魁春さんです。
この舞台となった「御浜御殿」は現在の浜離宮で、浜離宮はこのブログでもよく採り上げられているのであらためて紹介するまでもありませんが、甲府藩主松平綱重が兄の四代将軍家綱から拝領して海を埋め立てて下屋敷とし、綱重の子の綱豊が六代将軍家宣となって「浜御殿」と呼ばれ将軍家別邸となりました。舞台は甲府宰相綱豊が下屋敷として使っていた頃です。
第一幕は「松の茶屋」今年復元されたばかり。芝居の中で「御台所は中ノ島の茶屋にいる」とのセリフもあるが両茶屋の成立年代は11代家斉の頃と云われている。
この綱豊が後の六代将軍家宣となり、愛妾お喜世の方が側室月光院、家宣の死後息子が七代将軍家継、ご祐筆江島が大奥大年寄江島となり12年後あの「江島生島」事件(1714年)が起きることになる。
この事件の原因となった江島たち大奥女中を山村座に招待したのが一石橋の名前の由来となった片方の「五斗」御用呉服商の後藤縫殿助、事件が起きた日は家宣の祥月命日の1月12日、幕府の沙汰が出たのは3月5日で木挽町にあった山村座は廃座、呉服商の後藤縫殿助は閉門。この後藤縫殿助の屋敷があったのが一石橋南側の江戸呉服町、但し、呉服商の後藤家は幕末頃まで続いていたらしい。
「江島生島」は幕府をはばかり江戸時代には歌舞伎には採り上げられず、明治期になって長谷川時雨の舞踊劇、昭和に入り、舟橋聖一作の小説を歌舞伎化した「絵島生島」が知られている。(余り上演されないので見たことがありませんので詳細不明)TVドラマ化されているのをご覧になった方も多いかも知れません。
国立劇場は今月上演中の「元禄忠臣蔵」に登場する場所を「ゆかりの地」として古地図をプレゼントしています。なかなかいいアイデアですね。
[ゆりかもめ]
2011年12月16日 10:00
前回 ブログにアップしました田中貴金属さんの向かい側に 「つやふきん」で有名な佐々木商店さんがあります。
このお店で 私が一番 紹介したいのは 「佐々木のつやふきん」です。
明治元年に 製作販売をはじめてから140年以上が過ぎました。
ハンカチの大きさの 黄色いタオル地で 布巾のように見えますが 特別の「優れもの」なのです。
タンス 床の間 違い棚 机 筝 三味線 楽器 紫檀 黒檀 唐木細工などの品々を, 軽く拭くだけで 驚く程の輝きが生じ 心地よい気分になります。
真鋳製や銅鉄製の器物も 「つやふきん」で拭けば 錆止めの作用もあり 美しくなります。
この布巾は 洗うと効力がなくなるので 洗う必要はありません。
化学の力でなく 自然を利用した「つやふきん」 1枚 ¥1050・-
イボタノキ、ネズミモチなどの木に寄生するイボタロウカイガラムシのメスの成虫が1センチほどの暗褐色の丸い貝殻を作り中に数千個の卵を産む。6月ごろ孵化したオスの幼虫が7月ごろ小枝に白蝋を分泌して群生し小枝を白蝋の塊で包んでしまう。9月ごろ成虫になるがこの白蝋を集めて精製したイボタ蝋はいろいろ工業用・薬用に用いられる。「つやふきん」はこれを布に浸み込ませて作ったものである。
高価なパイプ類です。
昔の洋画に出てくる場面を思い出します。
タバコを吸わなくてもこのように沢山のパイプを見ているとぞれぞれの特長があり面白いです。
私の父がタバコを特別に好きでもないのにパイプを加えて居た場面を思い出します。
(有)佐々木商店
東京都中央区銀座1-8-17
03-3561-3554